閑話 ひいひいおじいちゃんといっしょ おわり
*グロテスク・ホラーチックな描写があるため、苦手な方はご注意下さい。
黒く、黒く、黒い。
赤く、赤く、赤い。
血臭と死臭が入り交じった空気は、吸う程に息が詰まっていくと錯覚させる。
果てがないような、それでいて、何処にも進めないような気分にさせる闇が周囲に凝っていた。
一歩踏み出せば、ぱしゃりと、足元で水音が鳴った。
血の海。
どこまでも広がる、赤い水面は、それ以外に形容のしようがない。
立っている場所こそ、足首程の深さだが、不気味に赤い水は、また一歩踏み出せば、底なしの深みに落ちてしまっても可笑しくないと感じてしまう。
歩き出すことも、戻ることもできずに、リアは独り、立ち尽くす。
ぼこり、と、水中から浮き上がった空気が弾ける音がした。
見れば、赤と黒で構成させた空間に、白い異物が紛れ込んでいた。
ぼこり。
ぼこり、と。
赤い水面に、白いものが増えていく。
青ざめた手が。
紙の様に白い、天を仰ぐ人面が。
赤を塗りつぶさんと増殖していく人面達の口元は、忙しなく動いていたが、そこから音が漏れることはなかった。
声にならない悲鳴や怨嗟が、闇の中を侵食していく。
空を掻くばかりの無数の手は、何も掴むことはない。
ぼこり。
リアの足首に、痛みが走った。
リアの足首を握り潰さんとするように、青ざめた華奢な手にぎりぎりと力が籠められる。
時折銀が差す程、薄青い瞳。
光の加減で、白金にも見えるほど色素の薄い金髪。
異国では尊いとされる身体的特徴を有した女は、整った顔立ちなのに、酷く醜怪に見えた。
激しく動く唇からは、声なき呪詛が吐き散らされる。
音が無くとも、リアの存在自体を否定し、その生を忌む言葉は、確かに彼女に届いている。
降るような呪詛は、リアに何の痛痒も呼び起こさない。
リアにとってそれは、空や大地と同じく、ただそこにあるものだった。
ぼこり。
新たに現れた人面の、新緑の瞳と目が合った。
幼い少年の顔は、リアが気を許そうとしていた人間のもの。
リアが招いた禍に、呑まれて沈んだ子供のもの。
――その関係は、友達とは呼ばないと、終わった後で理解した。
利用し、利用され、騙し、騙された。
リアが何気なく持つものが、子供にとって、価値のあるもので。
寄生し、啜る相手を間違えたことに、子供が気づいたかどうかは、リアも知らない。
気づく間も無く、子供の灯が消されたのであると、リアはほんの少しだけ願っている。
――リアは、子供に謝らない。
例え、新緑の瞳に、母と同じものが宿っているとしても。
リアは、謝らない。
謝りなど、しない。
***
小さく呻いた玄孫の頭を、彼はそっと撫でた。
まだ幼い少女の白い肌には、見ているだけで呪われそうな、禍々しい紋様が浮かび上がっている。
浄化に秀でた『聖人』でさえ致命的になる呪詛を浴び続けながらも、彼の玄孫は、論理的な思考と人間らしい情緒を保って生き延びていた。
――少女の卓越した呪術の才と、飛びぬけた巫覡の適性が、彼女を生かしたのだ。
逆に言えば、それらが無ければ、彼の玄孫は、生まれることすら叶わなかった。
少女の影から湧き出す澱のせいで、少女の傍らにいる生者と言えば、高濃度の澱に耐えられる最上位の魔物――《原初の魔》である《浄火の不死鳥》ぐらいだ。
彼は、鼻につく臭気に顔を顰める。
くそ不味い。
彼にとって、澱はそう表現するものだった。
口直しに、目の前の《原初の魔》でも齧りたいところだったが、玄孫に嫌われるので、彼は渋々――本当にしぶしぶと諦める。
個々の部品は生母似とは言え、全体的な面差しは彼の妻そっくりの玄孫は、彼が『人間』と認識できる数少ない者達の一人だ。
地神によって、全自動澱吸引機に改造されてしまった彼は、玄孫から発生する澱を心底嫌々取り込みつつ、膝を抱えた。
――現在進行形で発酵している魚の缶詰の方が、まだ芳しくさえある、猛烈な腐臭。
味はと言うと、胸焼けする程の甘味と、舌が馬鹿になりそうな塩辛さと、顔を窄める酸味と、吐き気を催す苦味が、それぞれ主張しあい、最悪の不協和音が爆誕している。
地脈から汲み出す魔素は、彼の躰にすぐ馴染み、清々しくさえあるのに、澱の方はべちゃべちゃというか、ねっちょりというか、嫌な後味がいつまでも残る。
彼の玄孫は、澱を大幅にまろやかにしただけなのに、旨味さえあり、後味も悪くないのに、この差は一体何なのか。
――あくまで、澱を代謝可能な彼の感覚では。
大概の人間は、高濃度の澱に侵されたら、異形化するか、内蔵が機能不全を起こして死ぬだけだ。
それに、彼の様に地脈から魔素を汲み出せる人間も、滅多にいない。
地神にとっても想定外の突然変異である彼は、生前から、特異な能力と引き換えに、色々なものが欠落していた。
その筆頭が、満腹感で。
彼は、妻に会うまで、満ち足りた、と思えたことが無かったのだ。
……彼が生まれた理由と死ぬ理由は主君であったが、生き続ける理由は、彼の妻になった。
彼の視界の片隅に、うっすらと透ける、白い法衣がちらつく。
彼のものとは異なる低い男の声が、浄化の旋律を奏でていた。
それは、玄孫の守りの一つで、彼と敵対するものでは無い。
眉をひそめて眠り続ける、玄孫の艶やかな黒髪を、彼は指先で梳いてみた。
「リア、俺はリアに会えて、幸せ」
囁いた言葉は、彼が言われて嬉しかったもの。
例え、災いしか招かなくても、自分との出会いが、尊いと、――幸せだったと。
妻とは違う、けれど、妻の名残で、己の名残でもある少女。
いつか、彼にとっての妻の様な人間に、出会えるのだろうか?
「――幸せに、おなり」
掌から溢れるような願いを、祈りを、小さな手にそっと握らせる。
嘗ての王鞘の残骸でしかない彼だけど、例え、世界が少女を否定しても、何度だって、彼女の幸福を望む。
「どうか、お前の地獄に光が灯れば――」
沢山、なんて言う気はない。
自分達は、ただ、一つさえ得られれば、地獄の果てまで歩き抜けるから。
『暴食鬼』と呼ばれた男が浮かべたそれは、酷く、優しい笑みだった。
*ウェインさんちは、先祖代々重量級。




