第1章 ヒーローを夢見た少年
十二年前――金沢の夕焼け空は、オレンジ色に染まっていた。
車の音がマンションの窓から静かに響き、街はゆっくりと夜の準備を始めていた。
スーパーヒーローのポスターと漫画本でいっぱいの小さな部屋。その中で、六歳の少年がテレビにかじりつくように座っていた。
その瞳は、テレビ画面よりもずっと輝いていた。
テレビの中では、仮面をつけたヒーローが燃え上がるビルの間を飛び回り、人々は助けを求めて叫んでいた。
「安心しろ!」
ヒーローは空へ向かって拳を突き上げる。
「俺がいる限り……誰一人、ひとりぼっちで苦しませはしない!」
音楽が大きく盛り上がる。
ヒーローは青く輝くエネルギーを放ち、怪物を吹き飛ばした。
観客たちの歓声が響く。
小さな海斗は、息をのむように画面を見つめていた。
ゆっくりと、その手が拳になる。
ヒーロー。
人を守る存在。
みんなを救う存在。
絶対に諦めない存在。
その時だった。
ガラッ、と扉が開く。
「海斗、もう寝る時間よ」
少年の体がぴたりと止まった。
母親は腕を組みながら入口に立っていた。けれど、口元には小さな笑みが浮かんでいる。
「えぇぇ~……」
海斗は頬をぷくっと膨らませ、必死にテレビを指差した。
「でもママ! 今から必殺技なんだよ!」
「それ、十分前にも聞いたわよ?」
「今度こそ本当に最後の必殺技なんだって!」
母親は大げさにため息をつきながら近づき、テレビの電源を切った。
「あああぁぁっ!」
海斗は世界が終わったみたいに床へ倒れ込む。
母親はくすっと笑った。
「録画しておいてあげる。続きは明日見なさい」
海斗は勢いよく起き上がった。
「ほんと!?」
「ほんと」
一瞬で顔が明るくなる。
彼は飛びつくように母親へ抱きついた。
「宇宙で一番最高のママだ!」
「知ってるわ」
母親は得意げに答えた。
数分後――海斗は暖かい毛布にくるまり、ベッドの中にいた。
月明かりがカーテンの隙間から差し込む。
けれど、眠気はまったく来なかった。
代わりに、頭の中では何度もあのヒーローの姿が繰り返されていた。
人を助けるヒーロー。
歓声。
笑顔。
ゆっくりと、海斗は小さな手を天井へ伸ばした。
「いつか……」
静かな声。
「僕もヒーローになる」
外では、夏の風が優しくカーテンを揺らしていた。
そして、遠く離れたどこかで――
何かが、静かに目を覚ましていた。
翌朝、海斗は恐竜柄のパジャマのままキッチンへ飛び込んできた。
「ママ!」
母親がコンロから振り向く。
「なあに?」
海斗は椅子によじ登り、胸を張った。
「僕、将来決めた!」
「へぇ?」
「スーパーヒーローになる!」
一瞬、キッチンに静けさが流れた。
そして母親は笑った。
子供を適当に合わせる時の笑顔じゃない。
本物の笑顔。
暖かくて。
優しくて。
誇らしそうな笑顔。
彼女は海斗のそばへ来て、頭に手を乗せた。
「きっとなれるわ」
海斗は目をぱちぱちさせる。
「ほんとに?」
「ええ」
母親は彼の胸の真ん中を軽くつついた。
「ヒーローって、特別な力を持ってる人じゃないの。どんなことがあっても、誰かを守れる人のことよ」
海斗の瞳がきらきら輝く。
「じゃあ僕、世界一のヒーローになる!」
母親は笑った。
「楽しみにしてるわ」
その瞬間は、海斗の人生で一番大切な思い出のひとつになった。
あの日から、海斗の夢はずっと変わらなかった。
毎日のように外へ飛び出し、近所の子供たちとヒーローごっこをした。
ヒーロー役になる日もあれば。
怪物役になる日もある。
時には両方だった。
棒切れを剣にして、木の枝を魔法の武器に見立てながら、みんなで笑い合う。
海斗はその時間が大好きだった。
「ヒーロー海斗、また街を救ったぞー!」
「ずるい! また海斗が勝った!」
「だってヒーローは負けないから!」
あの頃は、全部が単純だった。
明るくて。
楽しくて。
幸せだった。
だけど、子供の時間はすぐに変わっていく。
年を重ねるにつれ、遊びは少しずつ消えていった。
昔、一緒に遊んでいた子たちも変わっていく。
「まだヒーローとか言ってんの?」
「それ、小さい子のやつじゃん」
「もう少し大人になれよ」
