閑話 盤面の女王が座すは、
74話と一緒に、大幅に加筆修正を行いました。
前話からどうぞ。
広間に響く、神威を孕んだ女王の声は、その場から雑音を拭い去る。
「ウェインは、――王鞘は、神の力を踏み越える為に、先に狂うことを選んだだけ。
神霊を呼び込むのに、最も親和性が高いのは、人の狂――……」
自らの喉を締め上げる、彼女の両手が、陰々とした語りを中断させた。
傍目には、自傷行為を行っている様にしか見えない女王の瞳には、しかし、強い意志の光があり、正気を失っている様には見えない。
――情報を記録し、誰かに伝えるのが、書の役割だ。
だが、この世の全てを記録した神書の、秘匿されるべき情報を、不用意に余人に触れさせるわけにはいかない。
「――リズっ?!」
ふっと、空気が揺らぎ、魔法で姿を消していた夫の、逞しい腕が彼女を抱き込む。
そのぬくもりと、自分の忠臣に打ち込まれた楔を頼りに、彼女は、引き摺られる己を、必死に境界線上へ留めた。
まだ。
――まだ、そちら側に、転がり落ちる訳には、いかないの。
「……クライ、大丈夫、だから」
「リズ」
身の内で、不満気に鳴動する神書の気配を感じながら、彼女は、自分の喉から両手を引き剥がし、鋭利な爪を具える夫の指を握りしめた。
大丈夫。
この手があるなら、私は、どんな地獄でも歩き抜ける。
「――あなたは、貴女は、狂ってるっ!」
「いいえ」
男から投げつけられた拒絶への、彼女の否定の言葉は、明瞭で、決然としたものだった。
「狂ってはいないわ。
まだ狂わない。
――私は、狂う訳にはいかないの」
神書が、彼女を呼んでいる。
己が魅入った使い手を、向こう側へと手招いている。
知らず、夫に縋る指に力がこもった彼女の手を、夫の掌が柔らかく包みこむ。
「……まだ、リアが戻ってきていないわ。
私が狂ったら首を刎ねてくれると、あの子がそう約束してくれたから、――私の王鞘が帰ってくるまで、狂えないの」
きっと、理解はしてくれないのだろう。
それが、神器に魅入られた自分達にとって、どれ程の救いになるのかを。
聖戦の折でも暴虐を振るい、『血雷鬼』と恐れられた紅雷の民を侍らせ、玉座に座る女は、確かに狂気の色は無く、王特有の威を宿していた。
目を剥く相手を、彼女は静かに見据える。
「――リアは、聖女なんてものではなく、私の王鞘よ。
そう在る事を、他の誰でもないあの子が決めたの。
――ああ、あと、お父様の王鞘は、二十年前の件では聖人も聖女も害していないし、リアを産んだ女性は、本当に大罪人なのよ。
例え、呪術を用いる薪にされたとしても――ただ死ぬ方が生温い目に遭ったとしても、同情される資格はないと、判断されるような。
それに、ね、――」
疲労を感じ、彼女は目を伏せた。
それでも、口を閉ざす気は、なかったけれど。
「――あの子を解放したとして、『教会』には預けたくないわ。
あそこは、リアを幸せにしてくれはしないでしょう。
二十年前だって、聖人や聖女を大切にしては、いなかったのに」
「――エリザベス・アレクサンドロス陛下」
硬い声を上げたのは、沈黙を続けていた『神の目』だ。
「約定を、お忘れですか?」
「まさか」
『神の目』の、切り裂くような鋭い視線を、彼女は微笑み一つでいなす。
「ただの、事実からの推論よ?
でも、優れた浄化の力を有している貴重な人材を、本当に大切に扱っていて、何があろうと守り通そうとした結果が、今この状態なら、それはそれで問題でしょうね」
彼女の皮肉に、『神の目』は言葉を詰まらせた。
彼女の台詞への肯定も否定も、『教会』の益にはならないから。
『教会』の現状は、ある意味自業自得であるが、自分達がその問題の巻き添えをくらうのは、正直、堪ったものではない。
「『神の目』殿、これでも、アレクサンドリア王家の家訓には、『約束を破らない』ことも含まれているのよ。
――その証拠を隠したままにする不利益が、証拠を世に知らしめる不利益を上回らない限り、何も公表しないと。
……それが、父が結んだ約定であっても、私は破らないわ」
だから、彼女は何も言わない。
隠したままにしたものを、晒して見せしめにする方が、ましな状況になるまでは。
「……それは、誰と――」
「約定だもの。
私は言わないわ」
喘ぐように、『神の目』との会話に割り込んできた男に、彼女は、ほわほわと微笑みながら返す。
地神や長命種との付き合いの深い、アレクサンドリア王家にとって、約定と言うのは絶対だ。
かつて生きた先祖達の、これからを生きる子孫達の言葉を、空っぽにしてしまわないように、彼女もまた、父親が交わした約定を違える気はなかった。
「――だから、貴方がどうしても知りたいのなら、リアにでも聞いてみなさいな。
あの子は、私の王鞘だもの」
王鞘は、王剣の鞘で、王権の鞘だ。
本来王鞘が納めるべき、王を弑する為の剣を手放しても、王の権力の暴走を治める役目は、放棄していないのだから。
「貴方が知るべきだと思われたなら、――約定を護る私の方が正しくないと、あの子が判断したのなら、きっと教えてくれるでしょう」
二十年、隠し続けた方が、ましなものを。
大乱の種を、人間の闇を、それに絡み付く、怒りを、憎悪を、悲哀を――。
――存在しなかったことにされたもの達を、呑み込み続けてきたのが、アレクサンドリアだ。
……ああ、確かに、彼女が治めるのは『悪の王国』だ。
口先で、人の意思を、自由を尊びながら、剣をもって、全部無かったことにしてきた。
「教えてもらって、それでも、私が正しくないというのなら、またいらっしゃい。
――剣を向けるというのなら、迎え撃ってあげるから」
……始まりは、いっそ優しい願いで、儚い程の祈りだった。
けれど、
数多の命と想いを積み重ね続け、積み上げ続け、今は周りを見渡しても、捩じれた情や歪んだ願望が目に入るばかり。
――みんなが、仲良くくらす国。
自分が頑張れば、そんな優しい国を作れると信じていられた、花々が咲き誇る箱庭の記憶は、遥か遠い。
……数え上げるのも馬鹿馬鹿しい骸と、絡まりきって拾い上げることすらできない情念を土台に、何時しか醜悪な色に染め上げられた玉座。
そこに、平然と座したまま、アレクサンドリアの女王は、穏やかに言い放った。




