あなたはうんめいのひと
その微笑みは、彼に向けられたものではなかった。
ただ、一度だけ。
奇跡の様に見ることが出来た――呪いのごとく目にしてしまった、彼女の心からの笑み。
うつくしい、だけでは足りない。
どれだけの言葉を尽くそうと、網膜に焼き付いた彼女の姿を、誰かと共有することなど叶わない。
……その表情を、有象無象と分かち合うなど、あり得ない。
そう、回数など、問題にならない。
彼女の心が、どこにあろうと構わない。
自分の魂を搦めとるならば、彼女に相応の代価を求めて何が悪い。
彼女の、狂おしい程の魔性を帯びた眼差しを、自らの目に映す為ならば、どんな賢君も、己が国共々奈落に身を投げることすら厭うまい。
――それはまさしく、傾国の。
――あるいは、宿命と呼ぶものか。
そうして、彼と彼女はすれ違う。
過ぎ去った事象を評することに、意味はない。
彼の胸に芽生えた感情に、名前を付けたところで、最早変わるものもない。
――それでも、彼女の存在は、その身の内に潜んでいた魔魅は。
一人の男の行く末を、決定的に捻じ曲げるには十分すぎた。
◆◆◆
視線が痛い。
情け容赦なく彼らにぐさぐさ刺さってくるそれに、物理的な威力があったなら、ヴォルケはもう百回は死んでいた。
指定時間に入場したのに、なんでか時間に遅れた不調法者扱いされてからの、舞踏の最中。
よりにもよって男に教わった記憶が蘇って泣けてくる、うろ覚えの足取りで、ヴォルケはなんとか優雅な曲についていく。
今流れているのが、ゆったりとした旋律であることが、ヴォルケには大助かりだ。
もっと忙しない曲調であったなら、ヴォルケの革靴は、心血を注いで作られたと一目で分かる、華奢な紅の靴を、踏みまくっていたに違いない。
夜会の円舞曲には無縁だった平民将軍の、そんな様な踊りが、見苦しい代物になっていないのは、偏に彼の相方であるリアの功績だろう。
ヴォルケには聞き慣れない、花の香の清冽は、森の奥深くにある、透明な水を湛える泉を想わせた。
紅のレースの裾が、蕾がほころぶ様に、ふわりと広がる。
結い上げた濡れ羽色の髪を彩る髪飾りの、紅と白乳色の小花の連なりは、リアの動きに合わせ、優しい雨垂れの音を奏でて。
化粧を施され、信じられないくらい綺麗になった顔の耳元で、白い花弁を封入した六角柱の結晶が揺れる。
うつくしい、の言葉だけでは足りない、異様な存在感を放つドレスや装飾品の中に、自分の贈り物が混じっているのが、ヴォルケにはどうにもこそばゆい。
見るからにリアの為だけに誂えられた品々に、ヴォルケの耳飾りはきちんと調和している様に見えた。
自分の見る目は捨てたもんじゃないなと、ヴォルケは内心自賛する。
彼が贈った物を、即行で売り払われたり、捨てられたりしないのは、家族以外ではあんまりなかったので。
進行方向を確認するため、ヴォルケが視線と向けた先に、まるで幽霊でも見たような顔で立ち竦む貴族が何人も見えた。
気持ちは分かる。
うっかり、スウリさん(変身前)の姿を思いだし、ヴォルケはげっそりした。
一体どうして、綺麗過ぎて目の潰れそうな美女がすぐ傍にいるのに、自分は筋肉妖精なんかを思い浮かべてしまったのか……。
しかしながら、視覚的生体兵器に化粧を任せて、こんなに別嬪になったら、詐欺と言うよりも、むしろ怪談話に違いない。
実際、ヴォルケだって、先程向けられたリアの笑みに、心臓が止まりそうになったものだ。
本物の美人の笑顔は、破壊力が凄まじい。
もう、妻子が笑った顔は天使だとか、何かにつけて惚気まくる飯屋の親仁の事を、ヴォルケは鬱陶しいとか迷惑がれない。
ふと、視界の端に、聖女様(笑)御一行の姿を捉え、ヴォルケはざまあみろと口を歪める。
常日頃から自分を見下してくる人間の、信じ難いものを目撃した表情が、ヴォルケには痛快であった。
だって、貴族の若造どもが取り巻く娘なんかより、ヴォルケの腕の中にいるリアの方が、遥かに良い女だ。
――まあ、ヴォルケとて、リアが来るもの拒まず枕を共にしていた事実に、それなりに思うとことはあるが。
それでも、他者とはどうしようもなく異なる、けれどリアなりに精一杯の誠実を受け取る権利をもぎ取ったのは、あちらの若造どもではなく、ヴォルケであるのだ。
悪鬼、と。
そう畏れられ、忌まわれるに足るリアの異質は、ヴォルケとて、否が応でも悟らざるを得なかったとしても。
ヴォルケが腕の中に視線を落とせば、どこか稚く楽し気なリアの笑みに、意識が囚われそうになる。
この笑顔を、すぐ傍らで目に出来る特権を、どうして投げ捨てられよう。
……運命だとか、宿命だとか。
ヴォルケは信じたいとは思えない、時に煌めき、時にどす黒い虚をさらす言葉に、今は少しだけ手を伸ばしたかった。
貴重なひと時を惜しむ間もなく、香水やら酒精やらが入り混じり、むせ返るような空気に、最後の一音が、余韻を残して溶けていく。
円舞曲が終わってしまって残念ではあるが、さりとて、二曲目に突入したところで、ヴォルケに踊り切れる自信はない。
一曲踊ったのだから、最低限の義務は果たしたと、夜会を泳ぐ人の群れから、ヴォルケはリアと一緒に脱出する。
今は、清しいリアの香が聞こえているから良いものの、毎度のように、濃縮された甘ったるい臭いが充満する夜会に、ヴォルケは胸焼けしそうだった。
自分達に集中する視線を感じつつ、ヴォルケは、近くにいた給仕から、二人分の飲み物を受け取る。
「ほらよ」
「ありがとうございます」
酒精の軽い果実酒を受け取り、ふわりと微笑むリアを見て、ヴォルケは天を仰ぎたくなった。
その顔は、反則であろう……。
なぜだろうか。
目の前のリアの笑顔が、妙に輝いている気がする。
――もう、帰りたい。
帰って、この状態のリアを、どこかにしまっておきたい。
自分の同伴者が、可愛すぎて、ツライ。
産まれてこの方、まともな女と付き合えた経験のない平民将軍の脳内は、何の呪いのせいなのか、どこぞの聖女張りのお花畑になりかけていた。
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