人理のアーカイブ — 第15章:決死の火花)
豪華客船タイタニック号の甲板は、単に傾いていたのではない。絶叫していた。
船底に纏い付く異形——『鉄の魔獣』の寄生的な質量によって、史実の限界を超えて歪められた鋼骨が、耳を deafen するような高音の金属悲鳴を上げる。船尾甲板に沿って、鋲が連続して弾け飛び、凍てついた高級木材の床を大口径の弾丸のように掃射した。
見下ろす漆黒の大西洋。だが、艦尾の真下に広がるそれは、もはや地球の海ではなかった。
次元の裂け目から溢れ出る、非ユーグリッド幾何学を描く虚無の濁流。魔獣の深淵質量が穿った、次元崩壊の深淵である。
「支援射撃! 前線を維持しろぉッ!」
ティーチの咆哮が、吹き荒れる暴風を断ち切った。
傾斜角四十五度に達した甲板上、巨漢の作業靴を構造用ボラード(繋船柱)の隙間にねじ込み、身体を固定する。その両手に握られているのは、エーテル合金を精錬して鍛え上げられた規格外の怪物——四連装四ゲージ・ショットガン。
ズドン! ズドン! ズドン! ズドン!
銃口から噴き出す白熱の火柱。高密度タングステン散弾の群れが、右舷後方から這い上がる魔獣の多眼複眼群へと直撃した。一発一発が野砲並みの破壊力を秘めた猛打。魔獣の甲殻を粉砕し、粘着質な黒い体液が極寒の大気に飛散、甲板に届く前に瞬時に凍りつく。
その左手では、ノエルが恐ろしいほどの精密機械と化していた。
片膝を突き、対物キネティック・ライフルを肩部ハーネスに固定。彼女の網膜上で、シアン色の照準HUDが高速でデータ演算を更新していく。
「目標、複眼群ベータ。運動エネルギープラグ、装填完了。……放ちます」
シューッ——バンッ! シューッ——バンッ!
激しい反動とともに排気された冷却用蒸気。マッハ六で射出された劣化ウラン弾頭が、魔獣の中央主眼を三つ同時に貫通する。激痛に狂ったレヴィアサンがのたうち回り、巨大な蛇体を舵柱へとさらに強く巻き付けた。
アレックスもまた、標準支給のカービン銃を連射し、舷裏を這い登ろうとするやつめウナギ状の触手群を薙ぎ払う。「くそっ、離れねえ! 船尾ごと特異点へ引きずり込む気だ!」
「ルナ! 状況報告!」
アレックスは通信機に向かって叫んだ。氷に覆われたチーク材の床の上で、ブーツの底がズルリと数インチ滑る。船体が、さらに十度、深淵に向かって急速に傾斜した。
アレックスの戦術視界内に、警告色である灼熱の琥珀色ウィンドウが割り込む。
【 警告:空間構造維持率 14% に低下 】
【 対象識別:深淵級レヴィアサン(クラスIVコア) 】
【 竜骨耐性限界:340% — 構造崩壊が秒読みに入りました 】
『ダメです、隊長!』ルナの悲鳴のような声がイヤホンに響く。『あの魔獣は、タイタニック号の「沈没」という史実の事象そのものと位相座着しています! 船が沈む運命を次元の錨として利用しているんです! 物理的な運動エネルギー弾では、概念の鎖を断ち切れません!』
「なら——物理法則をブチ破るまでだ!」
アレックスは空の弾倉を叩き落とし、予備マガジンを装填した。
その時、レヴィアサンが巨大な鎧の頭部を持ち上げた。棘に覆われた甲殻、滴り落ちる深淵の粘液、そして不気味な紫色の反物質光を放つ中央コア。それは大気を通じた音を一切発しなかった。代わりに、自らが存在する空間の概念そのものを介して、深淵の空間衝撃波を放った。
ガアアアン——ッ!
