閑話 ギエーナの激情
ユークレース伯爵夫人視点です。
ユークレース伯爵夫人こと、ギエーナ・ユークレースはオブシディアン家から家路につく。
ギエーナは馬車に揺られながら、膝で眠る息子――アルファルドを見て微笑んだ。
こうしていると、長男であるネクタリオスを膝に乗せ、読み聞かせていたことを思い出す。
遊び疲れたのか、読み始めるとすぐに眠い目を擦り、微睡み始める。
もう十年以上も前の話だ。
今では立派に夫であるユークレース伯爵のお仕事の補佐をしている。
きっとこの子もすぐに大きくなる。
寂しいような温かいような幸福がギエーナの胸に広がった。
そうだ。漸く、安心してこの子を家に置いておくことができる。
じわりと熱い水が目の淵に溜まり、曇りガラスのように視界を曇らせた。
あのとき、この子を養子に迎えて本当に良かったとギエーナは思う。
夫が「プルーラの子を養子に」と言い出したとき、ギエーナは不安だった。
***
夫の妹のプルーラは可哀想な女だった。しかし、それと同時に依存心の強く、まるで不幸に酔っているような女だった。
周りのありとあらゆる男に媚を売り、甘え、依存する。依存された方は最初は心地いいのだが、徐々に重苦しく息詰まり、最終的に逃げていってしまうのだ。
彼女はそれに気づかない。
不幸に愛され、不幸を選ぶ女。
口癖のように「あの人は王子さまじゃなかったんだ。いつか本当の王子様が会いに来てくれる。だから待たなきゃ」と呟くのをギエーナは何度も聞いたことがあった。
まるで呪いだ。彼女は自分に呪いをかける魔女だった。
だから、駆け落ちをしたと聞いたときはもう関わることがなくなるのだと、心底ほっとしたものだった。
そんな女の息子だ。
関わることさえ厭わしかった。
それでも、夫の手前、そう無下にすることもできず、養子にすることを了承したのだった。
しかし、実際に会ってしまえば、そんな感情、ぱっと吹き飛んでしまった。
アルファルドは、同じ年頃の子どもよりも細く、小さかった。
動くたびに服の下の赤い蚯蚓腫れや赤黒い痣がちらちらと覗く。
聞けば、あの女の内縁の夫とやらがやらかしたことらしい。
ギエーナは恐怖と激しい憤りを覚えた。
自分が手を振り払えば、きっとこの子を簡単に死んでしまう。
儚くて脆くて、手から零れてしまいそうな、そういう類の恐怖をあの女はこの子に感じなかったのだろうか。
感じたとしたのなら、なぜこんな仕打ちができるのだろうか。
いや、あの女はいつも自分のことには敏感で、そういうことには鈍感なのだ。
だからこんなことができるのだろう。
どんな理由があっても、許せない。
この子は自分が守らなければならない。
きっと同じことを夫も感じたのだろう。
だとしたら、彼の判断は正しい。
ギエーナはアルファルドと言う存在を全て肯定したいと思った。
ここにいてもいいのだと、守られるべき存在であるのだと、私が守りたいのだと、どうしても伝えたかった。
でも、こんな幼い子どもに上手く言葉で伝えられそうもない。
ギエーナは抱きしめることでそれを伝えることを思いついた。
アルファルドに向かって膝を付き、両手を開く。
しかし、幼いアルファルドは、意味が分からなかったようだ。
身を強張らせて、じっとギエーナの両手を見つめる。
アルファルドの体は微かに震えていた。
訳も分からず連れて来られ、怖い思いをしているだろう。
それでも、この子は逃げ出せずにいるのだ。
逃げても、暴れても、何をしても無駄だと思うほどの暴力を受けてきたに違いない。
ギエーナはゆっくりとアルファルドに近づく。
力を入れたら壊れてしまいそうだ。
そう思い、優しく包み込むように抱く。
汗や皮脂と埃の匂いに混じって、何かが腐ったような、饐えた匂いがした。
この子は生きながら、腐っていくところだったのではないか。
そんなことを思った。
それと同時に先程とは違う恐怖が湧き起こった。
この子をあの女にとられてしまうことがたまらなく怖い。
勿論、自分は絶対にこの子を渡したりしない。
でも、もし、この子があの女に会いたいと言ったら?
会うだけじゃない。
この子が私たちより、自分を捨てたあの女を選んだら?