最初、海斗は笑って流していた。
でも、中学生になると変わった。
人は冷たくなり。
夢は恥ずかしいものになった。
先生が将来の夢を聞くたび、教室にはいろんな答えが並ぶ。
「医者」
「エンジニア」
「会社経営」
「プロスポーツ選手」
そして海斗の番。
彼は自信満々に立ち上がった。
「スーパーヒーローです」
教室は爆笑に包まれた。
先生ですらため息をつく。
「海斗……真面目に答えなさい」
「真面目です」
その言葉で、さらに笑いが大きくなる。
それでも海斗は答えを変えなかった。
一度も。
どんなに変な目で見られても。
どんなに笑われても。
どんなに孤独になっても。
海斗にとって――
ヒーローは本当に存在していた。
もう誰も信じていなくても。
そして、ある日。
海斗の世界は壊れた。
学校から帰った海斗は、自分のマンションの前に何台ものパトカーが止まっているのを見つけた。
赤いライトが濡れた道路に反射する。
暗い空からは激しい雨。
大人たちは小声で話していた。
不安そうな顔。
戸惑った顔。
海斗は必死に人混みを見回す。
「ママ?」
返事はない。
「パパ?」
何も聞こえない。
海斗は大人たちを押しのけて入口へ走った。
だが、肩をつかまれる。
「海斗くん……」
警察官がしゃがみ込み、彼を見る。
その顔はどこか苦しそうだった。
まるで罪悪感を抱えているみたいに。
「君のご両親は……行方不明なんだ」
行方不明。
その言葉が理解できなかった。
人が消えるのは映画の中だけだ。
現実じゃない。
「どういうこと? 行方不明って」
警察官は少し黙った。
「見つからないんだ」
海斗は引きつった笑みを浮かべる。
「じゃあ探してよ」
誰も答えなかった。
雨だけが降り続ける。
数日が過ぎ。
数週間が過ぎた。
手がかりは何も出なかった。
連絡もない。
遺体もない。
何も。
やがて人々は「行方不明」と言わなくなった。
代わりに、こう言い始めた。
「死んだ」
海斗はその言葉が大嫌いだった。
絶対に信じなかった。
毎朝、玄関の扉が開くのを待った。
毎晩、窓の外を見つめながら帰ってくるのを願った。
でも――静けさは変わらない。
部屋は少しずつ冷たくなっていった。
寂しく。
空っぽに。
ある夜、海斗は一人で食卓に座っていた。
テーブルには三人分の皿が置かれたまま。
彼は片付けられなかった。
小さな手が震える。
「ヒーローは人を助けるんでしょ……」
涙が頬を伝う。
「なんで誰も、ママとパパを助けてくれなかったの……?」
返事はなかった。
あるのは静寂だけ。
その日から、海斗の夢は変わった。
もうただの憧れじゃない。
子供っぽい空想でもない。
それは――約束になった。
自分の周りの誰も、二度と一人で苦しまないようにするという約束に。
やがて海斗は孤児院へ送られた。
彼はそこがすぐ嫌いになった。
建物には温かさがなかった。
冷たい壁。
冷たい食事。
冷たい笑顔。
夜になると、彼は裏のフェンスを乗り越え、街を走り抜けて町外れの小さな森へ向かった。
木々の奥深く。
そこには昔、自分で作った秘密基地がある。
廃材やビニールシートを集め、子供らしい意地だけで作った小さな木の小屋。
他人から見ればボロボロだった。
でも海斗にとっては特別な場所。
ヒーロー基地だった。
彼は何時間もそこに座っていた。
考えて。
夢を見て。
待ちながら。
ある雨の夜。
海斗は膝を抱えて秘密基地に座っていた。
雨が屋根を叩く音が静かに響く。
「ママ……パパ……」
震える声。
「僕、ヒーローになるから」
暗い森を見つめる。
「そしたら……絶対に二人を見つける」
その時初めて、彼は声を上げて泣いた。
森は何も言わず、その涙を聞いていた。
数週間後。
ひとりの老人が孤児院にやって来た。
海斗は今でも、玄関の扉が開く音を覚えている。
老人は地味な黒いコートを着て、傘を持っていた。
年老いているのに、背筋は真っ直ぐだった。
その瞳は穏やかで。
賢そうで。
何を考えているのか読めなかった。
職員に連れられ、海斗は事務室へ入る。
「海斗くん、この人が君のおじいさんだそうだよ」
海斗は固まった。
おじいちゃん?
