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黄金の天子 ~我が皇帝に捧ぐ七つの残光~  作者: イブスキー
第九章 冬の月
203/208

第203話 佳肴、食せど

 ロズウェル・クライスがふたたび宮殿へと戻ってきたのは、皇帝が夕食を摂っている最中だった。


 それはちょうど皇帝が四人掛けのテーブルで、皿に乗っている鴨肉のパテをナイフで三等分し、その一つを睨んでいた時だ。緊急の用件でクライスが来たと廊下にいた兵士が告げた。

 なにかあったのかと驚く俺を尻目に、皇帝は慌てもせず皿から一瞬だけ目を離し、扉の前にいる従者に小さく頷く。どうやら予想外というほどでもなかったらしい。彼は剣呑な視線を皿に戻し、一番小さな塊にフォークを刺した。


 皇帝ユリアーナはかなり好き嫌いが激しい。特に手の込んだ料理ほど嫌う傾向がある。今夜の料理は手が込んでいると感じたのかかなり警戒しているようで、恐る恐るといった様子で口へと運んだ。


「まあまあ……かな……」


 飲む込むと同時にそう呟き、私室に通されたクライスを興味がなさそうに一瞥くれた。


「ご夕食中、申し訳ありません」


 クライスは扉から数歩離れた位置で立ち止まり、申し訳ないとはほど遠い様子で詫びを口にした。

 本人が自慢する通り、確かに外見はいい。ここにいるヴォルフ・グラハンスという男もその昔はその昔は女関係が派手で、夜ごと遊び歩いたものだ。だからあの手のタイプは、黙って立っていても女が集まってくることも知っていた。青みがかった黒髪はいかにも女が好きそうな髪型で、端が少し下がった両目ある青緑も女たらしの証のような涼やかさときている。俺がいけ好かないタイプだった。

 しかし若干初めの頃の余裕も消えている。不満たっぷりに口角を下げた唇も、疲れが感じられる眉間も、男前をわりと台無しにしていた。


「緊急にお話したことがあります」

「いいよ、話せば?」

「しかし……」


 クライスは、その視線でユーリィの脇に立つ俺と、それから右手の扉の前に立つ従者を指す。するとユーリィは行儀悪くフォークを咥えたままで、従者に軽く手を振って出て行けと合図をした。むろん俺を追い出すような真似などするはずはなかった。


「ま、そうですよねぇ」


 従者が出ていくと、クライスは皇帝の前とは思えないほど偉そうにそう呟く。俺はそんな奴の態度にイラッとした。


「クライス情報書記官、皇帝の前であることを忘れるなよ」

「もちろん忘れてなんていません、獣爵閣下」

「それにしては態度がデカいんじゃないか?」

「陛下はボクがとても重要人物だってご存知なだけです」

「そういうところがデカい態度だって言うんだ」

「そうですか? 普通でしょう?」


 まったく神経を逆なでする男だ。さすがのユーリィも苛ついているだろうと眺めれば、気にした様子もなくパテの隣にあるものをフォークで突っついている。

 それは細く切ってバターで焼いた白芋だ。香草かなにかをまぶしてあるらしく、表面に緑色の斑点が付いていた。


「相変わらずクライスは面白いね」


 皿を睨んだままでユーリィが言った。


「どの辺りがでしょう?」

「分かりやすいところ」


 その瞬間俺は噴き出し、クライスの口角はますます下がっていった。


「それで緊急の用件って?」

「その前に、軍部はなんでボクまで検閲するんですかね?」


 実際のところクライスが検問を突破してくるまでかなり時間がかかたそうだ。彼をまず封鎖したのは、陸軍が警備を固める宮殿の周辺だった。

 宮殿は今のところ陸軍とギルドの憲兵が日替わりでやることに決まっていて、今日は陸軍の番だ。そこで押し問答があり、そこを突破したのちは宮殿内で軍の士官二人に検問され、やっと上がって来られたかと思ったら、配膳手配をしているシュウェルトに部屋の前で止められ、皇帝の食欲が落ちたらどうするのだと散々文句を言われたらしい。


「だから陛下、今夜はしっかりお召し上がり下さい」

「なんで芋にミンス草なんてまぶすんだろう。これ、ケーキに入れるやつだから。あとこっちの肉モドキも、グニュってしてちょっと気持ち悪いし。スープはまあまあだったけど、なんか味が薄かった。パンは硬い方が好き」

