第9章 初受注先トラブル ― 凪の領域 ―
初めての大きな案件は、いつだって緊張と不安で満ちている。
それでも、信じ合える仲間がいれば、どんなトラブルも怖くない。
今回は、アークシステムズの3人が本当の意味で“チーム”になる瞬間。
凪の真剣な姿と、環・柊の信頼のやり取りを、ぜひ感じてください。
アークシステムズが創業してから、ようやく掴んだ初の大型案件。
クライアントは国内でも名の知れた医療関連企業。
本番稼働初日、社内には静かな緊張感が漂っていた。
環は資料の最終確認を終え、報告書をまとめて柊のデスクへ向かう。
柊はいつも通り冷静で、凪はモニターに向かってにこにこと作業している。
「柊先輩、データ連携順調ですよ。エラーもなし。今日は平和そうですね!」
「凪、油断すると足元すくわれるから気を抜くなよ。」
「はーい!」
そんなやり取りが数分続いた、そのとき――
突然、凪の前のモニターに赤い警告ウィンドウが点滅した。
「……あれ? え、ちょっと待ってください、これ……」
一瞬で、彼の表情から笑みが消えた。
「通信タイムアウト発生。サーバー側の応答が止まりました。」
「なに?」
柊が椅子を引き、凪の隣へすぐに立つ。
環も慌てて画面を覗き込んだ。
「バックアップは?」
「取ってます。でもこれ、本番環境ごと落ちてる。データ同期が中断されてます。」
「原因は?」
「……調べます。」
凪の声が一段低くなった。
その瞬間、空気が変わった。
いつもの“仔犬のような凪”が、一瞬で消える。
キーボードの上に置かれた彼の指が、まるで別人のように走り出した。
──パチパチパチパチパチッ。
打鍵の音が弾丸のように響く。
指が画面の光を切り裂くように動く。
環は思わず息を止めて見入っていた。
凪の瞳は完全にモニターに吸い込まれている。
視線の動き、呼吸、姿勢――すべてが一つのリズムを刻む。
その世界に、誰も入り込めない。
柊が低く指示を出す。
「凪、メインサーバーのログを洗え。原因はDB接続だ。環、クライアント側の報告ログをまとめて。」
「了解。」
環も即座に動いた。
いつもの穏やかさは消え、チーム全体が一点集中に入る。
数十秒後、凪の指が一瞬止まる。
「……いました。」
「原因、特定?」
「はい。同期バッチの設定ファイル内、文字コードの崩れです。
しかも自動再送ループが回ってる。DBが悲鳴あげてます。」
「止められるか?」
「はい。ただし強制停止するとデータ欠損リスクあり。
バックアップから部分リカバリ、タイムスタンプで補正します。」
「任せた。」
凪は軽く頷き、再び指を走らせた。
打鍵音がさらに速くなる。
呼吸が浅く、一定。
口元は真一文字に結ばれ、まるで戦場の指揮官のようだ。
環は、横顔を見て思った。
「……これが、凪くんの領域……」
モニターに無数の文字列が流れる。
凪の声が淡々と続く。
「メモリ確保……再接続、再送パケット破棄、差分補填……完了。
DB整合性チェック……グリーン。」
ピッ。
アラート音が消えた。
「システム、完全復旧しました。」
その瞬間、室内の時計の音が聞こえるほどの静寂。
柊が深く息をつき、軽く笑う。
「……見事だ、凪。」
凪は一瞬だけ照れたように笑い、背もたれに体を預けた。
「ふぅ……すみません、ちょっと熱くなっちゃいました。
僕、こういうのスイッチ入ると止まらなくて。」
柊真が腕を組みながら見ていた。
「いや、止める必要ない。お前、立派だった。完全にプロの顔だったな。」
「へへ……ありがとうございます。」
環が小さく拍手した。
「すごかったです……凪くん、まるで映画みたいでした!」
「え、そ、そうですか? 照れるなぁ……。」
普段の柔らかい笑顔に戻った凪。
さっきまでの緊張感が嘘のように、彼の周りの空気がふんわりと戻ってくる。
柊が腕を組み、環を見た。
「環、よくサポートした。判断が早かった。」
「いえ……柊先輩の指示がわかりやすかったので。」
柊真も静かに言う。
「お前たち、本当にいいチームだな。」
凪が椅子をくるりと回して言う。
「じゃあ、今日の夜は反省会って名のディナーですかね?」
柊が苦笑する。
「反省というより……祝杯だな。」
環は驚いて笑った。
「え? ディナーですか? 柊先輩のおごりですか?」
「ははは……もちろん。」
笑い声が重なる。
チームの中に、静かで温かい風が流れていた。
──その時、外のビルの屋上。
黒い服の男が双眼鏡を下ろし、携帯を取り出す。
画面には、笑い合う3人が写っていた。
男はその写真を見つめ、ゆっくりと口元を歪める。
「……環さん、そんな顔もするんだ。」
風に乗って、ほのかにシャネル・エゴイストの香りが漂った。
ご読了ありがとうございました。
トラブルの中で見せた凪の集中力、
そしてそれを支えた柊と環の連携。
この瞬間、3人の間に確かな“絆”が生まれました。
仕事を通じて築かれる信頼は、
言葉よりも深く、心を結びつけていきます。
そして――この信頼の延長線上に、
もうひとつの“想い”が静かに芽吹いていくのです。




