第10章 祝杯と告白 ― 大切な人の意味と失感情症 ―(後編)
― 大切な人の名前を呼ぶ ―
海の見える公園。
波の音が、遠くでさざめいている。
「なぁ、環。」
「はい。」
柊は足を止め、環の方を向いた。
「環はもう、1人じゃないからな。俺もいるし、凪もいる。
……俺は、環を1人にしない。ずっと隣にいる。」
「隣に……?」
「そうだ。環と一緒にいたいんだ。これからもずっと。」
「柊先輩……」
「ん?」
「私、わかりました。
“大切な人”って、どういうことか。
私も柊先輩とずっと一緒にいたいって思いました。
それは、凪くんと一緒にいたいのとは、少し違ってて……。
柊先輩は……」
「うん。」
「柊先輩は、私の大切な人です。
“大切”は“好き”ってことです。
私、柊先輩が好きです。」
柊は少し目を見開き、それから笑った。
「環、俺も環が好きだよ。
凪の“好き”とは違う、“好き”だ。」
そう言って、そっと環を抱き寄せた。
「柊……先輩?」
「うん?」
「名前は特別だから……大切な人は名前で呼びます。
……柊。」
「え?」
「柊。」
柊は少し照れながら笑った。
「環、ありがとう。」
「はい。柊……柊って、いい名前ですね。
柊にぴったりです。見た目も中身もカッコイイ。
あ、たぶん私、柊のこと……ずっと好きでした。」
「そうか……。俺も、ずっと環を好きだったよ。」
環は胸に手を当てた。
「“好き”って、胸のここがぽかぽかしますね。
私、柊に“環”って呼ばれるたび、胸がぽかぽかするんです。
たぶん、ずっと“好き”をもらってたんですね。」
「いいな……その言葉。」
「はい。私、柊に“好き”をいっぱいあげられるでしょうか?」
「もうもらってるよ。環が話してくれるたびに。」
「じゃあ、これからもたくさん話しますね。」
「うん。」
柊は、環の額にそっとキスを落とした。
環は驚き、そしてぎゅっと彼の胸にしがみついた。
柊はその小さな身体を、やさしく包み込む。
夜風がふたりの髪をなでていく。
遠く、海の向こうに街の灯が揺れていた。
◇◇◇
その瞬間、歩道の影でスマートフォンのレンズが微かに光った。
ふたりは気づかない。
夜だけが、すべてを見ていた。
ご読了ありがとうございました。
第1章から少しずつ歩いてきた環が、
ついに“感情を言葉にできる人”へと成長しました。
「大切」と「好き」の違い、
そして“名前を呼ぶ”という行為の意味。
彼女の中でそれがひとつに重なったとき、
物語は新しい光を帯びていきます。
ですが――夜の影は、まだ静かに動いています。
次章では、その影が再び二人の前に姿を現します。




