04.これからもずっと
本日、番外編1話から更新しております。
念の為、あらすじ最後の注意書き、または2/4付の活動報告をご確認下さい。
窓から穏やかな春の陽射しが差し込み、部屋を暖める。
帳簿をまとめていたソフィアはふと顔を上げた。視線の先にはソファでうたた寝をする夫グリオルと5つになる長男マルセルの姿がある。
一昨年の夏に生まれた次男ヤンは2歳を過ぎてから、興味津々にちょこまか動き回るため執務室には入れないようにしている。乳母に預けられており、そちらも今はお昼寝の時間だ。
穏やかな寝顔は2人ともよく似ている。侍女を呼び、マルセルをベッドに運んでもらう。夫の手元から息子に読み聞かせていた本を抜き取り、膝掛けをかける。
嫁いでから6年半。
ソフィアは幸せに満たされていた。
グリオルは来年、候爵位を継ぐことになった。少し早いが義両親が元気なうちに譲り、万全にサポートをするためだと聞いた。
この2年は女主人見習いとして様々なことを指揮してきたソフィアも、伴って女主人となるが自信がない。社交には慣れたが、人を使う立場というのは中々難しい。
それでもグリオルとなら手を取り合ってやっていける、やっていくのだと心を改めた。幸い、使用人たちは皆自分よりこの屋敷に慣れている。頑張ればきっと上手くいくはずだ。
もうあの頃のソフィアではない。何より、頼もしい夫もいる。
あの家に居たら、どんな夫がいてもこんなに変われなかった。今はそう思う。
昨秋、姉の夫だという人に会った。
ある夜会で声をかけてきたその人は、とても眼光の鋭い、年輩の「おじさま」だった。しっかりと礼をし、はきはき口を開くその人を、姉が気に入るとは思えない。年輩という段階でもう難しいだろう。1人で夜会に来るあたりからも窺える通り、数年前の噂は本当だったのかもしれない。
婿入りの経緯は知らないが、あの伯爵家でさぞや辛い思いをされているだろうと思っていると、その人は考えを見透かすように笑う。
「なんとも言葉にし難い環境ではありますが、私はいわば契約の夫のようなものです」
一応ご挨拶だけ、とその人は去って行った。
あの火事からしばらくして評判を落としたらしいベルネットの家は、今は静まりかえっている。もう関わらない家だ。ソフィアもグリオルもベの字すら口にしない。
ソフィアは隣に立つグリオルが腰に回した手に何とも言えない表情を返した。
思い出した記憶に引きずられ、思わずグリオルに掛けた膝掛けをぎゅうと握る。
タイミングよく目を覚ました夫は手元にいるはずの息子の姿を探す。
「……ん? ソフィア? ……マルセルは?」
「よく寝ていたのでベッドに」
「そうか。すまない。寝てしまったマルセルを見ているうちに自分まで眠くなってしまって……」
「お疲れなのでしょう? 少しお休みになられては……」
春になると薬草が元気になるが、同時に草の病や虫も多くなる。領内の一部に具合の良くない畑があり、グリオルは視察に専門家との打ち合わせに資料探しにと忙しい数日を送っていた。
それでも変わらず、休み時間には息子と遊んだり、本を読んだりして過ごす。
グリオルは幼少期の自分が出来なかった事を、子どもが望むなら叶えてやりたいという思いの元で2人を育てている。求められれば都合をつける。仕事の合間で勉強に付き合い、共に遊んだ。いたずらを叱り、そのあと必ず励ました。
ソフィアも、自分にはなかった幼少期をここに見て家族の形を見つけ始めた。グリオルは子どもを可愛がりつつ、ソフィアの事も変わらずに愛してくれる。
ここ数日、ソフィアのあとにベッドに潜り込み、ソフィアを抱きしめながら眠る夫の顔色はあまりよくない。今は健康体とはいえ元々丈夫ではない人だ。些か無理がある生活にグリオル自身が心配になる。
そっと頬に手を伸ばすと、手を重ねられる。
「大丈夫。私の身体の弱さが子どもたちに遺伝しなくて良かったよ」
2人の子どもはどちらも健康だ。
