1話「恋は盲目」
1話「恋は盲目?」
最後にこの心が真に高なったのはいつだったか。
年相応で...誰しもが持ちうるもの。
確かにあったはずのソレは、今では歳月の隔たりと共に記憶の奥底、追憶の彼方へと姿を消していた。
求めてやまないソレが、確かにかつて存在した事をこの胸の深く暗い欠けた穴の存在が教えてくれる。
無くしてしまった心の一部。探している、ずっとずっと。
確かに僕にもあったハズなんだ。
胸を焦がす様な、身が裂ける様な恋情が。
けれども今心に残ったのは唯、砂を噛むような虚しさだけだった。
────────────
『あぁっ!──────もう、なりふり構っては居られない!』
『目の前でそっと小首を傾げ、赤く潤んだ目をそッと瞑る彼女の腰に優しく手を回す。
預けられた身体を傍らにそっと抱き寄せると甘く蕩けた表情の彼女の顔が指先ひとつの距離まで近づく。
柑橘の様な甘い香りを傍に感じながら……抑えきれない情動を不随意に彼女にぶつける。
ふと交差する視線と視線。
絡み合う手と手。
重なり溶け合う身体と心。
思い出したかのように後れ毛を直す仕草が普段の明朗快活な彼女とは大層違った印象を受ける。
そんな艶やかで、どこからともなく色気の様なものを醸し出している彼女を前に…もう自分を、縛り付けていた劣情を…抑えられない!』
『あっ!あぁっ!たわわに実った双丘がっ眼前にっ!──────ッ!!』
官能的な安っぽい表現が最高潮に達した時、小気味よい場違いで盛大なBGMと共にエンドロールが流れる。
どこかで聞いた事あるようなあらすじ
そして聞き飽きた曲調の主題歌。
────────────ブッ
机のリモコンを手に、下らない情事を映し続ける液晶画面を視界に映すこともなく消す
「…退屈だった。全くもって」
「エロスに持っていきたいがためにディーティング期間の心理描写をおざなりにしてますね」
「全く、これじゃジャイアントパンダの方が幾分恋愛上手じゃないか…」
サブスクランキング上位の巷で話題なラブストーリー。
二時間三十分に及ぶ長尺なこの映画作品は本編の実に半分以上をラブシーンに割いている。
偶然か必然か…二人は出会い、苦難を乗り越え、互いを慈しみ、手を取り支え合い、窮地を助け、お互いを貪り求め合うエロスへ。
そんなどこかテンプレートなフィクション寄せ集めの恋愛では、この乾いた心は満たされない。
小説や脚本、漫画や詩。
それに類するものは経験した事しか書けないらしい。
或いは人生の積み重ねの中、膨大な情報を組み合わせて補填できる要素しか表現できない。
誰かが、或いは複数人の誰かが実際の経験を元にしたであろうこの物語をもってしても、フィクションに剪定されてしまったこの迷作では、このぽっかりと空いた胸の奥、暗く淀んだ穴は埋まらない。
「もっと、もっと本当の、心躍る様な劇的な恋愛がみたい!」
「のに...期待ハズレだったなぁ〜...」
窓辺から強い朝の陽射しが射し込む。
時折聴こえる朝特有の鳥達のけたたましい声が、少し気合いを入れたのか、いつもより早く登った太陽が…その光でもっていくらか早い朝を告げる。
「今日も何一つ得られる物はなかった…」
胸にそっと手を当てる。
焼け付くような焦燥感、身を焦がす情動、駆り立てられる劣情。
強く想い想われる事で生まれる唯一無二の感情。
そのどれもが、今日も今日とて姿を見せる事はなかった。
永らく聞いていない自らの胸の高鳴る様な鼓動。
どこか諦めにも似た感情を無理やり飲み込み、鑑賞に際してしたためていた詩の様なポエムの様なモノを静かに破り捨てる。
「あぁ…でも濡れ場に関しては終始力を入れてて良かったですね」
ツーと鼻筋を伝う一筋の血を乱暴に拭う
くだらないと吐き捨てたものの、脳裏に焼き付くたわわに実った双丘が年相応の不甲斐なさを体現している。
経験か、積み重ねた情報の産物か…。
たわわに実ったこの情動は考えるまでもなく後者である。
「あっ…今日月刊マーガリンの発売日だ!」
