疵物の地神と隻腕の巫覡
*ヒロインが酷いです。
——ああ、可哀想。
そう言って、それは空虚な笑みを浮かべた。
——望んでは駄目。
――求めては駄目。
だって、
貴女は
――――――いもの。
「――だから、どうした」
虚ろな託宣に、酷く冷たい声で応えたのは、流れる血故か。
誰が否定しようが、目を背けようが、彼女の身には確かに狂気が廻っている。
彼女の血筋を、『悪鬼』たらしめたものが。
普通なら絶望してもよい筈なのに、不思議と代わりに湧いてきたのは、煮え滾る様な熱だった。
もとより、宿命に膝を折る様な殊勝さなど、端から持ち合わせてなどいない。
そんなものが一欠片でも存在していたら、彼女はここにいなかった。
上等だ、と心の底から笑みを浮かべた。
きっと彼女の表情は、主君が涙目になる程、凶悪なものだっただろう。
簡単なことだ。
より多くを持ち続けたなら、彼女の勝ち。
◆◆◆
点在する巨木の合間を縫うように、透明な水を湛えた泉がいくつも連なっていた。
清浄な流れと共に、苔むした岩が微睡んでいる。
風が吹き、水面に落ちる木漏れ日が形を変える。
主に緑で構成された空間で、その紅は目を引いた。
「……あの可愛げはどこに行ったのじゃ」
「とっとと捨てた方が、面倒じゃなかったろう」
鮮やかな紅の髪の少女は、金色の瞳を半眼にして、ぶーたれた。
陶器の様な白い肌に、髪と同色の礼装がよく映える。
整った造作は、いっそ作り物めいていた。
面倒臭げに切り返したリアに、少女は眦を吊り上げ、人差し指を突き付けた。
「ヴィルヘルムの後を、子ガモの様について回っていた癖に、生意気なっ!」
「あの人を叩き出す前の話を蒸し返してどうする」
が、容姿そのものは美しいと言うのに、少女の振る舞いには、どことなく残念臭が漂っている。
それが疵物の神域に在るが故か、ヒトと積極的に関わる故か、はたまた、知識の仕入れ先を間違えた古竜達の影響故かは、いまいち不明だ。
どこまでも静謐な夢幻の中で、リアは相変わらずだと、故郷を支える地神を眺めた。
「——で、わざわざひとの夢に紛れ込んで、何の用だ?」
「もう少し妾を敬わぬかっ!」
つれないリアの態度に、地神は頬を膨らませる。
やたらと人間臭い地神の仕草は、畏怖やら敬意やらとは縁遠い。
「妾の巫女姫の様子を見に来て、何が悪いのじゃ。 それに、大陸をまたいだ時の妾とお主とのつながりがどうなるかの確認なのじゃ」
「紅姫」
僅かに眉を寄せたリアに、地神――紅姫は胸を張る。
「お主は確かにエリザベスの《王鞘》よ。 だが、お主の本分は巫覡であろう。 お主には約定通り力をくれてやったのだから、もっと妾を称えるのじゃっ!」
「あー、紅姫はすごいな」
「棒読みではないかっ!!」
リアはちゃんと褒めたというのに、紅姫は地団太を踏む。
アヴァロンの妖精王やシルワの巨狼の様に、ヒトと共存する地神は何柱か存在するが、疵物の神域に座す紅姫は、その中でも一番若くてポンコツだ。
地神は、己の領域内では全能と言ってもよいのに、紅姫の力の行使には様々な制約が伴う。
紅姫が当たり前の地神であったのなら、故郷は『星無時』を知らずに済んだろうに。
……ついでに言うなら、『暴食鬼(己の使徒)』に非常食扱いされたのは紅姫くらいだろう。
ぷりぷりと怒る紅姫に視線を向けながら、リアは頬杖をついた。
地神としてのへっぽこぶりに少々思うところもあるが、リアは別に、紅姫のことは嫌いではなかった。
——産んだ女からは憎悪を、種を付けた男からは無関心を与えられたリアに、生まれて初めての寿ぎを贈ったのは、主君でも兄でもなく、紅姫だ。
また、《王鞘》としての才に乏しかったリアに、力を与えたのも紅姫で。
