第4話:記憶の残滓
第4話:記憶の残滓
「——警告。第3区画における概念汚染度が、限界深度に到達」
機械的なアナウンスが、耳奥の通信機器を通じて脳に直接響き渡る。
境界の深淵を突破したトムの目前に広がっていたのは、廃墟と化した近代都市の影だった。だが、それは鉄筋コンクリートで築かれた通常の都市ではない。高層ビルの壁面は半透明の文字データの羅列によって構成され、路上を流れる風すらも、打ち捨てられた言語の破片を孕んで冷たく頬を撫でていく。
『ヒューマン・アーカイブ』が保持する、何千もの『忘れ去られた都市』の記憶。
そこは、実在した歴史と、誰かが妄想し放棄した虚構がドロドロに混ざり合う、歪んだ記録の墓場だった。
「トム、聞こえるか?」アレックスの声がノイズ混じりに届く。「共鳴球を体内に保持したことで、君自身の存在波形が第3区画の記憶データと干渉を起こし始めている。長居は無用だ」
トムは荒い息を整えながら、右手のエーテルグリップを固く握りしめた。
「干渉だと……? 具体的にはどういうことだ」
『君の過去、君の感情、そして君が忘れようとしていた記憶——それらがアーカイブのデータと同期し、実体化するリスクがあるということだ。Candidate(候補者)としての精神障壁を常に最大に保て。一瞬でも自我が揺らげば、君という人間はこの領域の『背景』へと書き換えられる』
「ふっ……上等だ。最初からまともな精神状態でいられる場所じゃない」
トムは瓦礫の山を蹴り、データの路地へと歩を進めた。
足元をすり抜けていく灰色の霧。その霧の中に、時折、人間らしき影が浮かび上がっては消えていく。古代の兵士、名もなき市民、中世の拷問官、そして——かつてトムとともに戦い、消滅していった『Candidate』たちの面影。
「失われた者たちの幻影か」
『気にするな。それはただの記録の残滓だ。意思も魂もない。アーカイブが君の侵入を拒絶するために引きずり出してきた、単なる防御プロパティに過ぎない』
「分かっている」
だが、言葉とは裏腹に、トムの胸の奥で静かに拍動する共鳴球が、不吉な熱を放ち始めていた。
突如、空間が大きく歪んだ。
前方の高層ビル群がガラスのように割れ、その裂け目から巨大な影がゆっくりと這い出してきた。
それは巨大な巨人の形をしていたが、顔面には目も鼻もなく、ただ巨大な『記録の目録』が刻まれた無数の羊皮紙が、顔全体を覆い尽くすように貼り付いている。
『忘却の監視者……!』アレックスの叫びが跳ね上がる。『第3区画のメイン防衛プログラムだ! トム、そいつは概念装甲による物理攻撃をほとんど無効化するぞ!』
巨人が腕を振るう。
それだけで、周囲のビル群が数十メートルにわたって文字の塵へと分解され、空間そのものが削り取られていく。
「概念の消去能力か……!」
トムは瞬時に後方へ跳躍した。彼が直前まで立っていた地面は、何ひとつとして痕跡を残さず『存在しなかったこと』として書き換えられていた。
冷や汗が首筋を伝う。一撃でもかすめれば、肉体はおろか、自分が生まれたという記憶すらも世界から抹消される。
「アレックス、アーカイブの検索権限を開放しろ。通常の記録コードじゃ太刀打ちできない」
『ダメだ! 適合率四二パーセントで高次権限を使えば、君の脳が焼き切れる!』
「ここで消去されるよりはマシだ! ハックを急げ!」
巨人が再び腕を振り上げる。空気が悲鳴を上げ、絶対的な無の波動がトムへと押し寄せる。
トムは静かに目を閉じ、胸の奥にある共鳴球へ意識を沈めた。
「検索要求——対象:『存在の証明』」
意識の海が荒れ狂う。
アダムの誕生、文明の興亡、無数の戦争、愛と絶望、そして終わりなき死の連鎖。
人類史のすべての質量が、トムの脆弱な精神へととなだれ込んでくる。
「ぐああああぁぁっ……!」
絶叫が掠れた喉から漏れ出る。視界が真っ赤に染まり、全身の細胞がひとつずつ崩壊していくような激痛。
だが、彼は踏みとどまった。
失われた仲間たちの顔、自分が守らなければならない最後の約束。その断片的な記憶が、彼を現実に繋ぎ止めるアンカーとなった。
「適合概念を選定——記録コード:0001『最初に光ありき』!」
トムの手元から放たれたのは、暗黒の虚無すらも焼き尽くす、純粋なる存在の奔流だった。
光と無が衝突し、第3区画全体が激しい振動に包まれる。
巨人の腕が光に呑み込まれ、羊皮紙で覆われた顔面が悲鳴のようなノイズとともに引き裂かれていく。
「おおおおおっ!」
トムは光の軌跡を纏い、巨人の懐へと飛び込んだ。
刃を真っ直ぐに巨人の胸核——記憶の目録の中心へと突き立てる。
静寂。
一瞬の静寂の後、巨大な異形は数万の文字の破片となって空間へ散らばり、ゆっくりと消滅していった。
膝をつき、激しく息を吐き出すトム。
手中のグリップは熱で歪み、全身の皮膚からは微かなエーテルの光が漏れ出している。
「……ハァ……ハァ……」
『トム! 無事か!? 通信が一時断絶していた!』
「……生きている。目標の排除を……完了した」
トムはゆっくりと立ち上がり、乱れた息を整えながら前方の暗闇を見つめた。
崩壊した巨人の痕跡の奥に、さらなる深層への階段が姿を現していた。
『ヒューマン・アーカイブ』の最奥へ。
人類の全記憶を巡る絶望的な旅路は、第4の領域へと続いていく。