「絶対買いに行かなければ!」
────────────
「あーっ!こんな所にいたっ──────!」
「──────...?」
柑子色の夕日が差し込む教室、まばらになった生徒たち。
喧騒の波ははあちこちで砕け始める。
椅子の引く音、衣擦れの音までもがやけに響く教室内。
教室の隅、慣れ親しんだ相手と他愛もないトークを繰り広げながら帰路に着く準備をしている想い人を視界に捉える。
「も〜なんで校門前に居なかったの?探したんだよ?」
「...あっあぁ、悪りぃ」
「んっ!よろしいっ!」
平八重美里十五歳。
恋に恋するうら若き乙女。
眉目秀麗、品行方正、才色兼備、歩く姿はなんとやら。
どの物語にも一人、二人は居る様なまさに正統派なヒロイン。
クラスの、或いは学年の看板娘の様な存在。
浮世離れした整った容姿からクラス内外問わない人気を持ちながらも、親しみやすく分け隔てない明瞭快活で温厚な牛のような性格で、高校生活始まって約半年、一躍クラスの中心的存在にまで躍り出た。
閉ざされ独自の生態を築いていく教室という名のビオトープ内、そんな彼女の人気者たる立ち位置を確固たる物としたのは他でもない、彼女が想い慕う恋慕の対象であり同じくカースト上位の人気者、眼前に捉えた幼なじみである吹寄 弓月の存在が大きく寄与している。
「にしても、エアコン強くて教室は乾燥するね〜...」
「げっやば、リップ忘れちゃったよ...」
1歩2歩、歩を進める度にカンカンッと小気味よい音を立てるローファー。
足早に彼の元へと向かう教室内、乾いた空気からやけに乾燥した唇に少しばかり不快感。
カサついた唇を指でなぞると少し思案するように首を傾げる。
「(あっ…いい事思いついた!)」
私、平八重 美里が入学から今に至るまで数多の告白をすみませんの五文字あるいはごめんなさいの六文字で片付けて来たのには理由がある。
眼前の彼、吹寄弓月に対する長年の、積年の、積もり積もった片想い?いいやきっと両想い。
一番楽しくて一番切なくて、胸の奥をぎゅっと握られている様な、それでいて身を炙られているような心地良くも苦しい焦燥感。
恋愛漫画で見た様な、切なくも甘い物語。
こんな唯一無二な物語はあらゆる恋愛を網羅していると呼び声高い漫画雑誌
『月刊マーガリン』にだって載っていない。
この感情はやっぱり唯一無二で、蜂蜜や砂糖菓子なんかよりも甘く、少し酸っぱい柑橘類の様な青春で…こんな時間が一生続けばいいのにって、十五歳大人になりかけの今、年甲斐もなく思うのだ。
幼馴染、産まれた時からお隣同士、酸いも甘いも知った仲。
そんな竹馬の友な彼、吹寄 弓月に今日も今日とてわたしと言う栄養剤を提供してやろうと、可愛いらしく吐息混じりの声量で、声色はそうだなぁ…今日の気分はピンク色!。
撫でる様な声に念入りにチューニングして声をかける。
「ゆづっ!なにしてんの、はやくかえろ?」
上目遣い、三割増しで可愛く見える女の子のリーサルウェポン。
特等席から見せるこの角度の私、見せるのは生涯きっとあなただけ。
いつ何時も可愛いって、好きだって、1番だって思わせたい。
女の子は、恋する乙女はそういう生き物なのである。
「あっ帰りに駅で本屋寄って帰ろうよー!今日月刊マーガリン発売日なんだぁ」
「えっとねぇ〜この前貸した漫画の続きなんだけどね?努力家なヒロインが水面下で健気に努力して、蚊帳の外からライバルを倒してのし上がって...やっとの思いで意中の相手と結ばれる!今月はそんなお話のクライマックスなのっ!」
「借りたと言うより勝手に置いてったんだと思うんだが...」
当たり前のように自らの定位置、彼の右隣へ素早く身を移すとすかさずその逞しい腕に抱きつく。
そこで先程思い付いた少しだけ意地の悪い作戦を実行してみる。
「ゆづごめん!悪いんだけど...その...リップ貸りてもいいかな?」
上目遣い上目遣い...っと、そして瞬きは厳禁。
目が乾いて涙が出ちゃうって?
