4.優しすぎるっすよ
「ふう……新聞の文字、もう少し大きくならないもんかねぇ」
孤狼の里、一階フロアのリビングで新聞を読んでいたフキが不満げに呟く。
「フキさん、うち虫メガネ持ってんで?」
「いや、そこまでじゃあないさね」
覗き込むように新聞を読んでいたフキは、顔を上げると指で目のあたりを揉んだ。そこへ──
「こんにちはー」
スラリとした若い女性がリビングに入ってきた。二階フロアを担当している介護職員、望月飛鳥だ。
「あらま、飛鳥ちゃん。夜勤明けかい?」
「フキさん、こんにちは。ええ、そうです。ってか、施設長いませんか?」
飛鳥がリビングへぐるりと視線を這わす。
「施設長室にもいないなら、トイレか備品倉庫だねえっ。どうかしたのかいっ?」
源治と雑談していた可憐が言う。
「いえ、シフトのことで相談しようかなと」
「なるほどだねえっ。もう少しあとで部屋に行ってみるといいよおっ」
「ですね」
飛鳥が「ははっ」と乾いた笑みをこぼした。
「なんや、飛鳥ちゃん。疲れとるみたいやなぁ」
「い、いえ、そんなことは」
慌てて首を振る飛鳥。
「あんたも大変さねぇ。よりにもよって、二階の担当なんて」
フキがしみじみと言う。その様子を見た遅番の成瀬慎吾がかすかに首を傾げた。
「えっ、と……二階って、そんなに大変なんですか?」
その言葉に、リビングにいた全員がかすかに固まる。
「んー……大変、というか、何というか」
飛鳥の言葉は実に歯切れが悪かった。フキも小さくため息をつく。
「関わらんほうがいいさね。まあ、一階スタッフが二階を担当することもないし。以前、未来ちゃんは何度かヘルプで入ってたけど」
「はあ……この前、未来さんに『二階の利用者さんってどんな人たちなんですか?』って聞いたら、『みんないい人だよっ』って、言われたんですけど……」
「あの子はちょっと、いろいろな意味でぶっ飛んでるんさね」
リビングにいた全員が、同意するように「うんうん」と頷く。
「ほんまだでや。ちょっと前も、未来っちのおかげでえれー目に遭ったがや。なあ、静江っち?」
「未来、ちゃん、とて、も、いい子。でも……とん、でも、ない、爆弾、娘」
静江の向かいに座る六郎が、愉快げに口元を緩ませる。
「未来ちゃん、今ごろ盛大にくしゃみしてるかもな」
渦中の未来は休みだ。
「あっしも、今までたくさんヤバいヤツは見てきたっすけど、未来ちゃんくらい激ヤバな子は初めてっすよ。八重さんも、そう思わないっすか?」
タエが隣に座る八重に話を振る。
蜂須賀八重、七十六歳。中華系マフィアで組織内粛正を担当していた過去をもつ。『殺し屋を消すための殺し屋』として長く暗躍していた。
八重はタエの言葉に反応せず、黙々と指先を動かした。そばには、完成した鶴の折り紙がいくつも転がっている。
「はぁ……八重さんも、相変わらずっすね」
「……」
そのとき。
リビングの扉が開き、施設長の片山千佳が入ってきた。
「タエさん、います?」
「はい? いるっすけど」
「お客さんですよ」
「客? あっしに、っすか?」
施設長の後ろから一人の男が現れた。首を捻っていたタエの目が、みるみる大きく見開かれる。
「ぼ……坊ちゃん……?」
「やあ、タエ。久しぶり」
「ほ、本当に……坊ちゃんっすか……?」
タエはのろのろと立ち上がると、男のそばへ歩み寄った。
「元気そう、だね。タエ」
「坊ちゃんも……それに、ずいぶん立派に、なったっす……」
「そりゃあ、四十もとうに過ぎてるからな」
「そう、っすね……時が経つのは、本当に早いっすね……」
──タエの居室。タエはベッドに腰を下ろし、男はパイプ椅子に座った。
「それにしても、いきなりどうしたっすよ。坊ちゃん」
タエが坊ちゃんと呼ぶ男、篠宮龍星。老舗の任侠団体、桜咲組の組長である。
「実は……引退することになってな」
「えっ!? 足を……洗うっすか……?」