衝撃波が、目に見える物理的な壁となって甲板を襲う。
残っていた鉄製ステーが一瞬で断裂。船尾が大きく跳ね上がり、木箱や剥ぎ取られた鋼鉄の破片が暗雲の空へと打ち上げられた。ティーチの巨体が吹き飛ばされ、構造物に背中から激突。手から離れたショットガンが凍りついた床を滑っていく。ノエルも足場を失い、崩壊した床板の隙間へ滑落しかけるが、露出したH型鋼に寸前でしがみついた。
船尾の頂点。そこに立つルーラーの銀の鎧が、沈みゆく月光の下で儚く輝いていた。
彼女の手に握られた聖旗は、空間の嵐に激しく煽られている。その顔色は蒼白で、白く荒い吐息が零れていた。
「魔力が……尽きた……?」
ルーラーの手が、槍を握ったまま震える。
「局所的な空間抑圧のせいで、周囲の大気マナが遮断されている……これでは宝具の展開が……あの爪を剥がすだけの出力が出せない……!」
アレックスは彼女を見つめた。
彼女の「英霊の器」の輝きが明滅している。深淵の裂け目がもたらす圧迫の中で、それは消えかかった泡沫の星のようだった。もし船がこのまま虚無へと沈めば、彼女の霊格そのものが永遠に分解される。ティーチは体勢を立て直そうとしているが、あと数秒は動けない。ノエルも崖っぷちにぶら下がったままだ。
(死ぬ……ここで全員、消える)
(俺の部隊が。俺の家族が)
アレックスの胸の奥で、何かがぶちんと弾けた。
視界の端で、軍用生体回路の冷却リミッターが虚しく警告を発している。
【 氣脈出力(Ki-Path):60%(標準安全限界) 】
【 システム推奨:医療支援なしでの限界突破を禁止します 】
「リミッター……解除」
アレックスの声から感情が消えた。冷たく、低い声。
【 エラー:セーフティ・ガバナーが作動中。理由:神経系破壊の危険性 】「解除しろと言っているんだ……ッ!!」
アレックスは胸元の生体モニタリングユニットへ拳を叩きつけた。純粋な気の脈動を直接流し込み、物理的に制限回路をショートさせる。
バリバリッ!
網膜の警告表示が、琥珀色から血のような深紅へと塗り潰された。
【 警告! 制限装置が破砕されました! 】
【 氣脈サージ:75%... 】
【 生体危険度:心拍数 190 BPM 】
【 氣脈サージ:90%... 】
【 警告:血管破裂の危険性が極めて高レベルです 】
熱——皮膚が焼け焦げるような苦痛が、アレックスの全身の血管を駆け巡った。
まるで熔解した鉛を、そのまま血流に流し込まれている感覚。視界の周縁が黒く塗り潰され、代わりに白熱した電撃の残像が疾走する。両眼の毛細血管が同時に破裂し、彼の左目は完全に血に染まった。
『アレックス! やめて!』
ルナの叫びがHUDを割った。公式プロトコルなど完全に忘れ去られている。
『あなたの神経回路はその負荷に耐えられない! 超代謝崩壊が始まっています! 100%を超えたら、心臓が破裂するのよ!』
「100%程度で……足りるかよおッ!」
アレックスは足を甲板に深く踏み込んだ。凍結した氷を打ち砕き、その下のチーク材まで靴底がめり込む。エンジンを限界まで回すのではない。エンジンそのものを不可逆的に燃やし尽くす。
【 限界突破:105% 領域に到達 】
【 警 告 : シ ス テ ム 全 面 崩 壊 】
アレックスの周囲の空気が歪んだ。
彼の身体から、黄金と白銀が混ざり合った圧倒的な気のオーラが爆発的に噴出する。半径十メートルの氷が、一瞬で蒸発して消え去った。神話の英雄や神性にのみ許された領域へ、ただの人間が狂気と執念で強引に引き上げた生のエネルギー。その余波だけで、足元の分厚い床板に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
鼻から、耳から、そして全身の毛穴から血が吹き出した。だがその血すらも、過熱した皮膚に触れた瞬間に赤い蒸気となって蒸発していく。
彼は走った。
十メートル。五メートル。
純粋な生命力(気)の異常な奔流を察知し、レヴィアサンの中央眼がアレックスを捉えた。無数の剃刀のような触手が、彼を肉片に変えるべく、音速を超えて襲い来る。
アレックスは避けない。
人間の生物学を超絶した速度で地を蹴り、三本の攻撃を紙一重でかわし、胸の装甲版で残りの四本を正面から受け止めた。火花と血飛沫が夜空に舞う。だが、その足は止まらない。
彼は魔獣を攻撃しなかった。
彼の狙いは——ルーラー。
前方に跳躍したアレックスは、視界を焼き尽くすほど乱高下する気の奔流を右手に集束させ、ルーラーの背甲、その「霊核」の真上へと力任せに叩きつけた。
「アレックス……!?」
ルーラーの瞳が驚愕に見開かれる。彼女の体内に、背中から凄まじい熱量と精神的圧力が直接流れ込んできたのだ。
「俺が……お前の『楔』だ!」
アレックスの口から、吐血とともに絞り出すような咆哮が漏れる。
「持って行けぇええっ! 俺の持ってる全滴、残さず持っていけええっ!!」
それは過酷なまでのエネルギー充填だった。
純粋な意志力によって超高密度プラズマと化した人間の「気」が、枯渇していたルーラーの英霊の器へ怒涛のように流入する。それは冷え切った内燃機関に航空燃料を直接流し込むに等しかった。彼女のコアは再起動したのではない。爆発したのだ。
ルーラーを包んでいた消えかけの光が、周囲の闇を全て焼き尽くす超新星となって膨れ上がる。
重圧な深淵の重力場が、光の絶対的な質量によって粉々に粉砕された。先ほどまでボロボロだった彼女の聖旗が、白熱する黄金の炎を纏い、嵐の中で力強くはためく。
ルーラーは感じていた。自分を後ろから支える、このちっぽけな人間の、焼けるように熱い、必死な鼓動を。自分にこの一撃を打たせるためだけに、己の命の回路を崩壊させている男の犠牲を。
彼女の瞳から涙が溢れ出た。その涙すらも、光の粒子となって消えていく。
「——了解しました、隊長!」
ルーラーの声が、天を揺るがす神聖な共鳴とともに響き渡る。
彼女は剣を、嵐が渦巻く極寒の空へと高く掲げた。
アレックスの身体から溢れ出る黄金の光が、彼女の腕を通り、柄を伝い、大西洋を覆う厚い暗雲を貫く巨大な光の柱へと昇華する。
「約束された勝利の剣——『 Planetary Excalibur 』ッ!!」
ルーラーは、一筋の迷いもなく、その光の刃を振り下ろした。
それは波動ではない。凝縮された星の光による、分子レベルの断裁線。
極寒の夜気を切り裂いた光線が、レヴィアサンの鋼鉄の爪が船の竜骨を締め上げていた、まさにその接点へと一直線に閃光を走らせた。
——静寂。
ほんの一瞬、世界からすべての音が消え去った。
次の瞬間、世界が音を立てて爆発した。
ズドドドギャアアアアアン——ッ!!