ふふふ...涙で少し潤んだ目が上目遣いのポテンシャル、それを更に遺憾無く引き立てるの。
そう漫画にも書いてあった、好きな事や興味のある事...とりわけ好きな人の為ならばスポンジの様な吸収力を発揮する。
それが私、平八重美里なのである。
「...ゆづもしかして?関節キスなんか気にしちゃってるの...かな?」
「...ッ!」
こちらの挑発的な問いかけを受け、何処かバツの悪そうな彼。
決まった──────!渾身の一撃!
照れて目も合わない!これはね...贔屓目抜きに勝ち申した。
それにしても今更間接キスなんて本気で気にしてるのだろうか?
産まれて十五年、その殆どを共に過ごして来た幼なじみ。
(もうっ!私達そんな仲じゃないでしょーにっ!)
「ねぇゆづ?下ばっかり見てないでこっち向いて?...唇、乾いちゃって」
「...?ゆづ?」
照れから来る無愛想かと思ったのだが、しかし待てど暮らせど問い掛けに対する返事は一向に帰ってこない。
尚も俯き、長く返答のない彼に言いようの無い不安と胸の奥ドクドクと不気味な程脈打つものを感じる。
思えばいつもの放課後、示し合わなくても自然と校門前で合流し共に連なって帰る事が当たり前だった。
けれども今日はいつもの場所、待てど暮らせど彼の姿は見えなくて、探し回った末にここに辿り着いた。
肌がヒリつく。
シャツが冷えた汗で肌に張り付く不快感。
いや...きっと杞憂に過ぎない。
そんな事有り得ない。
考えたくも無い。
有り得てはいけない。
それはまるで教室で誰かを待っているような。
「ゆづっ...?」
「悪い美里...一緒には帰れない」
「それにリップも本屋も、全部却下だ」
予想外の、いや予想したく無かっただけの想定内の一言に酷く狼狽する。
「えっ………と。なんでかな。あっ!もしかして...ゆづもリップ、忘れたんでしょ?」
「それならそうと言ってくれればいいのに〜」
そんな情けの無い心を見透かされないよう語尾を伸ばしたりなんかしちゃって必死に誤魔化す。
そして頭の中、けたたましく警鐘が鳴り響く。
(杞憂であれ、勘違いであれ、考え過ぎであれ...何事も無くいつも通りであれ!)
