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黄金の天子 ~我が皇帝に捧ぐ七つの残光~  作者: イブスキー
第九章 冬の月
201/208

第201話 親愛なる最悪な午後 前編

 ロズウェルは後悔というものをしたことがなかった。順風満帆な人生だと言っても過言ではない。

 けれど、ふた月前のちょっとした気まぐれで、なにかが少しずつ狂っていってしまったようだ。

 あの日、ジョルバンニ家の前に立った自分を止められるものなら、その背後に回って“やめろ”と叫んで羽交い締めにしたい。

 そう思ってしまうのも、ロズウェルの前にはあの異色眼の男が立っていて、机を挟んでいるにも関わらずその距離がなんだか近いような気がするからだ。自分の執務室にいるというのに、なんだかむずむずとして落ち着かず、いつもよりずっと早口で仕事の説明をしていた。


「――――それで、羊皮紙は公式文書以外すべて再生利用します。なので保管しなくていいものは二階にある文書課にまとめて出して下さい。そこには専門の職人がいます。ただしその前にボクたちもできるだけ石研磨で擦って、文字が読めないようにするのも忘れずに。他言無用の極秘文書もありますので。僕は三種類使っています。これです」


 相手の視線を気にしつつ、机上にある大きさの違う三つの石を指で示す。石板を粗く削った石研磨は、なめした羊皮紙の表面を擦り落とせるようになっている。小さいものは指先で抓む程度、大きいものは手のひらほどだ。


「無理に擦ると破ける場合がありますからご注意を」


 ロズウェルが上目使いに様子を窺うと、アールステット子爵は机越しに軽く頷いた。貴族だから羊皮紙の再生使用なんてしたことがないだろうと想定してあえて付け加えたが、なにか言われるかと内心ヒヤヒヤした。

 この部屋に入ってから、相手は頷くか“分かった”と小さく答える以外の反応はしていない。しかしそれが却ってロズウェルの緊迫を高めている。またあの時のように妙なことを言って、妙な行動にでないかそればかりが心配で、肩から力が抜けてくれなかった。


「消しやすいようにインクはなるべく薄く付けて書いて下さい。何回か削った紙は廃棄処分となり、それは文書課がこの右端に赤いインクで丸が付けます。なので赤丸が付いたものが不要になったら、ナイフかハサミで切ってお捨てになって下さい」


 会話をしたいとは思わないが、相づちでもしてくれればいいのに。

 そんな気持ちを胸に、ロズウェルは早く終わらせたくて、とにかく必要なことを思いつくままに話し続ける。


「この細かくて丁寧な字が皇帝陛下のものです。癖はないですが、紙にびっちりお書きになるので、読むのに時間を要します。こっちがアルカレス副議長。字は綺麗です。ただ文章が苦手のようです。そしてこれがジョルバンニ議長。彼の字はかなり癖が強くて判別するのに苦労します。まあ、どちらも貴方が読む機会は少ないでしょう。オーライン伯爵の書類は見たことがありますが、字も丁寧で分かりやすかったですよ。それ以外の方々は知りません。もしかしたら今後ミューンビラー侯爵の書類もくるかもしれないですね。どうやらあの方はご赦免になられたようですし……」


 口にしてから余計なことを言ってしまったと後悔した。貴族院のゴタゴタはなるべく公言しないように心がけていたのに、自分としたことが。

 そんな気持ちを押し殺し相手の様子を窺ったが、例のごとく無表情に頷いただけだった。


「き、貴族院での細かなことはあとでリマンスキー子爵令嬢に直接お尋ね下さい。もしかしたらギルドとは違うやり方があるかもしれませんので……」

「分かった」

「今までの説明でなにかお分かりにならないことは?」


 相手は首を横に小さく振るだけ。


「そうですか。なら良かったです。ええとどこまで話しましたっけ……。ああ、そうだ。書類は毎朝貴族院かオーライン伯爵のところまで取りに行って下さい。確かそちらは五日に一度定例会があったはずです。ただ貴族院からは、今のところあれこれ要求はあまりないようですよ。だれかが帝都から領地へ戻りたいとか、その逆とか、そんなことが殆どです。それらの書類をまとめて午後に皇帝陛下にお渡しします。陛下は、その場で答えられる簡単なものは口頭でおっしゃるので、我々が書き留めます。それ以外は書類として渡されるので、夕方貴族院かオーライン伯爵へ持っていって下さい」

「心配したほどは難しい仕事ではなさそうだ」

「え、ええ、まあ……」


 初めて“分かった”以外の言葉を耳にして、ロズウェルの心臓は跳ね上がった。


(なにをボクはビクついてるんだ?)


