『虚無の聖女』
彼のものではない、城の中。
彼は、いたって気楽な調子で、歩を進めていた。
先程、城の警護兵から彼が雇っている護衛について問い詰められたところであったが、そのことについて、気に病む様子はない。
――彼に不利益な事はしない。
その護衛が、そう彼に約束していたのだ。
彼は、振る舞いに問題はあっても、嘘だけは吐かない護衛の性情と、男の能力の高さを、固く信じていた。
だから、その護衛が侍女を襲って拉致しただの、いや、異国の女伯爵に脅されたせいだなど、情報が錯綜していても、彼は鷹揚に構えていられているのだ。
それどころか、部屋に閉じ籠るのは退屈だと、残りのお供を引き連れ、自ら護衛を探す余裕さえある。
正直なところ、彼は趣味の為にローディオを訪れただけであり、他国のいざこざに巻き込まれるのは本意ではない。
それでも、彼には、護衛がいれば何とかなるだろうという、他人からすれば首を傾げたくなるほど強い信頼が存在していた。
そんな彼の余裕は、ある光景を目にした時に、あっけなく吹き飛んだのであるが。
***
壮麗な装飾を施された廊下に、突如響き渡った絶叫。
それは、絶望を孕むものだった。
「……何ということだ……。 人類の、財産が……」
ジャネタの前で、初老の男が頭を抱えて蹲っていた。
頭を搔きむしったせいで、整えられていた髪はくしゃくしゃだ。
「……たかが、絵一枚に大袈裟な。 どうせ、布と絵の具で構成された物体だ。 その内、朽ちていただろうが」
「……ヴィル……、君は早く野蛮人から進化するべきだよ……。 『虚無の聖女』の素晴らしさが碌に理解できないなんて、君は何て不憫なんだろう……」
呆れたようなヴィルの物言いに、蹲っていた男――ジャネタ達の雇い主は、力なく首を振った。
竜穴の恩恵を受けるアルトビャーノの、好事家で知られる先代の王は、欲しがっていた絵画の惨状が相当衝撃的であったのだろう。
自分の立場や年齢を、忘れ果てたかの様な振る舞いであった。
――『虚無の聖女』。
其は、暗闇に惑う者達を、手にした灯により救済へ導き、己に手を伸ばした者を破滅へ誘う。
――人々に救いを与えども、自身は何も得られぬ、虚ろの乙女。
『虚無の聖女』と呼ばれる絵は、高名な老画家の手による、絵札を用いた占術の象徴を主題とした、連作の内の一枚である。
……そして、先王が、巨匠が本当に書きたかったのはこれだけだと主張する絵画は、現在進行形で大穴が開いていた。
人の背丈ほどもある大きな額縁の中で、闇夜の様な暗い色合いの背景に、漆黒の聖衣を纏った娘が佇んでいる。
右手には、髑髏でできた灯を掲げ、左手には白い聖花を抱く娘は、被っている面紗のせいで、口元以外の造作を窺い知ることはできない。
だが、見えない故に、一層、面紗の奥の顔に想像力が掻き立てられる。
穏やかな微笑を浮かべる娘は、何者か? と。
……娘の足元にいるのは、実在する魔獣だろうか? それとも、画家の空想の中に住まう幻獣であろうか?