「一昨日は硬くて嫌だと言ってなかったか?」

「あれは硬すぎからだよ。適度ってものがある」


 口を尖らせて怒る子供っぽさが愛らしくてついつい魅入っていると、すぐ左で視線を感じた。

 クライスが扉のそばからテーブル横まで近づいてきている。俺を眺める冷ややか目付きは、俺らの関係を悟った奴のそれだ。だからなにか嫌味の一つでも言われるだろうと俺は無意識に身構えた。


「陛下は愛らしい属性だからこんなふうにスケベ顔になるのは分かるけど、ボクは格好良くてもその属性がないのに、あいつは……」

「お前、俺に喧嘩売ってるのか?」

「えっ? あっ、いえ、誤解です」

「愛らしい属性……」


 男らしくなりたいと願っているユーリィには相も変わらずその言葉は禁句のようで、ひどく不服そうな声で呟いた。

 皇帝が“美しい”や“愛らしい”という形容詞を嫌うことは最近一部で知られていて、当然クライスもその中にいるはずだ。案の定、俺が横目で奴を睨めば、クライスはばつが悪そうに視線を避ける。

 ユーリィは拳ほどの大きさの白くて丸いパンを半分に裂き、さらにその半分を半分にし、その半分の半分をそれまた半分にして―――


(どこまで小さくするんだ。ってかどうするんだ、この雰囲気!?)


 俺がクライスをもう一度睨み付けようしたところで、パンを解体していたユーリィが手を止め、クライスの方へ顔を上げた。


「早く用件を話せば? 緊急なんだろ?」


 あまり機嫌が良い声ではない。見た目について言われると途端に不機嫌になるのは、きっと過去に受けた仕打ちに関連することだと想像できるだけに、それを聞き出す勇気を俺は持ち合わせていなかった。


「ええとですね、実はドルテ・マイベールがうちに来まして……、ああ、その前にあいつを助けて頂き、ありがとうございます。あんな奴ですが幼馴染みですし」

「無事で良かったね」


 不機嫌だったユーリィの声が明るくなった。そういうところはクライス以上に分かりやすいが、そんなことを言えば意地になって否定するだろう。この理解を得るまでに二年かかってしまった。しかし今は魔物化したおかげか理解力もそうとう上がった。もうユーリィの性格に惑わされることなどないはずだ。


「そのマイベールからの情報がありました。ニコ・バレク氏の件です」


 そうして語られたのが、バレクがセシャール人を伴って逃亡したという。それになんの意味があるのか分からずユーリィを見下ろすと、顔を曇らせて手にしたパンの欠片を睨んでいた。


「匂うね……」

「ええ、バレク氏は首謀者と言われてますから当然――」

「違う」

「え?」

「オスク。持ってるよね?」

「な、なんのことかさっぱり……」

「絶対持ってる。お前からオスクの匂いがプンプンする」

「も、持ってたとしてもこれはボクの夕食――」


 クライスの言葉など無視をして、ユーリィはすくっと立ち上がると、クライスに向かって小首を傾げて可愛らしく微笑む。


「さあ、ここに座って」

「え? え?」

「皇帝命令だ」


 可愛らしい表情が一変して真顔になる。そうなればクライスは抗うことなどできなくなり、怖ず怖ずと命令に従い椅子に腰を下ろした。


「夕食はまだなんだよね? だから交換」

「はぁ?」

「オスクを渡せ。それ、食べていいから」


 ユーリィはさっきまで握っていたフォークを取り上げ、なにも持っていない左手と一緒にクライスへと差し出す。破片になったパンや切り刻まれたパテという、およそ残飯に近い食べ物との交換を迫ったのが皇帝でなければクライスも逆らったことだろう。しかし彼には選択の余地はない。諦めた顔をして、彼はポケットから油の染み出した麻紙を取り出した。

 麻紙はインクが滲んで今のところ書類用には使えないが、こうしてなにかを包む時によく使われる。ユーリィの話では北の方で新たな製造技術が開発されて、書類用の麻紙が使われているそうだ。だから供給が限られる羊皮紙より、大量生産できるその麻紙の技術をいずれ取り入れたいと言っていたのはいつのことだったか。


 そんな話はともかく、ユーリィはそれをクライスから奪い取ると、代わりにフォークを押しつけて、クライス躊躇いがちにそれを素直に受け取った。

 まるでなにかの儀式のような一連の情景だ。その儀式の最後に俺が見たのは、いつになく輝いた皇帝の青い瞳だった。作り笑いではない微笑みで口元をほころばせて、包み紙を開けている。久しぶりに見る幸せそうなその表情に、俺は目を細めて眺めていた。