グリオルによく似た長男は物静かで勉強が大好き。運動もそつなくこなせるが、放っておけば本を片手に植物を観察したり、薬草を持ちだしたり、大人しく物語ばかり読んでいる。計算も得意で家庭教師はどの教科も良くできると褒めてくれる。大人しいマルセルだがお茶目で、頭が良いからこその可愛いトラブルもある。こどもらしいものばかりなので最終的には許しているが、最近ではいたずらが増えた。
ソフィアに似た次男は活動的だ。動き回るようになったばかりの頃は長男と違う勢いの予測不能の行動に、乳母やベテランの使用人たちに大分お世話になった。ソフィア自身は幼少期の記憶がないがこんなに活動的だった憶えはない。「フランシスカお嬢様のよう」と乳母が言ったときはグリオルが困ったように笑った。ソフィアは仲良しの義姉を思い出してなるほど、と思う。次男は棒切れを振り回して走り出しそうだ。来年には次男の勉強も始まる。家庭教師から逃げないでいてくれるといいのだが。
6年も経てばソフィアは貴族の夫人として不足なく動くことができ、かつての自分がどれだけ世間知らずだったかも理解している。夫婦で息子達の事を考え、領内で開く小さなパーティーや、隣接する領地でのお茶会などに子どもを伴って出席している。王都のそれとは全く違い、ドレスコードもあってないような集まりだが、場慣れしてもらうには充分。数回出るうちに人見知りだった長男は大分人に慣れた。同年代の友達も出来て行事が楽しみな様子を見せる。
グリオルがそっと重ねたソフィアの手の指に、己のそれを絡ませるように繋ぎ直す。
「ソフィア、帳簿あとどれくらい?」
「虫除け剤の集計でおしまいです」
「それならもう少し、このままで」
手をつないでソファに座る、2人だけの懐かしいような空気。静かにお茶が用意され、しばし穏やかな時間を楽しむ。
カップの底が綺麗な白を取り戻す頃、2人はソファを立ち机に戻った。
窓の外の薬草は春の風に揺れる。
次の休み、家族は揃って領内の花畑へピクニックに出掛けた。繁殖力に差がある植物が薬草を脅かす懸念から、観賞に適した花は一角に集められ管理されている。
途中、教会の横を通る。秋には黄金の真ん中に座るこの建物は、春は色とりどりの花に囲まれている。
馬車の正面に座る侍女の膝に抱かれた次男がステンドグラスに興味を示す。ソフィアの膝の上に座った長男も窓に貼り付いて、輝くガラスのキラキラに目を釘付けにした。
その様子にソフィアは思わずつぶやく。
「もう6年半も経つのですね」
新しい第一歩を踏み出した日。
「6年間、楽しくてあっという間だったわ」
漏らしたのは本心だ。あの時辛いと思わなかった伯爵家の暮らし。グリオルに出会ってから感情が動き出して、ほんの少し呆れて苦しくなった日常。慣れてしまっていたあの生活は「辛い」のだと、家を出てから改めて知った。それまでの16年より、この6年半の方がずっと幸せでたくさんのことがあって、それでいてあっという間だった。
つぶやきの意味がわかるグリオルはソフィアの手を取ろうとして、息子を抱っこしてもらっているので手が塞がっているのを思い出した。さすがにこの状態で肩や腰を抱くのは憚られる。
「これからももっとあっという間になるよ」
代わりに口にした言葉に、妻はにっこり笑った。
気持ちの良い木陰に大判のクロスを広げて腰を下ろす。貴族のピクニックだというのに椅子や机を持ってこないのも、この領地のドレッセル家ならではだ。
早速走り回る次男を侍女とグリオルが追い掛け、面倒を見ている。それを眺めながら、ソフィアと長男は持ってきた図鑑で野の花や草を観察した。
「マルセルは本当に勉強が好きね」
「うん。知らないことがたくさんあって楽しいし、わかるのも楽しい。かっこいいお話も好き。僕は早く大人になって、もっとたくさん本が読みたい」
グリオルは幼少期こんなに勉強熱心ではなかったと言っていた。どちらに似たのかわからないが、ソフィアは小さな学者の頭をぽんぽんと撫でた。
タンポポの綿毛を見つけた次男が駆け戻ってきて、長男の手を引く。兄弟が仲良く綿毛を吹き飛ばす姿に、大人達は目を細めた。