「ああ。内縁だった妻と、正式に籍を入れることにしたんだ」
「籍を……。そっすか……」
「これから、ますます俺たちみたいなヤツは生きにくくなる。俺だけならまだしも、妻や子供までそうなるのは、な」
篠宮がかすかに目を伏せる。
「そっ、すね……。それが、いいかもしれないっすね。坊ちゃんは……あの世界で生き続けるには、ちょっと……優しすぎるっすよ」
タエはかつて、龍星の父である先代組長の護衛を長く務めていた。
「酷い言い草だなぁ。まあ、そうかもな」
「坊ちゃんの子供時代が、昨日のことのように思い出せるっすよ」
息子を強くしてほしいと先代からお願いされ、引き受けた武術の指南。
「本気で殴りかかってこいって言ってるのに、坊ちゃんは泣いてばかりだったっすよ」
「いや……タエが強いのはもちろん知ってたが、女の人に殴りかかるってのは、なぁ」
「はぁ……ほんと、甘々っすよ。ま、鍛錬の甲斐あってか、かなり腕っぷしは上がったっすけどね」
「おかげで、男相手のステゴロじゃ、いまだに負けなしだ」
龍星が拳を前に突き出す。ゴツゴツとした、男らしい拳。タエがスッと目を細めた。
「……これから、もっと大変っすよ。引退しても、お上はすぐに一般人とは認めてくれないっす」
「分かってる。これからは、おとなしく暮らすさ」
「それがいいっす」
龍星がゆっくりと腰を上げる。
「そろそろ行くか。また顔を見せるよ」
「あっしのことなんか気にしなくていいっす」
「そう言うなよ。タエ、元気でな。その……長生き、してくれよ?」
「……ありがとうっす。坊ちゃん」
──翌日。
孤狼の里で暮らす利用者たちが、一日でもっとも楽しみにしている時間。
「はーい、みんなっ。おやつの時間ですよっ」
未来がリビングの中をくるくると踊るようにしながら、紅茶とお菓子を配っていく。
「おっ。これ、うちの好きなチョコやん」
「わ、たしも、好き。甘さ、と、苦味、のバランス、が、完璧」
サトと静江が目を輝かせる。
「ほんっと、お二人は甘いの好きっすよねぇ」
タエはやや呆れたような顔で、紅茶の入ったカップに手を伸ばした。紅茶を一口飲み、テレビへ目を向ける。
『──日本を取り巻く情勢はますます厳しくなっており、政府の対応に注目が集まります。では、次のニュースです。本日未明、歌舞伎町の路上で──』
「おやつ食べるあいだ、テレビは消しますねー」
未来がリモコンをテレビへと向ける。が──
「ち、ちょっと、待ってくだせぇっす!」
「ど、どうしました? タエさんっ?」
テレビの画面を凝視するタエの目が、大きく見開かれる。その唇は、かすかに震えていた。
『──亡くなっていたのは、指定暴力団桜咲組の組長、篠宮龍星さんと見られています。目撃者の情報によれば、篠宮さんは一般人と口論からトラブルに発展。乱闘のあと病院へ運ばれましたが、死亡が確認されました──」
「タ、タエさん……この人って、昨日の……?」
六郎が恐る恐る口を開く。タエは口を半開きのままテレビを凝視していたが、やがて口をきゅっと結んだ。
「あ、あっし……ちょっと、しんどいんで、部屋に戻ってるっすよ……」
「だ、大丈夫ですかっ? 一緒に部屋まで──」
「いいっす。一人に……してほしいっすよ」
立ち上がったタエは、壁に設置された手すりへもたれかかるようにしながら、リビングを出て行った。
部屋に戻り、ベッドへ腰を下ろす。そして、そっと目を閉じた。
「坊ちゃん……!」
そのとき。
「タエさん」
部屋に入ってきたのはフキ。
「フキさん……。一人にしてほしいって、言ったはずっすよ」
「すまないねぇ。でも……気になったさね」
フキはタエの隣に腰を下ろすと、その肩をそっと抱いた。
「残念、だったさね」
「……坊ちゃんは、れっきとした極道っす。あの世界で生きている以上……こういうことも、覚悟していたはずっす」
「ん……」