『鉄の魔獣』の深淵甲殻が、原子単位で切断された。
コアを両断された魔獣は、音のない叫びを上げながら白光を撒き散らす。船体を縛り付けていた位相座着が完全に破砕された。船底の下で広がりかけていた巨大な次元の裂け目が、圧縮された海水の大インプロージョン(逆引き波)とともに急速に収縮していく。
爪を失い、甲殻を打ち砕かれたレヴィアサンは、引き裂かれた空間の奥深くへ、絶望的な身悶えとともに暗い海へ落ちていった。そして、次元の亀裂は完全に閉じられた。
船体を押し潰していた異常な重力異常が消え去る。
数千トンの深淵の質量から解放されたタイタニック号の船尾が、水しぶきを上げて大西洋の水面へとドスンと落下した。船体は史実通りの沈没ラインへと戻り、傾斜はしているものの、もはや虚無の穴へと引きずり込まれることはない。
嵐が去っていく。
咆哮していた風の音は小さくなり、静寂が黒い海を包み込んでいった。
甲板の上に、完全な静寂が戻る。
「システム……シャットダウン……」
アレックスの手が、ルーラーの背中から力なく滑り落ちた。彼を包んでいた黄金の光が、吹き消された燭台の火のように消え去る。
彼の両膝が折れた。
過度の神経ショック、全身の血管損傷、そして完全な代謝枯渇。耐えかねた意識が急転直下で途切れ、糸が切れた人形のように、アレックスの身体が前へと倒れ込む。
「アレックス……!」
ルーラーは即座に振り向き、甲板に崩れ落ちる彼の身体を両腕でしっかりと抱きとめた。
剣を投げ捨て、全身から血を流し、湯気を立てている彼を、自身の胸甲へと強く抱き寄せる。
「ルナ! 急いで! 早く彼を!!」
ルーラーの叫び声から神聖な威厳は消え去っていた。そこにあったのは、自分を守るために命を燃やした男を抱きしめる、一人の怯えた少女の素顔だった。
「隊長ッ!」
ティーチが荒い息を吐きながら駆けつけ、巨大な膝を甲板につく。ノエルも手すりから飛び降り、顔を蒼白にしながら、太腿のポーチから緊急医療キットを取り出した。
【 警告:対象は深刻な神経ショック状態にあります 】
【 心拍数:32 BPM — 低下中 】
【 氣脈回路:広範囲にわたる溶融・破砕を確認 】
「生きている……!」ノエルが震える指でアレックスの首元に生体センサーを押し当てた。「でも、自分の命の回路を焼き切っている……! あと十分以内に核心を安定させないと……!」
ルーラーはアレックスの頭を抱きかかえ、彼女の涙が彼の蒼白な、血に汚れた頬へと滴り落ちた。
彼女は彼に額を押し当て、再充填されたばかりの自身の純粋な魔力を、細い糸のようにゆっくりと、彼の壊れかけた回路へと流し込み始める。
「バカな人……」
ルーラーの声が途切れ途切れに震える。
「本当に……命知らずなバカ……お願い、死なないで……っ!」
大西洋の冷たい風が、静まり返った甲板を吹き抜けていく。
遠く船首の方から、乗客を鎮めるために最後まで演奏を続ける劇団の、かすかな賛美歌の音色が聞こえていた。
仲間たちは、ただ一人、運命すらも折り曲げて自分たちを救った男の命を繋ぎ止めるため、凍てつく甲板の上で戦い続けていた