 あれはきっと悪い冗談だったんだ。

 そう自分自身に言い聞かせ、さらに説明を続けた。


「ただ皇帝陛下の書類には時々期限が書いてあることがあります。陛下はそれらを全部覚えておられて、その日になるとどうなったのかお尋ねになります。なのでボクたちも中身に一応目を通して、期限が過ぎないように注意する必要があります。事細かな指示も多いのでメモを取った方がいいかもしれませんね。場合によっては期限を超えてしまうこともあるので、その理由を誰かに尋ねて陛下にご説明する必要もありますし、その時は嫌味の一つ二つ言われることもあるので……って今まではギルドか陸軍ばかりで、貴族院には殆どありませんでしたね、ははは」


 曖昧な自分の笑いに、珍しく自己嫌悪を抱く。どうしてこの男は、一切表情を変えないのだと心で文句を言いながら。


「あと細かなこととしては、陛下の昼食と夕食のお時間は邪魔しないようにとの指示があります。あの方は食が細いので、なるべく仕事のことは忘れてお召し上がりになれるようにとのことです」

「なるほど」

「ええと、それぐらいかな……。貴族院は今のところ大した動きはないですが、社交界が復活するなら色々増えてくるでしょう」


 これでお役御免だとホッとして、ロズウェルは無意識にため息を付いていた。一刻も早くこの男とは距離を置きたい。冗談にしろなんにしろ、あんなふざけた真似をする人間のそばになどいられるか、と。


「君はずいぶん私に警戒しているようだ。あのことが原因か?」


 いきなり核心を突いてきて、吐き出したため息が戻ってきたような感覚に囚われる。実際は唾が変なところに入ったせいだが、いずれにせよむせ返って、ロズウェルはゲホゲホと咳を繰り返した。


(何やってるんだ……)


 少し落ち着いて、肩で息をしつつ相手を睨め上げると、口元がわずかに緩んだのが見えた。無表情も怖いが、薄ら笑いも気味が悪いことこの上ない。


「当たり前ですって。あの状況であれは……や、あの状況でなくてもありえないでしょう」

「私としては親愛の情を示したつもりだが?」

「示すなら、もっと落ち着いた場所で女性にしましょう」

「女性か……」


 だいぶ含みのある呟きがロズウェルを一歩下がらせた。

 まさかと思うが、そうなのだろうか?

 だとしたら、自分は現状ひどく危険なのでは?

 とにかくこの場をなんとかしなくてはと、ピクピク引きつる口角を感じながら、必死に保身の言葉を探し出す。


「だ、駄目ですよ。ボクたちは仮にもマヌハンヌス教徒ですからね! 禁忌ですよ、掟破りです! 破門です、いや違った、戒律破りですよ!」

「私が女性かと言ったのは、昔、女性に親愛の情を示したら、酷く叱られてしまったことを思い出しただけだ。女性と言っても八歳の娘だったが」

「それは……ヤバい……」


 無口で表情もない男が、その雰囲気とは裏腹にとんでもないゲス野郎だとしたら、今すぐにでも成敗した方がいいのではないか。


「何か誤解があるようだ」

「どんな誤解ですか?!」

「相手は八歳で私は九歳だった」

「急に可愛らしい話になってしまった」

「私を見て怯えていた。きっとこの目が怖いのだろうと親愛の情を示したら、悲鳴を上げて泣き出した」

「それは、まあ、なんと言いますか……。あ、それがエルネスタさん?」

「彼女の姉のノーマ」

「そんな事情があったんですね。それならボクに親愛の情を示すのもしかたがない………………なんて思えるか!」


 変な男であることは間違いない。しかしさっきまでとの印象とは少し違っていて、ロズウェルはおやっと思った。強く反論されて眉間がわずかに寄ったのも、怒ったのではなくて困惑してたのかもしれない。なぜかそんなふうに見えてきた。


「子爵、そもそもなぜボクに親愛の情を示そうと?」

「思っていることとは真逆な行動を取っているのに興味を持った」

「真逆?」

「逃げたいと表情に出ていた」

「ああ、あの時か……」


 確かに逃げたかった。けれど情けなく逃げるのは自分らしくないと感じていたし、逃げたところでどうにもできないと分かっていたので、渋々その場に留まっていただけだった。


「興味を持って頂けたのは分かりました。でもなぜ顔をお近づけに?」

「それが親愛の情を示す方法だと教わった」

「どなたに!?」

「祖父だ。うちにいるメイドたちにあんなふうにして、彼女たちを(ねぎら)ってっいると教えてくれた」

「え!? それって皮肉かなにかで言ってます?」

「皮肉とは?」


 相手はますます困惑した表情を作ったので、ロズウェルも一緒になって困惑してしまった。先々代のアールステット子爵が召使いたちに手を出していたことは、まず間違いなさそうだが、孫がそう思っていないというのがなんとも不思議な話だ。


