人理のアーカイブ — 第14章:積載量の計量
人理のアーカイブ — 第14章:積載量の計量
非常用の昇降通路は、そもそも大の男二人が全速力で駆け上がるようには設計されていない。
ましてや、意識を失った油まみれの民間人を肩に担ぎ上げた状態など、想定の範疇外だ。
鉄製ラダーの濡れた踏み板に、アレックスの左ブーツが滑った。
剥き出しのリベットに指の関節が激突し、皮膚が裂けて生々しい筋膜が覗く。だが、圧縮スリーブの内蔵ダンパーが即座に痛覚を遮断した。代わりに、網膜ディスプレイの隅でくすんだ琥珀色の警告灯が点滅する。
『生体情報:中核負荷 61.4%』
『空間固定アンカー残量:危険域(消失まで 08分14秒)』
『心拍数:168 BPM ―― アドレナリン飽和度:高』
Eデッキの縦坑内には、焼け焦げた鉄とバッテリー液、そして区画を満たす間もなく澱み始めた海水の臭気が充満していた。
アレックスは、意識を失ったチャールズ・フォーチュンの重体を肩の上で担ぎ直す。濡れそぼった外套のウールが、頸椎に重くめり込んだ。
時代錯誤なエドワード朝様式のコート――その下に着込んだ戦術ハーネスの艶消しポリマーを隠すための偽装――の下で、呼吸のたびに肋骨がきしむ。
「上がれ」
銅の味と、漏れ出したオゾンの刺激臭に濡れた歯の隙間から、アレックスは短く吐き捨てた。
「足を止めるな、クソが」
頭上で、重い非常用ハッチが甲高い音を立てて跳ね上がった。
暗がりの中へ、手が伸びてくる。
鹿革の手袋に覆われた細い手だ。だが、その華奢な見た目からは想像もつかない膂力で、アレックスとフォーチュンの二人をコーミングの外へと強引に引きずり上げた。
左舷のボートデッキ。水浸しのチーク材の上に、フォーチュンの身体が無造作に投げ出される。
男に意識はない。顔色は鉛のように青白く、浸水時の激突で強打した左のこめかみには赤黒い鬱血が広がっていた。
「配達にしては随分と派手な騒音でしたね、隊長」
ノエルは即座に膝をつき、慣れた手つきでフォーチュンの頸動脈を探った。
真鍮製の懐中時計に偽装された野戦用医療スキャナが、耳障りな低周波の駆動音を立てる。
「重度の脳震盪、鎖骨骨折。ですが肺気胸は起こしていません。……もっとも、この甲板から早く降ろさなければ、凍死するのが先でしょうが」
「凍死はさせん」
アレックスは袖で目元の海水と汗を乱暴に拭った。
胸郭が激しく上下する。肺胞の一つ一つをヤスリで擦られるような痛みが走る。
「救命艇はどこだ」
「船乗りに聞いてください」
ノエルは油で汚れた親指で、ブリッジ脇のダビット(端艇揚卸装置)を指差した。
「事務員を海に放り込むまで、あと三十秒といったところです」
アレックスは身を起こした。
重厚なウールコートの下で、人工筋肉のアクチュエータが微かな駆動音を漏らす。
ボートデッキの惨状は、作戦上の悪夢そのものだった。
ボイラーの破裂を防ぐため、機関員たちが蒸気を強制放出しているのだ。前部煙突から噴き出す白煙は、まるで皮膚を剥がれた巨馬の断末魔のように絶叫していた。
氷海を越えて吹きつける北大西洋の突風は、刃物のごとき冷たさで皮膚から熱を奪っていく。
第六号救命艇のロープ脇に、巨漢が立っていた。
エドワード・ティーチ。
ホワイト・スター・ライン社の士官用ダブルブレストを無理やり羽織ったその姿は、ボタン留めすら弾け飛んでいる。腰帯には時代相応の回転式拳銃が二丁差し込まれていたが、鮫肌のように硬くひび割れたその両手は、今まさに滑車ロープを握り締めていた。
「ロープを緩めろ、このドブネズミが!」
蒸気の爆音を圧するティーチの怒声が、甲板の鉄板を震わせる。
ビレイピンにしがみついていた若い火夫は、二十メートル下の暗黒の海を見て完全に腰を抜かしていた。
「均等に降ろせ! さもなきゃ指をナイフで叩き落として、船底の滑り止めに叩き込んでやるぞ! 降ろせッ!」
ティーチは火夫の襟首を掴んで放り投げると、一人で左右二本のロープを掴み、四フィートほど一気に滑落させた。