「オスクを食べたのっていつだったかなぁ。一年前? 一年半かな? ヴォルフと一緒に旅してた時に食べたっけ?」

「さあ、覚えてないな……」

「だったら二年ぐらい食べてないかも。僕さ、一人でソフィニアに来て初めて食べたのがこれなんだよね。お皿に置いてない食べ物があるなんて知らなかったからびっくりしたけど、勇気を出して買ってみたら凄く美味しかった」

「いつのことだ?」

「キャラバンと別れてすぐだったから十三の頃。そのあとソフィニアに来るたびに食べてた。一度あんまりお腹空いていたから十個も買っちゃったんだけど、全部食べれたんだぞ?」


 食が細いと言われていることを気にしてか、ユーリィは少し得意げな表情で俺を見上げた。


「美味しいですよね、オスク。ボクも大好物なんですよ」

「返さないからな!」

「い、いいですよ……」


 ユーリィは本当に嬉しそうに包み紙を半分ほど開けて、香ばしそうに焼けた兎肉にかぶりついた。肉が包んでいる白芋は、先ほどまで嫌がっていたのと同じ物とは思えないほど美味しそうに頬張っている。そんな様子を見て、クライスも納得したようだった。


「ご満足して頂けたのなら嬉しいですよ」

「なにかのついででいいから今度三つぐらい買ってきて」

「分かりました」


 そう答えたクライスは、渡されたフォークで残飯のような皇帝の夕食を試食した。


「うーん、ここの料理人はいまいち腕が……」

「不味い?」

「不味いというほどでもないですが、今後晩餐会などをお開きになるようなら、少しばかり腕が足りてないと思います。なんでしたら何人か探しましょうか? 母がわりと食道楽なので一人ぐらいは連れてこられると思います」

「どっちでもいいけど……手の込んだ料理は好きじゃないから……」

「お気に召さないのなら首にしていいですよ」


 緊急の用件のはずが、気づけば料理人の話になっている。クライスが話していたニコ・バレクの件をユーリィは重要視している様子もない。だが俺はセシャール人と一緒だったことに言い知れぬ不安を抱いていた。これから戴冠式を控えている彼にとって、セシャール人が絡んでいる話はかなり悪い情報だった。


(オスクが嬉しくて気づかないのか?)


 一応ユーリィには警告すべきだろうと俺が思ったその時、麻紙を広げて丁寧に折りたたみ始めた皇帝は、何気ない口調で話し始めた。


「マイベールがなにか隠してるってことは気づいてたよ。僕に直接言わなくても、クライスには言うかもしれないってことも考えてた」


 黙って椅子から立ち上がったクライスは、俺と皇帝の間で小さく頷いた。


「ところでクライス、お前はここに来る前にどこか寄った?」

「オスクを買いました」

「他は?」

「なにかお疑いで?」


 怪訝な顔をして首を横に振ったクライスを、ユーリィはオスクを見た時と同じ表情で破顔した。


「いいよ、クライスは信じているから。いずれにしても__」


 手元の麻紙から視線を離してふと上げたその顔は、久しぶりのオスクに喜んでいた少年のものから、大陸の三分の一を支配する皇帝のものへと変わっていた。


「セシャールが帝国を弱体化させたいのは当然だよ。北の方でフェンロンが動き始めたのを感じれば余計にね。山脈に守られたソフィニアが今まで狙われなかったのは、どの国もすぐ近くに敵がいたからさ。でもこれからは違う。小国から次々と食われていく世界がきっとやってくる。その前にセシャールは弱体化した帝国を飲み込みたいと思ってるんだろうね」

「それでも戴冠式にはいらっしゃるのですか?」

「もちろん。どちらが強者か分からせる為にも。ただ今回の件、国王が直接絡んでいるとは思えない。貢ぎ物として、あの量の綿花は少なすぎる……」

「ですね」

「だとしたら……」


 そうしてユーリィが思考の海に飲まれるのを、俺もクライスも黙って見ているより他になかった。その海を渡りきった時、彼はなにか答えを見つけているだろうとそれを期待して。今までもずっとそうだった。少しずつ少しずつ彼は成長してきたのだ。