「あとゆづ?また先生の話ちゃんと聞いてなかったんだ〜!ホームルームで今日は部活ない〜って先生言ってたよー?」
「スポーツは得意なのに、そういう所抜けてるよね〜私が居ないと本当ダメなんだから」
「違う...そんなんじゃない」
「まぁゆづも男の子だからねっ!幼馴染といえど女の子と同じリップ使うのは恥ずかしいよね」
「気づかなくてごめんね?」
「私どうにもそういう所に疎いところあるからなぁ〜...」
「──────いや…だからっ!!」
大きく発せられた彼の声に思わず跳ね竦む肩。
一歩後ろへ後ずさる。
「ど...どうしたの急に大っきい声...」
「白石と...」
「白石 萌心と付き合う事になった…、だからお前とは、もう二人では帰れない」
耳鳴りのように、頭の中で何度も何度も反芻される彼の口から発せられた理解不能な言葉。
「...え?」
こういう時、真っ先に出る言葉は何故『え』の一文字なのだろう。
そんな情報処理の追い付いていない脳の一時停止、クッションの役割を必死に駆使しつつ、情報理解へと懸命に、ただ必死に務める。
「なに…それ」
「…意味わかんないよ。はは…冗談キツイなぁ〜ゆづは」
理解して尚それを噛み砕くことも、飲み込むことさえできずに、私はただ呆然と立ち尽くすことしかできない。
「冗談なんかじゃねーよ...昨日俺から呼び出して告白した。それを白石が受け入れてくれた。全て事実だ」
乱暴な口調、いつもと変わらない。
違うのはただ、彼らしくない、赤く高揚した頬とその緩んだ表情。
そんな表情私には...一度だって見せた事がない。
「おかしいよ、そんなの......」
「だって…だってだってっ!」
「私のお母さんだって、ゆづのお母さんやお父さんだって、いつか二人は結婚するんだろうなって…!!」
「週末いつも集まってご飯行く時にだって、いつもそう言ってっ…!」
「.........」
「ねぇ…なんとか言ってよ…?」
コンクリートや石膏ボード等の床材と壁、リノリウムやタイルといった音を吸収する事に適さない硬い素材達が慟哭にも似た声を残酷に反響させ、自らの声で我に返る。
「そんなの親が勝手に言ってるだけだろ。俺たち...もう高校生だぜ?」
「子供じゃねーんだ、親がどうとか幼なじみがどうとか...そうゆうの、なんかすっげぇ…」
「──────気持ちわりぃ」
その一言を決定打に、現実が一気に押し寄せる。
すっかり人気もなくなり、私たちだけを残した教室内。
「なんで!?そんな急に突き放す様な真似...ひどいよ!そんなのってないよ...」
脇目も振らず彼に縋るような情けない声を出す。
返ってくるのは否定の言葉のみ、求めて止まない肯定を孕んだ一言はついぞ出ない。
次第に返す言葉も見つからなくなり、これ以上彼をこの場に繋ぎ止める言葉も見つからない。
ただ自分の中で理解不能な事象を無理やり飲み込む事だけに注力している。
眼前には少し小さすぎる水溜まりの出来た艶のあるフローリング。
経年による傷が、その水分を形そのまま吸い込んでいく。
「私たち...ずっと今まで両想いだったんじゃないのっ……!?」
「それはお前がっ……!」
ガラガラガラ…──────
そんな静寂を切り裂くように遠慮がちに開け放たれるトビラ。
「吹寄君、お待たせしちゃってごめんね〜帰ろっか?」
「ーって...。私タイミング悪かった…かな?」
「いや、いい。白石帰ろう」
「でも...」
「(待って...待ってよ...)」
そう言って私から遠ざかる彼を、彼女の手を取り連なって歩く彼等を、もう真っ直ぐ見ることもできない。
視界がぼやけ、焦点が合わない。
次第に込み上げてくる胃液。
視界が地面が、柔らかいゴムか何かで出来ているように…立っていることもままならない。
なんだか、すごく…きもちわるい…。
ヴゥオエエエエエ──────ッ!
「──────ッ美里!?」
『あぁさよなら青春、さよなら初恋。
そしてさよなら…幼馴染と結ばれるはずだった元ヒロインの私』
好きな人の前で、ましてやその彼女=ライバルの前でゲロなんて吐いちゃったら、もう...ね。
記憶はここまで。
視界は暗転し膝から崩れ落ちる最後の瞬間、引きつった顔の幼馴染であり十五年の一途を捧げた想い人。
吹寄 弓月の軽蔑する様な表情が今も尚、脳裏に強く焼き付いて離れないで居る。