年齢や性別に差があっても、ドレッセル家では兄弟を「兄」「弟」として育てない。どちらも年齢相応の個体として接している。かつてフランシスカに「姉」を求めなかったように。
それでも5歳を迎えるマルセルはヤンを気にかけ、優しく接した。2歳のヤンは難しいことはわからないけれど、マルセルを慕ってよく懐いた。たまにどうしようもない子どもの喧嘩をすることもあるが、2人の仲は良好だ。
グリオルもソフィアもそんな2人を温かく見守る。領地の事も、兄弟のどちらが後を継いでも構わない。勉強が好きな長男でも、人懐こく活動的な次男でも。もしかしたらこれから生まれる誰かでも。
まだ草案だが、いずれこの領地のことをグリオルは変える気でいた。グリオルは出仕した数年の間に、自領に集中する医療事情に危機感を覚えた。そんな愚か者はいないが焼き払われたり、不慮の事故の火災などで一気に薬草を失う危険性がある。侯爵家が潰れるのは致し方なくても、それで大勢が命を危険にさらすのはやはりいただけない。
将来的にこの領地の薬草を気候条件の似ている近隣の領地に土ごと分けることも考え、国に提案できるように父と相談している。ただこれには近隣の爵位及び財産の都合も、分けられた先が国からドレッセル家のような厳戒な管理を求められる都合も関わってくる。
単純に移して済む問題ではない。
こうしたことも考えていく必要があるのだ。この先を生きていく家族もこの国の人も、健やかであってほしいとグリオルは願う。いつかソフィアの手を治したハンドクリームは改良に改良を重ね、この秋に王都で売り出される。あと、いつの間にか開発された手に優しい洗濯石鹸も売り出す予定だ。
あの頃、あかぎれとひび割れで大変だった妻の手は今はそこそこ滑らかだ。
妻の手を見て、なんとも未熟だった自分たちのやり取りを思い出す。思わずふふ、と笑うとバスケットからサンドイッチと紅茶を取り出していた妻が首をかしげる。
「なんです?」
「いや、随分幸せな日々がやってきたなと思って」
妻の向こう側では侍女の監視の下で兄弟が仲良く遊んでいる。ソフィアは侍女が忙しそうに仕事をしてくれている間、簡単なことなら自分でさっさと動いてしまう。これも併せて懐かしい。
グリオルを見るソフィアは穏やかだ。この6年。変わらずにグリオルを支えて努めてくれた。グリオルが初めてにして唯一愛しいと思う女性。
「ソフィアが僕の妻で本当に恵まれていると思う。幸せだよ」
隣に座り込んで、グリオルはソフィアの手を取った。
「僕はソフィアが大事だ。これからもずっと君が振り返りたくなる毎日を送ってもらえる努力をしたい」
ソフィアが息をのんだ。すぐに泣きそうな笑顔でそれに応える。
「私は約束であなたの妻になりました。役目を果たすために。ですが何より自分の意志で今を生きております。お慕いするあなたと、可愛い子どもと、みんなと……毎日とても幸せですわ。これからもずっと」
ポロリと零れた涙にグリオルがハンカチを差し出すと、あっと可愛い声がして子犬のような2人が駆けてくる。
「お母様が泣いてる!」
「泣かないでー」
ぎゅっと抱きしめてくる息子たちに、ソフィアは涙を拭きながら答える。
「悲しいんじゃないの。大丈夫よ、2人とも」
それでも涙が止まらない。
「こんなに素敵で優しい家族がいてお母様は幸せなの」
今はもう化粧をしているからそんなにぐいと拭いてはまずいのに、ソフィアは振り切るように涙を拭く。息子たちをぎゅっと抱きしめ返してから、プレートに乗せたサンドイッチを差し出す。
「さ、お母様はもっと幸せな気分になりたいから、お腹いっぱいお昼を頂きたいわ。マルセルも、ヤンも。ありがとう。いただきましょう」
サンドイッチに飛びつく息子達を見つめ、夫に微笑んでから花畑に視線を移す。
目の前の花畑は涙で滲む。色とりどりの花は輪郭を失い、色の洪水になる。
こんなに色に溢れた中で過ごせる日々が続くのなら、これ以上の日々はない。
進む先も、振り返る後ろも、微かな甘い香りの幸せが広がっている。
番外編もこれにて終幕です。
お付き合いありがとうございました!