ほとんど覚えていない。
老人はゆっくり海斗の前にしゃがみ込んだ。
「大きくなったな」
静かな声だった。
不思議と暖かい声。
老人はポケットから古い家族写真を取り出した。
海斗の目が大きく開く。
本物だった。
手続きや話し合いの後、海斗は正式に孤児院を出ることになった。
外へ出た瞬間、海斗は老人のコートをぎゅっと掴んだ。
「ほんとに……おじいちゃんなの?」
「そうだ」
「じゃあ……」
海斗の声が震える。
「お願いだから、おじいちゃんまでいなくならないで」
ほんの一瞬。
老人の表情が変わった。
その目に痛みがよぎる。
だが、すぐに優しく海斗の頭へ手を置いた。
「いなくならない」
海斗は泣きながら彼に抱きついた。
老人も静かに抱き返す。
二人は、昔海斗が両親と暮らしていた家へ戻った。
最初は、その家に入るだけで胸が痛かった。
どの部屋にも思い出がある。
父親がテレビを見ながら寝ていたソファ。
母親が朝食を作っていたキッチン。
誕生日を祝った廊下。
時々、海斗は両親の声が聞こえた気がして目を覚ました。
でも次の瞬間、現実を思い出す。
それでも――
祖父はいつもそばにいてくれた。
優しく。
穏やかに。
笑いながら。
料理を作り。
学校まで送ってくれて。
海斗の話を聞いてくれる。
彼の夢を笑ったことは、一度もなかった。
ある夜、夕食中に海斗は恐る恐る聞いた。
「おじいちゃん……ヒーローになりたいって、やっぱ変かな?」
老人は静かにお茶を飲みながら答える。
「どうしてそう思う?」
「みんな笑うから」
老人は湯のみを置いた。
「今の世界は、ヒーローが何なのか忘れてしまっただけだ」
海斗は瞬きをする。
「忘れた?」
「ああ」
老人は小さく笑った。
「だが、孤独の中でも消えない夢ほど強いものはない」
海斗は黙って彼を見つめた。
そして笑った。
その日から。
海斗は毎日鍛え始めた。
腕立て伏せ。
ランニング。
筋トレ。
サバイバル本を読む。
ネットで格闘技の動画を見る。
特別な力なんてなくても。
現実に笑われ続けても。
海斗は確信していた。
いつか――
何かが変わると。
現在。
朝日がキッチンへ差し込み、焼いたパンの香りが広がっていた。
十六歳になった海斗は、半分眠った顔で朝食を食べている。
寝ぐせだらけの髪。
向かいでは祖父が静かにお茶を入れていた。
海斗は黙って祖父を見る。
祖父は街の誰にでも優しかった。
子供たちに好かれ。
店の人にも親しまれ。
近所の人はよく話しに来る。
そして、海斗の変な夢を――一度も笑わなかった。
突然、目覚まし時計が鳴り響く。
海斗の目が開く。
「やっば!? 遅刻する!!」
彼は食パンを掴み、そのまま玄関へ走り出した。靴を履くのも同時進行だ。
「慌てるな。また転ぶぞ」
祖父は落ち着いた声でお茶を注ぐ。
海斗は返事しようとしたが、口いっぱいのパンのせいで変な声しか出ない。
祖父はくすっと笑った。
「本当に、お前は時々父親そっくりだな」
海斗の動きが少し止まる。
表情が柔らかくなった。
「……ほんと?」
老人は静かに頷いた。
「良くも悪くもな」
海斗は小さく笑う。
その瞬間――
ピピピピピ!!