言葉とは裏腹に、タエの肩は小さく震えていた。
「でも……フキさん。こんなのって、酷いっすよ、ね……。堅気になろうって、矢先に……!」
タエの頬を熱い雫が伝う。声を押し殺して嗚咽するタエの隣で、フキはその肩を抱き続けた。
その日の夜──
夕食後、居室に戻りパジャマに着替えたフキたちは、タエの部屋に集まっていた。部屋の主、タエが怪訝そうに眉を顰める。
「な、何なんっすか、六郎さん」
「いや……ちょっと気になったから、例の事件、調べてみたんだ」
「坊ちゃんの件、ですかい?」
「ああ。ニュースじゃ、一般人と乱闘になって、頭の打ちどころが悪くて死んだってことになってたが……」
六郎が小さく息を吐く。
「何か……違うんですかい?」
「ああ……一般人とは言ってるが、タチの悪い愚連隊……今風に言えば、半グレがトラブルの相手だ」
「半グレ……」
「情報屋によると、篠宮は歌舞伎町の路上で絡まれていた女の子を助けようとしたらしい。それで……」
「半グレの小僧なんぞに、やられたってんですかい? お言葉ですが六郎さん。坊ちゃんに喧嘩のやり方を教えたのはあっしなんっすよ。坊ちゃんが、半グレなんぞにやられるなんて、考えられないっす」
六郎がそっと目を伏せる。
「その、な……。篠宮は……いっさい、手を出さなかったようなんだ」
「……は?」
フキや静江、源治たちがかすかに息を呑んだ。
「半グレとはいえ、一般人扱いじゃ。ヤクザが手出したら、面倒になるけぇの……」
「ヤク、ザ、やめようと、してたなら、なお、さら」
六郎が頷く。
「じ、じゃあ……坊ちゃんは……一方的に、暴行を、受けて……?」
「ああ……。数人の男に囲まれ、どれだけ殴られても、蹴られても……じっと、我慢し続けていたそうだ」
タエが拳をぎゅっと握る。血管が浮き出た拳は、かすかに震えていた。
「酷い、話さね……」
「胸糞悪いったらねえだでや」
全員の視線がタエに集まる。
「タエさん。仇討ちなら、手伝うさね」
「……手、出さねぇでもらえますか? これは……あっしがやらなくちゃいけねえんすよ」
「……そうかい」
「六郎さん。情報だけ、お願いできるっすか?」
「ああ。もちろん」
タエが窓の外へ目を向ける。その瞳には、明確な殺意が宿っていた。
三日後の深夜──
歌舞伎町の路上を闊歩する三人の男。
「ケンさん、ご馳走様っす!」
「っす!」
「おう」
二人の男を背後に引き連れ、ケンが肩越しに手を振る。
「にしてもケンさん。大丈夫なんすか? あんなことがあったばかりなのに」
「あ? 何のことだ?」
「や、その。桜咲組の組長のことっす」
ケンがフンと鼻を鳴らす。タンクトップから伸びる丸太のような腕。筋肉がピクピクと反応した。
「問題ねぇ。ま、喧嘩最強って噂されてた桜咲組の組長とは思わなかったけどよ。警察もヤクザもんが死んだからって、まともに捜査なんてしやしねぇしな」
「そういうもんっすか」
「万が一、桜咲組の奴らにバレたとしても、返しなんてしやしねぇよ。一応、俺らは堅気なんだからな」
とは言いつつも、ケンは無意識に人通りが少ない道を選んで歩いていた。暴力団の情報網はときに警察をも凌ぐ。万が一、ということもある。
「それにしても、あいつ傑作だったな。かっこつけて女を守ろうとしたくせに、手も足も出せずにくたばっちまうなんてな」
ケンの言葉に、ツレの二人も愉快そうに笑い始める。
「さすがケンさんっす。あいつ、噂じゃステゴロで負けなしって──」
突然、男が口をつぐむ。ケンも足を止めた。
「……何だ?」
三人が視線を向ける先。街頭が照らす薄暗い路地に、何かがうずくまっている。
「……何だ? 酔っ払いか?」
ケンの両隣を歩いていた二人の男が、不審がりながら近寄る。
「あん? ババアじゃん」
「おい、ババア。酔っ払ってんのか?」
髪をモヒカンにした男がそばにしゃがみ込んだ。刹那──
「ぎゃっ!」
