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24 ぬいぐるみ いない

畳の上で、180センチを超える巨躯が重力に完全に屈していた。


普段なら目にも留まらぬステップを踏み、

プラスチックのおもちゃを逆手で構えていた徹が今は完全に液体化している。

骨が全部抜き取られたかのようにふにゃふにゃになり、

顔面を畳に押し付けたまま微動だにしない。


原因は明白だった。


今朝、彼が肌身離さず抱きしめていたお気に入りのクマのぬいぐるみ——

連日のヨダレ、食べこぼし飲みこぼし、そして謎の油分によって黒ずみ、

もはや元が何色だったかも分からなくなっていたアイツが、

園長の手によって専門の特急クリーニングへ連行されたからだ。


「ほ……げ……」


徹の口から漏れるのは排気漏れを起こしたトラックのような力ない低音の吐息のみ。

お気に入りを取り上げられた男の絶望は深い。


「ほら徹くん、落ち込まないの。

 クマちゃんは今お風呂に入って綺麗になってる最中だからね?

 代わりにこのアンパンマンのぬいぐるみはどう?」


俺が差し出した丸顔のぬいぐるみを、

徹は光の消えた瞳でじっと見つめ……ゆっくりと顔を背けた。

そして、そのまま「ほー……げー……」と地を這うような溜息をつき、

お腹を上に向けてゴロゴロと転がり始めた。

完全に魂が抜けている。


すると、その異変に気づいた龍が紙おむつをガサガサ鳴らしながら寄ってきた。


「ほげ? ほげほげ」


龍は首を傾げると、自分が今遊んでいたばかりの動物の型はめパズルを、

徹の腹の上にぽすんと乗せた。

彼なりの慰めなのだろう。


だが、徹は微動だにしない。

パズルは虚しく彼の大胸筋の上で揺れるだけだ。


続いて悟がおしゃぶりをチュパチュパと激しく鳴らしながら接近してきた。

悟は転がる徹の顔を覗き込むと何かを決意したように

己の口からおしゃぶりをスポンと抜き取り、

そのまま徹の口へ無理やり突っ込もうとした。


「これ吸え!」と言わんばかりの豪快な優しさ。


「待って悟くん! 親切心は買うけど人の口におしゃぶり突っ込まないで!

  衛生的にアウトだから!」


俺が間一髪で悟の手を止めると、

口元におしゃぶりを押し付けられそうになった徹は、

涙目で「ほげぇい……」と弱々しく抗議の声を上げた。

普段の武闘派の面影はどこにもない。

ただのすねた一歳児である。


結局、給食の時間になっても徹の無気力モードは解除されなかった。

大好物のハンバーグを目の前に置かれてもスプーンを握ろうとすらしない。


「ほら徹くん、あーんして。あーん」


俺がスプーンで小さく切ったハンバーグを差し出すと、

徹は力なく口を「ふあ……」と開け、そのままパクッと噛みついた。

噛む力すら弱い。


「ほげ……(もぐもぐ)」


自我を失い、さらに愛用のぬいぐるみまで奪われた男の介護食タイム。

普段のバカ力で暴れ回られるよりは何倍も楽なはずなのに、

目の前でしおしおに萎んでいる大男を見ていると、どうにも胸がチクチク痛む。


その時だった。


ガラガラ……と保育室の扉が開く。


「守先生ー! 徹くんのクマちゃん、戻ってきましたよー!」


園長先生が手にしていたのは、すっかり黒ずみが落ち、

本来の綺麗な薄茶色の毛並みを取り戻したフワフワのクマのぬいぐるみだった。


その瞬間、室内にピンと張り詰めた緊張感が走った。


「ッ……!?」


畳の上で死体のように転がっていた徹の体が跳ね起きた。

眼光がかつて「神速」と呼ばれた頃の鋭さを完全に奪還している。


シュバッ……!!


「うおっ!?」


俺の目の前を風が駆け抜けた。

徹は正座の姿勢から音もなく跳躍すると

目にも留まらぬスピードで園長の手からクマちゃんを奪取。

そのままクマちゃんを両腕で締め上げるように抱きしめた。


「ほげぇぇぇぇーっ!!(会いたかったー!!)」


咆哮。

ガラス戸を振動させるほどの喜びの雄叫びだ。

徹はフワフワになったクマちゃんにごつい顔をこれでもかと擦り付ける。


「ほげ♪ ほげ、ほげぇ~♪」


頬ずりしながら全身で喜びを表現する徹。

……が、次の瞬間。


徹の動きがピタッと止まった。


鼻をクンクンと鳴らしてクマちゃんの匂いを嗅いでいる。

クリーニングによって、長年熟成された臭いが完全に消去され、

代わりに爽やかな柔軟剤の香りが漂っていたのだ。


徹の顔から急速に色が失われていく。


「……ほ、げ?」


自分の知っているクマちゃんではない。

漂ってくるのは見知らぬお花畑の香り。


困惑した徹はクマちゃんをじっと見つめた後、そっとそれを俺の膝の上に置いた。

顔を歪ませ、再びゴロンと横たわり、ふにゃふにゃの液体に戻ってしまった。


「ほー……げー……(コレジャナイ……)」

「匂い(臭い)にも愛着あったんだね……」


綺麗になったらなったで拒絶されるクマちゃんの立場がない。

俺と園長先生は顔を見合わせ、思わず崩れ落ちた。


結局、その日の夕方まで徹は「お花畑の匂い」に慣れることができず、

試しに俺が自分のスウェットの袖をクマちゃんに巻き付けて

「俺の匂い」を上書きしてみることで、どうにか機嫌を直してもらったのだった。


---


【園長からの連絡帳メモ】

守先生。徹くんのクマちゃん騒動、フォローありがとうございました。

「どんな過酷な現場をくぐり抜けてきたぬいぐるみなんだ」

とクリーニング業者の方も驚いておられました。

柔軟剤の香りを拒否するあたり、さすが硬派な元武闘派ですね。

次回からは無香料の石鹸で手洗いすることにしましょう(^-^)


ーーー


続く

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