 一足飛びに強くなる者などきっと雑魚に過ぎない。ユーリィを見守り続けた俺が思うのだから、間違いなどなかった。


 やがて____


「ヴォルフ、悪いんだけどセシャールに行ってくれない?」

「えっ!?」

「グラハンス子爵から話を聞いてきて欲しい」

「つまりセシャールの内部事情を探れってことか?」

「子爵と一緒に来た……ええと、アグレムか、あいつが一枚噛んでいると思う。バレクは鉱山の管理者としてセシャール人たちを出迎える役目にあったから、あの時に繋がったんだろう。むろん僕の想像に過ぎないから、できればセシャール内部の権力争いがどうなっているのか詳しく知りたい」

「だから親父に聞けと?」

「もちろん子爵が全部話してくれるなんて思ってないよ」

「分かった。明日の夕方出発する。山脈沿いから迂回して、真夜中にセシャール国内に忍び込めばなんとかなるだろう」


 重要な役目を任されたのは嬉しかった反面、ユーリィを一人残しておくことに不安がなかったわけではない。現在彼が安全な場所にいるとはこれっぽっちも思えなかった。


「クライス、お前はアールステット子爵とともに、水晶鉱山の調査を」

「はぁ?」

「あそこの警備は軍部に任せているけど、採掘に関してはギルドの管理下だ。今まで横流しなどがなかったとは言えない。もしバレクがそれに関わっていたなら、貢ぎ物には十分なはず」

「もしそうだとしても、バレク氏が国外逃亡してしまったあとですから、あまり意味がある調査とは……」

「横流しの甘い蜜をだれか他に舐めていないのか、それを調べてきて欲しい」

「ミューンビラーとアルカレスですか?」

「彼らがバレクを通してセシャールと繋がろうとした可能性はある」

「マイベールの口封じを企んだ可能性もありますよ」

「分かってる。一度は見逃したけど、まだなにか企んでるなら容赦はしないさ」


 どうやらクライスはユーリィと同じ高さで色々理解しているようで、それがなんだか俺には悔しかった。


「マイベールは僕が責任をもって保護するよ。今はクライス家にいるんだろ?」

「分かりました、本人には伝えておきます。ですが鉱山の調査はボク一人で十分ですから。アールステット子爵と二人でというのは勘弁して下さい」


 アールステットの名を口にした時、クライスは本当に嫌そうな表情で吐き捨てるようにそう言った。


「二人で不安なら三人で。だれか適任者は……そうだ、バルガン司令官がいい。あいつを同行させよう。鉱山で僕の身を守ってくれた男だ」

「あ、いえ、でも……」

「心配しなくても、留守中の仕事は他の者にやらせるから大丈夫だ」

「そういうことではなく……」


 しかしユーリィの目にはクライスの拒絶など入っていないようだった。摘まみ出すようにクライスを部屋から追い出すと、すぐにブルーを呼びつけた。

 早急に駆けつけた魔将軍に、皇帝からの命令はこうだ。


「明日から索敵をしてもらう。そろそろこちらから仕掛けても良い頃だ。ラシアールを混乱させれば見つからないと思っていた奴らをあぶり出したいだろ? 僕の勘ではソフィニアからそんなに離れた場所じゃないはずだよ」


 なるほど、ククリにはそんな意図があったのかと驚き、それに気づかなかった自分にも驚いた。


 その夜はそれで終わりではなかった。その後ちょっとした事件があった。西地区にあるクライス家の屋敷での小火(ぼや)だ。火元は離れとして使っている屋敷裏の小さな小屋だった。中にいたのはロズウェル・クライスの母親で、大事には至らなかったものの軽い火傷を負った。

 なぜ俺がそれを知っているかと言えば、クライス家へとマイベールの保護に行ったからだ。蒼白になって母親の手当をしている男に、さすがの俺もざまあみろとは思わなかった。


「あいつら、絶対に尻尾を捕まえてやる!」


 珍しく怒りを露わに吐き捨てたクライスの肩を叩き、俺はピンク色の塊を連れてその場を離れた。

 ピンク色の塊はとにかく目立つ。しかもうるさい。


「ロズウェルの母さんに怪我をさせたのはどこのどいつなのよ! 見つけ次第、首の骨をへし折ってやるわ!」


 石のような拳を突き上げるから、近くを歩いていた者たちは悲鳴を上げて逃げていった。それだけではない。さらにピンクの袖に包まれた太い腕を、ちょいちょい俺の腕に絡ませようとする。


(こいつは別に保護しなくても、平気なんじゃないか?)