優美な体躯の炎色の鳥は、思わず見入ってしまう程に、美しい。
精緻な幻鳥は、見る者に、ビーズの様な瞳を向けていた。
二つの絵札の組み合わせを示す、黒衣の娘と、絵札の何処にも存在しない、炎色の鳥。
その二つを一つの画布に描き入れた老画家は、何も語らずにこの世を去った。
その絵は、廊下に飾られている他の絵画の様に、華やぐような絵ではない。
ただ、確かに、技巧以上の不思議な引力があった。
――だからこそ、娘の足元近くに空いた丸い穴のせいで、台無し感が凄まじいのだが。
そして、今は亡き老画家の最高傑作(先王談)を傷物にした犯人は、だらだらと汗を流しながら、あらぬ方向に視線を向けていた。
「お、おれは無実です……」
身をもって大穴をぶち開けた分際で、何様だと言われても仕方のない主張だが、この青年の場合は、あながち嘘とも言い切れない。
「ほら、矢だって魔法具だって、使った奴が悪いじゃん。 俺が絵に穴を開けたのも、ねーちゃんに殴られた結果だったから、ねーちゃんが悪いと思います」
黒衣の青年は、嘆く先王から盛大に目を逸らしながら、そんな事を主張する。
彼が遠縁の女伯爵の地雷を豪快に踏みつけ、殴り飛ばされた先に、たまたま絵が存在していたのだ。
ある意味、不幸な事故であった。
……女伯爵も女伯爵で、文字通り人間が壁に突き刺さる程、力を込めて殴り飛ばさなくても良かったと、ジャネタは思う。
そんなに、胸回りを気にしていたのか。
「……その前に、保護もされていない贋作が破損した程度で、そこまで嘆かれる必要はないのでは?」
「――真作だからねっ!!! 私の目が、ゴルテル老の最高傑作を見間違えるわけがないっ!!!!」
胡乱気な女伯爵の言葉に、ジャネタの雇い主が怒り出した。
「……それなのに……、それなのに、なんてひどい……。 こんな扱いをされるなら、ゴルテル老が儚くなった時に、何が何でも手に入れておくのだったよ……」
ジャネタの雇い主は怒ったと思ったら、今度は、目元を押さえて泣き出す。
情緒不安定にも、程があるだろうに。
件の老画家が死ぬまで手放さなかった『虚無の聖女』が、ローディオの王宮に横取りされたと、彼が以前えらく荒れていたことは知っていたが。
「うん、あれだな。 安物だけど、好きな人は大好き的な作家さんの絵だったのか」
「……クロード、この絵が真作だったら、下手な貴族なら破産しかねない値が付くわよ」
「……え゛……」
見当違いの事を言い出す遠縁に、女伯爵が突っ込みを入れた。
王宮に飾られ、他国の王にも乞われる程の腕を持つ画家の絵が、安物である訳がない。
確か、老画家は遺作となる連作を手掛ける前に、アレクサンドリアを訪れた筈だ。
あまり芸術とは縁が無さそうな女伯爵は、その時に老画家の作品の価値を知り得たのかもしれない。
「――お、俺っ、破産の危機っ?!」
「ウェインがこの程度で破産すると思う?」
慌てる青年に対し、女伯爵は鼻を鳴らしただけだった。
ウェイン伯爵家の数ある異名の一つが、王家の金蔵だ。
神域の番人であるということは、神域から産出される生体素材や魔石と言った高価な品々に関する、流通の管理者でもあるということだ。
そこから得られる富は、やはり莫大らしく、嘗ての『聖戦』の折も、膨大な戦費をウェインのみで賄いきったらしい。
『竜穴』があっても、そこからの利益をギルトに大分巻き上げられるジャネタの雇い主は、アレクサンドリア王家を非常に羨ましがっていた。
「ローディオも余裕があるのね。 このような絵画を、保護処理もせずに飾っておくなんて」
「それさあ、逆に、経費削減でそんな余裕が無かったんじゃないのか?」
高価な絵画を破損させたのは自分達だという事実を、高い高い棚に上げて、犯人二人は好き勝手に言い合う。
損害賠償を請求されても、何ら痛痒がないからと言って、ふてぶてし過ぎではあるまいか。
あんまり過ぎる二人の態度に、絵画好きの先王が、ぶるぶると体を震わせていた。
「……可笑しくないか?」
不意に、ぼそりと呟いたのは、ローディオの平民将軍だ。
童顔のヴィルとは対照的な厳つい顔の男は、大きな傷跡が残る顔に、何とも言えない表情を浮かべていた。
「うちの部隊に支給される筈だった魔石が、絵画の保護処理用の名目で削減されたんだぞ」
「横領かっ! やってるの、初めて聞いたっ!」
「クロード、嬉しそうに言わない」
女伯爵が佩いていた剣の鞘が、青年の頭に直撃した。