変な声を上げて、モヒカン男が地面に倒れる。その喉に、老婆の細い指が深く食い込んでいた。
「なっ……! てめえ、何しやがるババア!」
黒いスキニーパンツの男が老婆を蹴り上げようとする。が、老婆はその蹴り足を掴むと、膝関節を極めたまま自ら宙に身を投げた。
「ぎゃああああっ! い、いてぇ……いてぇよ……!」
老婆がゆっくりと立ち上がる。そして、殺意の籠った目でケンを睨みつけた。
老婆の名は、牧村タエ。
「……ババア、何もんだ?」
「……外道に名乗る名はないっすよ。坊ちゃんの仇、討たせてもらうっす」
「坊ちゃん……? まさか、桜咲組の組長のことか?」
ケンの頬を、冷たい汗が伝う。目の前にいる老婆が、ただ者ではないことを本能的に理解していた。
「……徹底的に鍛えた指で喉を一撃。それに、関節を極めた瞬間に、折る。まさか……影宮流兵法、か?」
タエの眉がピクリと跳ねる。
「格闘技をかじってる人間なら、一度は耳にしたことがある、伝説の古武術。都市伝説とばかり思ってたがな」
「……お喋りをするつもりはないっす」
「こりゃあいい。都市伝説扱いされている伝説の古武術。その使い手を倒したとなりゃ、この世界での俺の評価は爆上がりだ」
「……」
「ま。こんなヨレヨレのババアが相手ってのは少々物足りないが」
「言いたいことは、それだけっすか?」
タエがだらりと両腕を下げる。一方、ケンは両拳を顔の前に構えた。
「ふん……ババア、お前に勝ち目はねぇ。俺は、ステゴロ最強と言われた桜咲組組長に、一度の反撃すら許さず殴り殺した男だからな」
刹那、ケンが丸太のような腕でタエに殴りかかる。が、タエはいっさい動じることなく、ケンの膝関節を正面から蹴り抜いた。
「があっ……! てめぇ、ババア……!」
「……勘違い、してるっすよ」
「ああっ!?」
ケンが再び襲いかかる。が、タエはその太い腕を掴むと、一本背負いの要領で投げ飛ばした。
「あぐっ!」
さらに、仰向けに倒れたケンの喉へ、全体重をのせた膝を落とす。喉が潰れ、骨の折れる鈍い音が路地に響いた。
「きゅっ……!」
ケンの口から漏れた、蛇口を閉じたときのような音。
タエはゆっくり立ち上がると、骸となったケンを冷たい目で見下ろした。
「……坊ちゃんは、反撃できなかったんじゃない。反撃、しなかったんっすよ……!」
歯を食いしばり、天を見上げる。路地裏を這う生ぬるい風が、虚しく頰を撫でた。そのとき。
「ぐっ……!?」
肩口に強烈な痛みが走った。衝撃で地面に転がる。
倒れたまま視線を向けた先。そこには、膝関節を折ったはずのスキニー男が棒っきれを片手に立っていた。
「ババア……舐め、んじゃねぇぞ……! ただじゃ、帰さねぇからな……!」
「ぐ……」
肩を抉るようなズキズキとした痛み。タエの顔が苦悶に歪む。
老いた、もんっすね……。確実に骨を折ったと思ったっすのに……。
さすがに……もう、反撃する力は残って、ないっすよ……。
「死ねや、ババア」
男が棒を振り上げる。タエは覚悟を決めて目を閉じた。そのとき──
男の頭に風穴が空き、脳漿と血飛沫が舞った。かすかに遅れて、「ターンッ」と、乾いた音が遠くから響く。
着弾から遅れて、追いかけてくるような狙撃音。遠距離からの狙撃でのみ起こり得る現象。
タエはハッとしながら、遠くに見えるビル群へ目を向けた。
夜間、しかもこれほど遮蔽物が多い場所での、正確無比な狙撃。
そんなことができるのは、一人しかいない。
狂蜂……クレイジー・ビーと呼ばれた、伝説のスナイパー。
「……あんたも、優しすぎっすよ。フキさん」
タエはかすかに微笑むと、目元を指でぬぐった。
「あと三十分もしないうちに、夜勤の未来ちゃんが巡視に来るっす。フキさん、あんたもバレないうちに、早く戻るっすよ」
一人呟いたタエは、骸となって転がる三人の男をちらりと一瞥すると、ゆっくり踵を返しその場をあとにした。