 今まで兵服姿しか見ていなかったが、やっとクライスが幼馴染みを牽制する気持ちを理解した。

 だが皇帝命令だ。二の五の言いたいのを我慢して、その格好では目立ち過ぎて連れ歩けないと説得し、仕立屋を営むマイベール家に立ち寄って、いつもの兵服に着替えさせた。

 ピンクのドレス男より巨漢の兵士の方が幾分マシで、宮殿には悪目立ちすることもなくすんなり辿り着けた。

 ユーリィが用意した隠れ場所は、現在だれも収監されていない地下牢。そこの警備という名目で赤毛の長髪男を警備室に押し込めて、やっと俺の面倒な仕事が終了した。



 俺が皇帝の私室を訪れたのは、夜もずいぶん更けてから。

 ベッドの縁に腰掛けて、ユーリィはぼんやりと考え事をしていた。また思念の海に沈んでいると思いきや、俺が部屋に入るなり顔を上げて、曖昧な笑みを浮かべた。


「どうだった?」


 そこで一部始終を話して聞かせると、彼の微笑みは消え、物憂いな表情となった。


「クライスには悪いことをしたなぁ。早くヴォルフを行かせれば、母親が怪我をしなくて済んだかもしれない」

「あいつの家を狙った狙いはなんだと思う?」

「脅しだろ。余計なことをするなっていう。想像ではアルカレスの差し金だろうね。ただしマイベールがお前と一緒のところを確認しただろうから、今頃はヒヤヒヤしているかもしれないけど。なんにしても、みんな小物過ぎてつまらないね」


“英雄、強敵を望む”

 そんなセシャールの格言はわりと的を射ているかもいれないと、本当につまらなそうな顔をするユーリィを見下ろし俺は心の中で呟いた。


「クライスが無茶をしなければいいんだけど……」

「あいつのことをずいぶん信用してるんだな?」

「どうかなぁ。自分でも本当に他人を信用しているのかよく分からないから。あ、お前は別だけどね。ただもっと分からないのは、どうやったら僕を信用してもらえるかってこと。信じられないより、信じてもらえない方がずっと辛いと思う」

「そうかもな……」

「うん」


 ふぅっと溜息を吐き出して、俺はベッドの横に置いてある椅子へと腰を掛けた。皇帝が眠りに就くまでそこで見守っているのが俺の役目だ。

 しかし明日からしばらくそれができないことが心苦しかった。

 すると、突然ユーリィはベッドから立ち上がり、あろうことか膝に腰を下ろした。細腕が首に回され、少し上気した頬が肩に寄せられる。


「なっ!?」


 普段は冷淡なのに時折こうして大胆になるから、その真意を測りかねて俺は驚きの声を上げてしまった。


「自分は突然欲情するくせに、なんで驚く?」

「ま、まさか欲情してるのか……?」

「してないよ」


 未成熟な少年のつれない言葉は、彼らしくて微笑ましい。もちろん寂しくないと言えば嘘になるが……。


「近いうちに皇帝府を作ろうと思っている」

「どういう意味だ?」

「意味なんてないよ。さっき考えてたことを言ってみたかっただけ。それから鉱山に行かせる三人には少し期待してるってこともね」

「アールステットもか!?」


 アールステット家の胡散臭い話を聞いてなお、そんなふうにいうユーリィに驚いて、俺はまじまじと見下ろした。


「あいつ、昔の僕に似てる気がするんだ」

「あの男が?」

「なんとなくね。なぜだか分からないけど」

「つまりあの男も暗い過去を持ってると?」

「僕の過去が暗いって言ってるようなもんだぞ、それ」

「あ、いや……」


 肩から顔を離した少年の顔は一瞬だけ皇帝のそれになったが、すぐに可愛らしい笑みを浮かべた。

 以前と違って、とても表情が豊かになっている。ただし以前と同じように、彼の思考にはなかなかついて行けないのが歯がゆくもあった。

 彼はいつだって全部を言おうとはしない。時々試されているのではないかと思うこともある。皇帝としても、恋人としても常にハラハラさせられて、次になにを言い出すか分からないから、俺は主人の言葉を待つ犬のように、その顔を黙って見つめた。


「セシャールでなにを調べてくるかは明日言うよ」

「分かった」

「だからさ、キスしよう」

「またいきなりか……」

「何日か会えないからさ」


 押しつけられた唇はあまりにも濡れていて、貪むさり味わうには贅沢すぎるごちそうだ。辛辣で尊大な皇帝の、甘い吐息が漏れ聞こえる。


(欲情を抑えるのに苦労する夜になりそうだ……)


 そんなことを考えつつ、穏やかな愛撫を皇帝へと献上した。

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