出来ないことが多い地神であっても、不思議と、恥などとは思わなかった。
それに、アレクサンドリアの神域の疵は、紅姫の前の地神が討たれた時に刻まれたもので、紅姫には何の落ち度もないのである。
紅姫が、酷く真面目な顔をする。
「――して、リアよ、妾に言うことがあるじゃろう」
「何も」
そもそも、紅姫はリアと知識を共有しているため、わざわざ報告する必要は大して無い。
まあ、知識を共有していると言っても、リアと紅姫では捉え方が異なってくる故に、その辺りを指摘するぐらいか。
「あるではないかっ! 恋バナはどうしたのじゃ、恋バナはっ!!」
「は?」
くわっと目を見開き叫ぶ紅姫の言葉を、リアは一瞬理解し損ねた。
……コイバナ。
恋バナ。
恋愛話の事か。
思わず、リアは己の地神に、ひたすらに残念なものを見る目を向けてしまった。
一体、誰の恋愛話をしろと言うのか。
リアが故郷を離れているのは戦を回避する為で、恋愛話を収集する為ではない。
……紅姫は、人様の妄想が大好きな白姫に、毒され過ぎではなかろうか?
「何じゃ、その目はっ! お主だって、仮想敵国の将軍といちゃこらしているそうではないかっ!!!」
「ああ、レーゲン将軍か」
別に、いちゃこらは、していない。
「種馬とのまぐわい無しに、子は生せないだろう」
「……おぬし……」
紅姫は、リアへとてもとても可哀想なものを見る目を向けた。
リアには、同情されるべきものなど、何もないのだが。
「——妾の期待を返さぬかっ! お主だったら、まともに恋愛が出来ると思っていたのじゃぞっ!!!」
「知るものか」
紅姫の勝手な言い分を、リアは切って捨てる。
「――くっ、妾だって、たまには、……たまには、愛と勇気と希望が溢れた爽やかで甘酸っぱい青春を見てみたいのじゃっ!」
「憎悪と狂気と諦観に塗れたどろどろの苦い死に際で妥協しておけ」
涙を拭いつつ、地面に崩れ落ちる紅姫に、リアは真面目に対応するのが面倒になってきた。
そもそも、執念深さに定評のあるウェインの血統に、爽やかさや甘酸っぱさを求めるのは無理がある。
浄化しきれなかった澱のせいで、紅姫は頭に不具合でも起こったのだろうか?
と、雑念が混じり、リアの気が少し散る。
不意に大きな優しい手をリアが思い出したのは、自分で思っていたよりも、慣れてしまったせいだろう。
紅姫の妄想のきっかけの一つには、共有したものもあったのかもしれない。
だが、リアはもう、己の使い道を決めていて、自分に対する誓いを破る気はないのだ。
「私が選んだのは、我が君と私の子供だ。 他の何かを、それ以上に優先する気はない」
頑ななリアの宣言を聞き、紅姫の面に淡い翳りが過る。
不完全な地神に、変わることを願われていたのは、知っていた。
「……それでも、それはお主が幸せを求めぬ理由にはならぬだろう」
声に込められているのは、無償の慈愛だ。
世界の無情さを、ヒトの醜怪さを多く見て尚、疵物の神域の地神は、己に見える世界を愛おしむことを捨てはしない。
地神の在り様に眩しさを感じ、リアは微かに目を伏せた。
——いのよ。
過去から、別の声が木霊する。
「それでも、私は、あいつを選ぶ気はない」
——望んでは駄目。
――求めては駄目。
神書は謳う。
リアの主君の口を借りて。
だって、
貴女は
――喪わなくては、何も、得られないもの。
リアは、主君も己の子も、どちらもとると決めたのだ。
無駄に欲をかいて、全てを台無しになど、したくは無い。
だから、紅姫が哀しい顔をしようとも、折れる気はない。
大事なものを喪うことで、楽園に行けると言うのなら、地獄の底の方が遥かにましだ。