ボートに乗った上流階級の婦人たちが金切り声を上げる。夜会服のシルクや毛皮が、檻の中で怯える鳥のように擦れ合った。だが、傾きかけていたボートは見事に水平を取り戻す。
「女子供が先だとよ」
ティーチは真っ白な木製デッキに噛みタバコの唾を吐き捨てた。
「俺の時代なら、吐かずにカットラスを振れる奴から順に乗せたもんだぜ。動け、腰抜けども! この鉄の棺桶はもう腹いっぱい海水を呑みたがってやがるんだ!」
そこから十歩ほど離れた乗船口――恐怖でパニックに陥りかけた二等乗客たちが殺到する場所には、マタ・ハリの姿があった。
貂の毛皮をあしらった濃紺のトラベルクロークに、深々と被ったクロッシェ帽。
彼女は叫ばない。叫ぶ必要すらなかった。
その声は、轟々と響く蒸気音の『隙間』を正確に縫うように響く。ビロードのように滑らかで、一切の動揺を排した貴族的な響き。
「落ち着いて、ムッシュー」
前へ押し寄せるフランス人の初老商人の胸元に、マタ・ハリの手がそっと置かれた。
襟元から滑り込ませた親指が、男の胸郭にある経穴を的確に圧迫する。男の膝からスッと力が抜けた。
「淑女が先です。貴方はリヨンの名士なのでしょう? 夜明けを迎えるために必要なのは、尊厳だけだとご存知のはず。……下がりなさい。私を見て。そう、息を吸って」
男の瞳から狂乱の光が消え、呆然とした騎士道精神へとすり替わる。
男は力なく頭を下げ、乳飲み子を抱えた若い母親のために進路を譲った。
『ノエル』
アレックスは咽喉マイクを叩き、暗号化通信を開く。
『ティーチが海に落とす前に、フォーチュンを六号艇に放り込め。奴が歴史の台帳から零れ落ちれば、因果律のアンカーが千切れる』
『了解』
ノエルはフォーチュンの両脇を抱え、作業機械のような無駄のない動作で舷側へ引きずっていく。
『ティーチ! 追加の積載物だ!』
『放り込めッ!』
ティーチは振り返りもせずに怒鳴り返した。
『呻き声でも上げたら、ビレイピンで頭を引っぱたいて黙らせとけ!』
アレックスは救命艇に背を向け、右舷ブリッジへと続く短い鉄階段を上がった。
ルーラーが、船橋の前端で手すりを握っていた。
彼女は防寒具を羽織っていなかった。
氷野から吹き寄せる極寒の風が、その仕立ての良い濃紺のスーツを激しく打ち据え、髪を乱暴に払う。だが彼女自身は、海図の基準点のように微動だにしない。
その視線はただ一点、漆黒の海面に注がれていた。消えゆく船尾灯の光が、重くうねる海面に黄色い油のような軌跡を引いている。
その手には『台帳』があった。
司令室で用いる羊皮紙の綴りではない。携帯用の薄型端末だ。極薄のディスプレイの上で、淡い数値の列が目まぐるしく更新されていく。
「船首が沈み始めている」
アレックスは二歩手前で足を止めた。
手すりには掴まらない。甲板はすでに前傾七度を超えており、大腿部のサーボが姿勢維持のために微細なトルクを発生させていた。
「史実のタイムラインより三分早い」
ルーラーの声には、焦燥の色すらなかった。演算の重圧によって、あらゆる感情が削ぎ落とされている。
「第五ボイラー室の破断は、単なる外圧によるものじゃない。アレックス、船殻を壊しているのは水圧だけではないわ」
「機関部で臭った」
アレックスはコートの下で、短銃身ショットガンのセーフティを親指で弾いた。
「銅の味だ。空気が電離してる。Fデッキに入り込んできた水は、ただの塩水じゃねえ。粘り気のある、重い『汚染』だ」
ルーラーは振り返らない。指先が端末の光をなぞる。
「死者数の予測が揺らいでいる」
彼女は呟いた。
「史実における確定事象――犠牲者千五百十四名。だが、この特異点は歴史の改変そのものを目的としていない。沈没に伴う『乖離エネルギー』を喰らっている。もし船体の破断前に犠牲者が乗客名簿の八十七パーセントを超えれば、この座標は深淵の底へと固定される。タイタニック号を失うだけでは済まないわ。向こう三世紀にわたる大西洋航路の因果律が丸ごと消失する」
「なら、帳尻を合わせるだけだ」
アレックスは淡々と言った。
ルーラーがわずかに首を巡らせ、氷のように冷たい眼差しを彼に向けた。