またアラームが鳴った。
「ああああっ!」
海斗は鞄を掴み、玄関へダッシュする。
「行ってきます!」
「気をつけてな」
海斗は振り返らず、親指を立てて家を飛び出した。
冷たい朝の空気が顔に当たる。
金沢の街はもう目覚めていた。
車が行き交い。
店が開き始め。
制服姿の学生たちが笑いながら歩いている。
普通の世界。
ヒーローなんていない世界。
海斗は走りながら鞄を持ち直した。
今まで何があっても――
彼の夢は変わっていない。
どれだけ笑われても。
子供っぽいと言われても。
心の奥では、まだ信じていた。
いつか何か不可能なことが起きるって。
もしかしたら――
本当にヒーローは存在するかもしれないって。
「おはようございまーす、ヒーローくん♪」
海斗の表情が一気に曇る。
後ろからクラスメイトの男子グループが近づいてきた。
ニヤニヤ笑いだけで全部わかる。
「最近誰か助けたかー?」と一人がからかう。
別の男子が笑った。
「昨日もレーザー撃って忙しかったんじゃね?」
グループは大笑い。
海斗は黙って拳を握る。
「なあ、そろそろ能力見せてくれよ」
海斗は目をそらした。
「……放っておいて」
「うわ、ヒーロー怒ってる」
また笑い声。
海斗は歩く速度を上げた。
さらに速く。
やがて走り出す。
背後から追いかけてくる笑い声は毒みたいだった。
教室へ着く頃には、胸が重くなっていた。
教室は騒がしい。
友達と話す生徒。
机で寝る生徒。
スマホをいじる生徒。
海斗は静かに窓際の席へ向かった。
座った瞬間、自然と視線が教室の中央へ向く。
そこには、ひとりの女子が友達と話していた。
長い黒髪。
優しい声。
明るい笑顔。
何もしなくても自然と人の中心になるような子。
海斗は慌てて視線を逸らした。
「……バカ」
小さく自分に呟く。
授業が始まる。
でも海斗はほとんど聞いていなかった。
数学の公式も。
歴史の話も。
全部、頭に入ってこない。
彼の心は別の場所にあった。
ヒーロー。
能力。
夢。
いつも通りのことばかり。
数時間後。
最後のチャイムが鳴った。
生徒たちはすぐ立ち上がり、教室が騒がしくなる。
海斗は静かに鞄をまとめ、目立たないよう帰ろうとした。
だが、立ち上がる前に――
影が机に落ちる。
「よう、ヒーロー」
海斗はゆっくり顔を上げた。
朝の男子が、馬鹿にした笑顔で立っている。周りにはクラスメイトたちも集まっていた。
「助けてくれよ」と男子が大げさに言う。
「悪の怪人に昼飯代を盗まれたんだ」
教室に笑いが広がる。
「超パワー使えよ!」
「いや、空飛べるんじゃね?」
海斗は黙っていた。
男子が顔を近づける。
「つーかさ、まだヒーローとか言ってんの? ガキすぎね?」
海斗の手がゆっくり鞄を握りしめる。
そして――
無意識に。
好きな女子の方を見てしまった。
ほんの一瞬。
目が合う。
そして――
彼女も笑った。
大声ではない。
意地悪な笑いでもない。
でも、それで十分だった。
海斗の中で、何かが静かに壊れた。
彼は突然立ち上がる。
椅子が大きな音を立てて床を擦る。
一瞬だけ教室が静かになった。
でも、それだけ。
「うわ、ヒーロー本気で怒ってる」
また笑い声。
海斗は俯いたまま、人を押しのけて教室を出た。
「おい、どこ行くんだよ!」
無視した。
教室の扉がバタンと閉まり、海斗は廊下を走る。
視界がぼやける。
胸が痛い。
走っているからじゃない。
惨めだったから。
頭の中で声が何度も響く。
子供っぽい。
変なやつ。
ヒーロー。
どの言葉も重かった。