ギエーナは急に不安になった。
きっとあの女はこの子を傷つける。
会うだけでそうなるのがありありと浮かんだ。
この手をすり抜けて、あの女に会いに行くことを自分は止められるのだろうか。
いや、止めなければいけない。
ギエーナはほんの少し、抱きしめる力を強めた。
アルファルドの鼓動が聞こえる。
ギエーナはアルファルドに初めて会った、今日と言う日を絶対忘れないだろうと思った。
***
ギエーナはアルファルドの頭を撫でる。
アルファルドは小さく動いた。
起こしてはいけない。
そう思って、ギエーナは慌てて手を離す。
掌にさらさらとした気持ちのいい感覚が残った。
「ごめんなさいね。不甲斐ない親で」
ギエーナは小さく呟いた。
アルファルドの返事はない。
この子の寝顔を守るために、自分は何をしてきたのだろう。
あの女が、実力行使をすることは分かっていた。
分かっていたのに、息子たちと、夫と同じ色の瞳に見つめられると冷徹になりきれなかった。
アルファルドを預けている間、あの女を見つけ出し、王都から追い出してやったが、そのくらいではあの女には生温かった。
どうやってなのか、すぐに戻ってきたのだ。
そして、危惧した通り、アルファルドを探し出し、事もあろうにオブシディアン家のご令嬢にまで危害を加えた。
オブシディアン伯爵夫人やご令嬢が快く手を貸してくれたのにこんなことになるなんて。
いや、彼女たちのおかげで、直ぐにあの女を捕まえることが出来たのだ。
今度はもっと遠くに、重い労働を科して心も体も酷使させ、戻れないようにしてやるまでだ。
いや、いっそ、労働なんかより、ひとおもいに殺してやりたい。
そうすれば、全てが丸く収まる。
ギエーナの胸に黒い感情が渦巻く。
「母さん?」
アルファルドはピクリとも動かずに呟いた。
いつから目が覚めていたのだろう。
自分の黒い感情を咎められたような気がして、ギエーナは動揺した。
「アルファルド?」
唇が微かに震え、声が上擦った。
「ごめんね」
「こちらこそ……今回のことで本当につらかったのは貴方なのにごめんなさい」
「ちがう」
アルファルドは体を起こす。
あの女と同じ色の瞳がギエーナを見つめた。
浅瀬の海ようなキラキラとした瞳だ。
ギエーナは目を逸らしそうになる。
視線を逸らせば、あの女に負けてしまうような気がして、ギエーナはぐっと我慢をした。
「俺、もう間違わない。間違わないから」
縋るような、媚びるような、捨てないでと言っているような瞳。
ギエーナはぞわりとした。
まるで、自分の不安を見透かされたような気がした。
アルファルドがあの女と会っていたかもしれないと知ったときのことだ。
アルファルドが記憶喪失だということにほっとしている自分がいることにギエーナは気づいた。
自分たちよりあの女を選んだのではないかという不安に押し潰されそうで、怖かった。
ギエーナはアルファルドに向き合う自信がなかった。
真実を知ったら、心が折れて、この子を愛せなくなるかもしれないと思った。どんなことをしても守りたいと思ったくせに。
だから、どうしても手離したくなかったくせに、あっさりとオブシディアン家にアルファルドを任せることを決めたのだ。アルファルドはここにいたくないから仕方ないと言い訳をして。
捨てたかったんじゃない。
ほんの少し離れて、自分の気持ちを確認したかった。
例え、アルファルド本人に拒否されても、何があっても、この子の親だと言える自信があるか。挫けないで、必死に縋ることができるか。
そういう覚悟があるか、もう一度自分に問いかける時間が欲しかったのだ。
でも、この子にはそんなことは関係ない。
アルファルドのことを本当に思うのであれば、自分の中の小さな不安なんて無視するべきだった。
きっと、また親に捨てられたのだと思ったに違いない。
自分のしたことの愚かさをギエーナは噛みしめた。
「ごめんなさい。私ももう間違わないから。だから、貴方の親でいさせて。守らせてほしいの」
ギエーナの目からは熱いものが零れ落ちる。
滴がじわりとドレスに染みを作った。
アルファルドは首を振った。
ギエーナの胸に絶望に似た喪失感が広がる。
急速に体温が奪われる。
やけに背中が強張って、呼吸が浅くなる。
涙は冷え、ゆっくりと頬を伝った。
「もう許されないの? それでもいい。お願いだから貴方を守らせて」
「ちがう」
アルファルドはもう一度、頭を振った。
今まで明確に意思表示をしてこなかった息子がこんなに頑なになるなんてとんでもないことをしてしまったのだとギエーナは思った。
「何が……」
喘ぐように息とともに言葉が漏れた。
「今度は俺が守るから。だから、そんな顔をしないで、母さん」
そう言ってアルファルドはギエーナを抱きしめた。
柔らかく、甘いベビーパウダーのような香りがした。
アルファルドからはもうあの饐えた匂いはしなかった。