「……随分と軽々しく言ってくれるのね、船長。この台帳の帳尻を合わせるということは、この一時間で千二百の人間が溺れ死ぬのを『見届ける』ということよ。救いすぎれば歴史の楔が抜け、見捨てすぎれば怪異が孵化する。これは呪われた算術よ」
アレックスは懐から真鍮の懐中時計を取り出し、文字盤を一瞥してポケットに戻した。
「俺は哲学者じゃない。掃除屋だ。荷物をボートに詰め、船底にへばりついた害獣を叩き潰し、拠点に帰る。説教なら帰還ポッドの中で聞く」
ルーラーの唇に、微かな、自嘲的な笑みが浮かび、消えた。
「どこまでも実務的ね。……頼もしいこと。アレックス、通信を開きなさい。ルナが九十秒前から貴方の暗号回線に割り込もうとしているわ」
耳の後ろの骨伝導パッドをタップする。
「アレックスだ。手短に頼む、ルナ。こっちの空気は鉛より重い」
スピーカーから返ってきたのは、通常のノイズではなかった。
それは、濡れた砂利を臼で挽くような、耳障りな咀嚼音に似ていた。
『――アレックス!? やっと繋がった! 聞いて――!』
ルナの声は上ずっていた。衛星軌道からの観測データを処理しきれず、激しい負荷がかかっているのがわかる。
『――水深データが完全に狂ってる! 貴方たちの真下、もう海底が存在しない!』
アレックスは眉をひそめ、船橋の外の暗闇を見下ろした。
「どういう意味だ」
『船底直下の空間歪曲が、深度八百メートル相当を突破したの!』
ルナの背後で、予測キーボードの打鍵音が激しく響く。
『船首が傾いてるのは浸水のせいだけじゃない。下から、何かが竜骨を引っ張ってる! 二重船底に完全に喰らいついてるのよ!』
「個体識別は可能か」
『深淵級のイレギュラー。ハイブリッド形態よ。生体組織と、崩壊前の鉄骨構造が癒着してる……沈みゆく船体を「繭」にして羽化しようとしてるの! アレックス、今すぐ全員を退避させて! 船体が剪断応力でへし折れる瞬間にアレが浮上したら――!』
「却下だ」
アレックスは静かに言った。
「後部ダビットにまだ二隻残ってる。ティーチが今ロープを捌いてる最中だ。ここで俺たちが引けば、ボートが転覆して乖離率は九十を越える」
『アレックス、下に何がいるかわかってないのよ――!』
「鉄が水で錆びるってことくらいは知ってる」
そう吐き捨て、アレックスは通信を物理スイッチで切断した。
甲板へ戻る。
傾斜は明らかに増していた。トランクや木製ベンチ、転がった食器が、濡れたチーク材の上を滑り落ちていく。ゴロゴロという低い地鳴りのような音を立て、前方の隔壁に激突して砕けた。
船体が軋む。
機関の音ではない。数万トンの構造用鋼が、弾性限界を超えてねじ切られようとしている悲鳴だ。
そして――海が変貌していた。
星明かりの下で鏡のように静まり返っていたはずの大西洋が、左舷前方わずか二十メートルの地点で沸騰していた。
蒸気ではない。熱など微塵もない。
海面から湧き上がる泡は、不気味に濁った燐光を放つ紫白色。まるで撹拌された骨髄のように粘ついている。
空間の屈折率が狂い、大気の裂け目から青白い光の針がパチパチと弾け飛ぶ。鼻腔を焼くのは、強烈な硫黄と焦げた錫の臭気。
『隊長!』
ノエルの緊迫した声が響く。
『傾斜を見ろ! 船尾が上がってるんじゃない……捻じれてる!』
アレックスは振り返った。
無数の黄色い舷窓を点灯させたタイタニックの巨大な影が、左舷側へ異常な角度でねじ曲がっていた。三本の煙突が平行を保っていない。
船尾全体が、まるで巨大な万力に挟まれたかのように、反時計回りに雑巾のように絞り上げられていた。
ティーチが最後の一撃でロープを叩き切った。
第六号救命艇が、冷たい海面へとドスンと落ちる。
「漕げッ! この穀潰しどもが!」
海賊が暗闇の海へ向かって咆哮した。
「引き波に呑まれて皮を剥がされたくなきゃ、骨が折れるまでオールを引け! 漕ぎまくれッ!」
振り返ったティーチの顎髭は、凍りついた飛沫で白く染まっていた。
その双眸には、三百年の墓土ですら消し去れなかった野性の狂気が燃え盛っている。
「マスター! ありゃあ波の音じゃねえぞ! 深海のド底に巣食う、古いクソ野郎の歌だ!」
「持ち場を維持しろ」
