贈られる、歌は
厄介な黒い紋様の顕現を阻む、その清冽な歌声は、恐らくヴォルケが知るどんな浄化の手段とも、一線を画すものだったのだろう。
……だからこそ。
朔の夜闇の双眸に宿る黒炎は、余りにも激しく、――儚かった。
旋律を紡ぐ声は、今この瞬間でさえ、揺るぎも濁りもしない。
……滑らかな白い肌には、呪詛と見紛う黒い痣が絡み付き、自壊するかの如く、体中からの出血が止まらないのに。
歌声が塗り替えた、侵し難い、清浄すぎる程の空気故か。
痛々しく、忌まわしくさえ感じるリアの姿は、馬鹿馬鹿しい事に、何処か神聖な絵画めいた印象があった。
目の前の異様な光景に、ヴォルケは一瞬自失する。
リアのこの手札は、流石に想像すらしていなかったのだ。
――呪術に親しい娘が、正反対の扱いを受ける技術である、浄化の術を習得しているなんて、作り話にしたってあり得ない。
劇や本にしたところで、狂信者や『教会』の異端諮問官に殺されるのがオチだろう。
それが、術者の――リアの身を、寿命さえも削りかねない代償付きであれ。
咄嗟に伸ばそうとした手は、他ならぬリアの眼差しに止められた。
――何の為に、こんな事をしているのか。
歯車が錆びついた頭を振り、ヴォルケはリアから目を逸らす。
今が、腐竜を滅ぼす最後の好機だ。
……腐竜に会心の一撃を加えたクロードは、非常識な武器に振り回され、関節の可動域的に許されない状態で身体を捩じったまま、白目を剥いた上に、泡を吹いていた。
着ぐるみ達が慌てて元に戻そうとしているが、悠長にクロードを待っては、リアの覚悟がふいになってしまう。
奥歯を噛み締め、ヴォルケは走り出す。
――向かうは、衆目に曝された腐竜の核。
リアから預かった、魔導器の鞘の補助がある筈なのに、腐竜までの距離が情けなくなる程に遠い。
剣の柄を、精一杯強く握り込む。
――闘技場の縁で蟠る悪意が、リアに牙を剥く前に。
矢羽が走る音が耳に届くも、ヴォルケは振り向かない、振り向けない。
余計な動作が、遅滞と致命を招くから。
漸く、濁った紫に点滅する、いやに大きな結晶が、ヴォルケの間合いに入った。
歌声は――途切れない。
魂さえ焼き尽くす様な壮烈に支えられた旋律は、美しくも、何故かもの哀しい。
金属の塊が矢を払い落とす音を聞きながら、ヴォルケは手にした武器を振り下ろす。
「――ふざけんなぁっっっっ!!!!」
腐竜の核に、傷一つ付けられずに半ばから折れ飛んだ愛剣を、ヴォルケは往生際も悪く、何度も叩きつける。
腐竜の鱗も何とかなったのに、ヴォルケが破壊すべき結晶は、いっそ笑えるくらいにびくともしない。
ふざけるな。
何の為に、リアはあんな風に――
―――――――――――――――――――――――――――――、と。
声、だったのか。
感触、だったのか。
……だが、決して天啓とは表現できないものは、ヴォルケに対した訴えだった。
ヴォルケの手が、ベルトに差さった黒い鞘を引き抜く。
べとりと黒い鞘の、表面に施された蓮を模した装飾が、不思議と印象に残った。
突如、叱咤するように響いた竜の咆哮に叩き起こされたものか、リアから預かった魔導器の片割れは、ヴォルケの手の中でぶるりと震える。
何かが切り替わったかの如く、急激に重みを増した鞘を、けれど、ヴォルケは構わず忌々しい結晶に突き立てた。
愛剣での苦労が冗談に思える程、易々と。
鞘が突き刺さった腐竜の核が、べとりと黒い闇に染まって。
罅割れたのは、一拍後。
不味い、と。
ヴォルケを貫いた戦慄は、懐から湧き上がった温かい風が、あっさりと祓う。
――リアに渡されていた、浄化の首飾りの効果だったのか。