海斗は学校の階段を駆け下り、そのまま外へ飛び出した。
夕焼け空がオレンジ色に染まり始めている。
冷たい風が頬を撫でる。
金沢の街を走り抜ける。
どこかで足を滑らせた。
体が地面へ叩きつけられる。
膝と手のひらに鋭い痛み。
近くの人たちはちらっと見るだけで、そのまま通り過ぎていく。
誰も止まらない。
誰も声をかけない。
海斗はゆっくり立ち上がった。
「……大丈夫」
自分でも信じていない言葉。
彼はまた走り出した。
今度はもっと速く。
世界全部から逃げるみたいに。
やがて建物は消え。
騒がしい街は静かな道へ変わる。
町外れの小さな森。
秘密の場所。
海斗は枝をかき分け、木々の奥に隠れた古い秘密基地へ辿り着いた。
小さな木の小屋は、前よりさらに古く見える。
ボロボロの木材。
錆びた釘。
今にも崩れそうな屋根。
他人から見ればただのガラクタ。
でも海斗にとっては――唯一、息ができる場所だった。
彼は中へ入り、鞄を隅へ投げる。
静寂。
そして突然――
「くそっ!!」
海斗は金属缶を掴み、部屋の向こうへ投げつけた。
ガンッ!
「なんでみんな、いつも俺を笑うんだよ!?」
別の物が壁へぶつかる。
「俺はただ……」
声が震えた。
「人を助けたかっただけなのに……」
涙がゆっくり流れる。
海斗は乱暴に拭う。
でも止まらない。
両親を失っても。
長い間ひとりぼっちでも。
彼はまだ、そのバカみたいな夢を手放せなかった。
だって、それを失ったら――
自分には何が残る?
呼吸が乱れる。
苛立った海斗は、床の石を掴んで木の壁へ投げた。
ドンッ――
「……え?」
海斗は止まる。
今の音。
木じゃない。
彼はゆっくり壁を見る。
古い板が少しズレていた。
その奥――
夕日の中で、何か金属のようなものが反射している。
海斗は慎重に近づいた。
「……なんだこれ?」
板を外す。
埃が舞う。
壁の中には、小さな金属製の収納箱が隠されていた。
海斗の呼吸がゆっくりになる。
古い。
何年も触られていないようだった。
いや、何十年も。
「……何なんだよ、これ」
彼はゆっくり開ける。
中には小さな黒い箱が入っていた。
表面には銀色の模様。
まるで絡み合った糸みたいに、不気味に広がっている。
海斗が触れた瞬間――
凍るような冷気が指を走った。
彼はすぐ手を引っ込める。
「……気味悪っ」
なぜか。
その箱は、生きているように感じた。
だが、恐怖より好奇心が勝っていく。
海斗はゆっくり箱を持ち上げ、床に座った。
薄暗い夕日の中で、銀の模様が動いているように見える。
まるで呼吸する血管みたいに。
「お前……何なんだ?」
彼はゆっくり蓋を開けた。
静寂。
何も起きない。
海斗は眉をひそめる。
「……は?」
その瞬間――
ギャアアアアアアアッ!!
耳を裂くような悲鳴が箱の中から響いた。
「なっ――!?」
黒い化け物が突然飛び出してきた。
海斗は驚いて後ろへ倒れる。
それは異常な存在だった。
影と肉が混ざったような歪んだ体。
細い糸みたいな触手が、虫のように全身を這っている。
そして真っ赤に光る目が、まっすぐ海斗を見つめた。
海斗の体が凍りつく。
本能が叫んでいた。
逃げろ、と。
次の瞬間、化け物が顔へ飛びかかってくる。
「来るなぁぁ!!」
海斗は必死に押し返そうとした。
だが――
寄生体は無理やり彼の口の中へ入り込んだ。
悲鳴が途切れる。
喉の奥で、焼けるような激痛が爆発した。
溶けた針が体の内側を引き裂くみたいだった。
海斗は木の床へ崩れ落ちる。
視界が激しく揺れた。