アレックスの声は低く、平坦だった。その絶対的な平静さが、狂気に傾きかけた空気を強引に繋ぎ止める。
「ノエル、船橋ウィングへ後退。マタ、状況は」
大階段の入口から、マタ・ハリが滑るように姿を現した。
濡れて滑る甲板の上を、まるで劇場の舞台を歩くかのような足取りで進んでくる。
毛皮のコートは飛沫に濡れていたが、その表情には一片の動揺もない。
「後部甲板へ乗客は逃げ延びました」
彼女は静かに報告した。
「この区画にはもう誰もいません。アレックス、ここから先何が起きようと……これを見るのは、冷たい底へ沈む死者たちだけです」
「上等だ」
アレックスは呟いた。
――その瞬間、海が爆発した。
水飛沫ではない。質量を持った暴力としての海水が、幅六十メートルにわたって夜空へと噴流した。
前部甲板の電灯が一瞬で叩き消され、黒く濁った油混じりの海水が豪雨となって降り注ぐ。
落ちてくる瀑布のカーテンの向こうから、『それ』が姿を現した。
悪夢だった。
深海の生物的な怨嗟と、朽ち果てた装甲艦の鉄屑が異常融合した、途方もない質量。
輪郭は深海のリヴァイアサンに酷似していた。長く伸びた装甲の巨躯。その頭部を取り囲むのは、錆びた軍艦の装甲板を歪に繋ぎ合わせた四対の巨大な顎骨。フジツボがびっしりとこびりつき、継ぎ目からは腐食性の発光体液が滴り落ちている。
節くれだった蛇状の体躯の側面に沿って、無数の瞳が開いた。
瞳孔のない、黄金色の光を放つ瞳。
それらが不揃いなリズムで瞬き、堕ちた神のごとき冷酷な知性をもって甲板を見下ろしている。その皮膚は肉ではない。空間の歪みそのものが編み込まれた繊維、人骨、そして押し潰されたボイラーの残骸だった。
咆哮はなかった。
代わりに放たれたのは、超低周波の軋み音。
何千トンもの鉄骨が水圧で圧壊する音を何万倍にも増幅したようなその振動が、アレックスの頭蓋骨を直接揺さぶった。
怪異は、その巨大な鉄の体躯を、高く持ち上がったタイタニックの船尾へと緩慢に巻きつけ始めた。
鋼鉄の船殻が悲鳴を上げた。
リベットが爆竹のように弾け飛び、凄まじい側圧によって暗い海へと弾丸のように射出される。
船体が激震し、アレックスの身体が真鍮の羅針盤へと叩きつけられた。
「犠牲者予測、六十二パーセントで膠着!」
ブリッジの扉口から、ルーラーの凛とした声が響く。彼女の手元の端末が、警告の赤色に染まっていた。
「今あの怪異に船尾をへし折られれば、乖離率は臨界を突破する! 予定時刻より早く沈めさせるわけにはいかないわ!」
ティーチが獰猛に嗤った。
黄色い歯を剥き出しにし、制服のコートを払いのけると、銃身をノコギリで切り落とした四番径のソードオフ・ショットガンを二丁、引き抜いた。
「ハッ! 大人しく冷水に浸かって死ぬにゃあ、退屈すぎる夜だと思ってたところだ!」
海賊は凍える風に向かって唾を吐いた。
「来やがれ、目の腐ったバケモノ野郎! てめえのハラワタが何色か拝んでやるぜ!」
ノエルが大口径対物ライフルを構え、チャージングハンドルを引いた。
高出力の磁気ダンパーが高周波の唸りを上げ、内蔵コンデンサが臨界チャージに達する。
「背面の眼球群、第一波で十八基を捕捉。……アレックス、あの質量を殺し切る弾薬はありません」
「殺す必要はない」
傾斜十二度を超えた甲板。
排水溝にブーツの爪先を食い込ませ、アレックスは真っ直ぐに立ち上がった。
コートの内側へ手を差し込み、特注の短機関銃のグリップを握り込む。
手首の鋭いスナップ一つで銃身をコートから引き抜き、肩へ当てる。
ボルトを後方へ引き、初弾を薬室へ送り込んだ。
ガチン、と。
冷たい鋼鉄の、研ぎ澄まされた金属音が夜気を切り裂いた。
「あのデカい図体に、船から手を離したくなるほどの痛みを教えてやるだけだ」
吹き荒れる塩飛沫の中、アレックスの右目がホログラフィック・サイトのレティクルと重なる。
「――各員、射撃開始。眼球クラスターを叩き潰せ。死者たちの時間を稼ぐぞ」
号令とともに、一斉に火線が奔った。
怪異の放つ超音波の軋みと、へし折れゆく巨大客船の断末魔を、四人の放つ銃声が容赦なく塗りつぶしていった。