単なる幻、だったのか。
ふと、誰かが微笑む気配を感じた。
嬉しそうに、懇願するように。
また、祝福にも似て。
……祈る、ようにも。
と、結晶と共に、残された腐竜の肉体も形を崩し、ヴォルケは安堵する暇もなくその場から逃げ出す。
見る間に腐敗が進む腐竜の残骸は、見えざる手が、面白半分に時計を動かしている様を、ヴォルケに連想させた。
……歌声が、止んでいた。
「――リアっ!!!」
苛立だしいぐらいに動かない身体に鞭打って、ヴォルケは、自分でも惚れた理由が分からない娘の元へ駆け寄る。
ヴォルケが抱き起せば、力無く頭を揺らした娘の耳元で、白い花弁を封入した六角柱が光を弾いた。
悲鳴にも似た鳴き声を上げ、炎色の霊鳥が、ヴォルケの腕の中の娘に頭を擦り付けるも、固く閉ざされた瞼は持ち上げられない。
そして、少し離れた場所に、リアの耳飾りを購入するきっかけになったご隠居の、栗毛の護衛が座り込んでいる。
場外からの攻撃を避け損ねたのか、浅くはない傷を負った青年は、何かを堪える瞳をリアに向けていた。
――ぽすぽすぽすっと、聞こえてしまった間抜けな効果音に、ヴォルケは思わず肩を落とす。
……緊迫感どころか、やる気まで粉砕されそうなのだが、これ……。
クロードの治療を終えたのか、ウサギの着ぐるみが、全力疾走でヴォルケのところまでやってきたのだ。
ウサギは、だらりと垂れたリアの手を、小さな前脚で包み込み――。
人形めいた動作で、天を仰いだ。
見上げる空には、遠く、幾つもの影。
ヴォルケの身体を、大地を揺らす様な、竜の咆哮が震わせた。
闘技場に開いた穴の底から響く、重低音に呼応するように、高く、低く、様々な質の声が、ヴォルケのところまで墜ちてくる。
天高く在っても、その畏怖を、地を這う獣達に知らしめるのは。
「――真竜……」
ぽつりと、栗毛の青年が呟いた。
真竜の群れを目視しているにも拘らず、平然とした声と態度からは、青年の考えなど読み取れない。
地上から、天上から、響き合う咆哮は、何時しか旋律を奏で始める。
王都中が縮こまるしかなかったそれは、けれど、空の覇者達の示威行動なんてものではなく、ただ、彼等の同朋の為のものだった。
「……わざわざ、狩られた馬鹿を悼みに、人の領域に踏み込んできたか……」
「おいっ!」
聞き捨てならぬ台詞に声を荒くしたヴォルケに対し、青年は肩を竦める。
言葉の酷さの割に、青年の声には、皮肉も侮蔑も、含まれてはいなかったが、(認めたくなくとも)ヴォルケ達の横に真竜がいるのである。
――命の危機になったら、どうしてくれるっっっ!!!!
ヴォルケは顔を青くしたが、いつの間にか、ウサギと竜モドキのナカのヒトも、他の真竜達と一緒に歌っていることに気が付いた。
ウサギの力により、呪詛の痣が消えても蒼白だったリアの頬に、いくらか赤みが戻ってきている。
それを見ていた栗毛の青年は、リアと同じ色の瞳を、少し細めただけだった。
真竜達の、世界を揺るがしさえする声は、ただ、何も変えることのない歌を紡ぎだす。
北にあるらしい棲み処から滅多に出てこない真竜達の、稀有な歌声は身体の奥まで響くのに、不思議と、鼓膜を痛めることもない。
幾重にも重なる咆哮に耳を傾けながら、ヴォルケはなんとなく、何処かで信じられている天国に咲き誇ると言う、花の話を思い出した。
――あの腐竜の逝く先では、蓮の花が見られるのだろうか?
嘆きと、悼みと、……それから、祈りと。
人と同じく、――人よりも深く。
人ならざるもの達が、喪われたものに贈るのは、紛うことなき、葬送歌だった。