「先々代はいつ、メイドたちを労っていたのでしょう?」

「大抵は夜。時々私は部屋に呼ばれて、その様子を見せてもらった」

「最悪ですね……」


 それが親愛の情を示す方法だと信じた幼い孫が同じことをしようとしたとしたら、教育として最悪だろう。

 しかしもう幼いとは到底言えない子爵自身が、真実を直視していないことがロズウェルには理解し難かった。


「ええと、先代の、つまりお父上になにか言われましたか?」

「父? いや別になにも。祖父は立派な領主だとは言っていたが」

「貴方は一度もおかしなことと思わなかったんですか?」

「領地から出たことがなかったので、普通のことだと思っていた」


 貴族が若い領民の娘に手を出すということはよくあることだ。その結果出来てしまった子供は従者や召使いとして雇う代わりに、決して自分の子供だとは認めない。女の方も、子供が生涯食に困らずに生きていける場所を見つけたと納得する。身分違いの色恋はギルドが絶対に認めなかったので、それ以外の希望はなかった。その辺は奥方達も分かっていて、女も子供も従者として生涯こき使う。

 むろんそんな身分違いの色恋を題材にした戯曲もあるが、すべて悲劇に終わっている。幸福な結末の話など、ギルドが認めるはずはなかった。


「でもなんでボクに……」

「ノーマを泣かせてしまった時、むやみに女性と親しくなるのは良くないと父やリマンスキー子爵に叱られてしまってね」

「だから男ならいいと思ったわけですか」

「そういうことだ」


 凄まじく歪んだ育てられ方をしたのは分かった。

 けれどなぜ先代のリマンスキー子爵は、こんな世間に疎い男を今になって手放したのだろうか。それが最後の疑問だ。


「それにしても、領地から出たことがないという貴方が、よく一人でこの大都市に来る気になりましたね。あまつさえ総務長という役職までお請けになって」

「父が、帝国と皇帝陛下はアールステットを必要になるだろうと。総務長になったのはオーライン伯爵に言われたからで、特に難しい仕事もなかった。宛がわれた部屋にぼんやり一日座ってただけだったよ」

「アールステットが必要とは?」


 途端、子爵は視線を逸らし、貝のように口を閉ざした。

 なにか秘密がある。しかも大っぴらには言えないことだ。だがそれがなにかまでは、さすがのロズウェルも想像が出来なかった。

 ただ分かるのは、子爵が従順な犬のように、だれに対しても従うという選択肢しか持ち合わせていないということだった。幼い時に受けた衝撃に心が枯れてしまったのではないだろうかと、そんな気すらする。もしかしたらその秘密とも関係があるのかもしれないと、無表情に戻った相手を見つめて考えた。


「あっ、そうか、離宮に行ったのはオーライン伯爵の要請というは、本当のことだったんだ……」


 問いかけるつもりもなく、ふと思いついたことを口にしたロズウェルに、アールステットの視線が戻り、なぜだか嬉しそうに小さく頷いた。


「信じてもらえて嬉しいよ。しかし私もまだまだだ。実戦は初めてだったからしかたがないにしても……」

「実戦?」


 その答えは戻っては来なかった。

 しかも子爵の中の困惑は最高潮に達したようで、眉間の皺は今までになく深くなっている。まるで途方に暮れて立ち尽くす迷子のようだとロズウェルは思った。


「君と話していると、余計なことまで喋ってしまうようだ。喋ることはあまり好きではないのだが……」

「きっと話し相手が今まであんまりいなかったせいですよ」

「君と話すのは楽しい」

「それはどーも」


 次の瞬間、理解しがたいことが起こってしまった。

 机の向こうから手が伸びてきて、右腕を無理やり引っ張られる。大して広くない机の上で上半身が前かがみになって、驚いて声を上げそうになった口に生暖かいものが押し付けられた。

 それが唇だと脳味噌が理解した時には、ロズウェルは椅子に腰掛けていて、相手は机から離れた場所で一言二言なにか言っていた。

 ロズウェルも、うわ言のようになにか答えた。だが自分がなにを言ったのかまったく分からない。それぐらい精神的衝撃が強かったのだ。


「え……なんで……?」


 相手が出ていって、その扉が閉まる音がした時、ようやく自覚できる言葉を発することができた。同時に、出ていく間際の相手の言葉が耳の縁から中に入ってきて、脳みそに到達した。


『親愛の情なので気にしないで欲しい』


「気にするに決まってるよ!」


 言う相手のいない小さな執務室に、虚しい文句が響き渡った。


「今日は最悪だから、もう帰る!」


 駄々っ子の泣き言のごとく呟いて立ち上がったロズウェルだったが、最悪な午後はまだ続くことを、もちろんこの時は知らないでいた。



挿絵(By みてみん) 

ロズウェル・クライス(作画:鴉月様)

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