13.もう王城へ行かなくていいのね
久しぶりの本邸を見上げ、ガブリエルは懐かしさに表情を和らげる。幼い頃は毎年、王都と領地を往復していた。王太子の婚約者になったことで、王太子妃教育が始まった。覚えることが多すぎて、帰る時間が取れない。加えて、王城へ通わなければならなかった。
きちんと覚えれば、教育係は褒めてくれる。勉強自体は好きなので、学ぶことは苦にならなかった。量が多すぎる状況には辟易したが、最大の問題は人間関係だ。
王城には様々な貴族が登城する。娘を王妃にしようと目論む貴族、未来の王妃に擦り寄って利を得ようとする者。うんざりする状況だった。これが結婚後も続くと思えば、逃げ出したくもなる。そのうえ、甘やかされた王太子は学ばない。
彼が覚えない分野は、すべてガブリエルに割り振られた。王太子妃教育そのものだけなら、二年もあれば合格がもらえただろう。公爵令嬢としてマナーや礼儀作法、他国の要人と自国の貴族は覚えているのだから。
最低でも外国語は二つ習得し、自国の言語を合わせ三か国語を操ること。ガブリエルは二年でこの条件を満たした。本来、国王夫妻は互いに別の言語を学んで、四つの外国語を操る。その前提が、王太子ニクラウスによって崩された。王太子妃として、四つの外国語を学ばされたのだ。
混乱して単語が抜けたり、別の国の単語が出てきたり。泣きたくなるような時間を過ごした。その勉強をすべて放り出し、領地へ戻れることはガブリエルにとってご褒美だった。何があったのか知らないが、嬉しいが先に立つ。
「お父様、お母様、ラエル! 皆がお迎えに出ているわ」
王城へ通うようになって、父母は交代で領地へ戻った。どちらかがラファエルに付き添い、常にもう一人は王都に残る。娘と息子がどちらも寂しい思いをしないよう、親として気を配った。いつも申し訳なさそうな顔をしていたガブリエルが、大喜びしている。その姿だけで、ミヒャエラは涙ぐむ。
屋敷前の広くなった道を、馬首を並べてゆったり歩く。もう急ぐ必要はなかった。
「そうね。皆もリルに会いたかったのよ」
「私も会いたかったわ。アードルフは本邸から出ないんだもの」
家令とは本家の屋敷を守る管理人だ。使用人を纏める役割も担うため、半日以上外へ出ることはなかった。主人の用事を足す目的で外出する執事とは違う。わかっていても、領地へ帰れなかったガブリエルはアードルフに会いたかった。祖父のように優しく厳しい彼に懐いていたのだ。
「いつまで領地にいられるの?」
近づく屋敷を見ながら、ガブリエルは不安そうに尋ねた。きゅっと唇を噛み、震える声を誤魔化して……潤んだ目が瞬く。背中を預ける従兄が、黒髪を撫でた。
「ずっとだよ」
ケヴィンの断言に、赤い瞳が見開かれた。驚いたガブリエルは隣で相乗りする父母に視線を向け、二人が頷く姿に固まる。そんなことあるのだろうか、もう王城へ行かなくていい? 喜びが浮かぶそばから、連れ戻されるのではと恐ろしくなった。感情が忙しい。
「やった! ずっと一緒? 嬉しいな」
素直に喜ぶ弟の姿に、ガブリエルも実感が湧いたらしい。表情が見る間に変化して、満面の笑みを浮かべた。カールに「こら、落ちるぞ」と宥められるラファエルは素直に謝って、ぺろっと舌を見せる。お行儀の悪い仕草なのに、嬉しくなったガブリエルも真似した。
「二人とも……舌を見せたらダメよ。お行儀悪いわ」
いつもと同じ母の注意に「はい」といい子の返事をする。足をぶらぶら揺らしたり、立ち上がってみたりしたいけれど……馬が驚いちゃうわね。ガブリエルは従兄に寄り掛かり、撫でる手に甘えた。
そっか、もう頑張って行かなくてもいいんだ。明日、何をしようかな。久しぶりに、空白となった明日の予定に胸を弾ませる。
門をくぐって、玄関前まで整備された庭を進んだ。アードルフに抱き着いて「ただいま」って言ったら、喜んでくれるかしら? 思いついた悪戯を試そうと、わくわくしながら馬に揺られた。




