⑦さよならはOKサインで
さよならはOKサインで
ひょんな話から、朱音さんの誕生日がわかった。
八月生まれらしい。それも夏休み最後の八月三十一日。
「私はおとめ座で、美晴はおうし座だったから、きっと相性もよかったんだと思うわ」
「シオンくんもたしか……」
ふっと思い出してたずねてみた。
「ありがとう。覚えててくれて。あの子も、私と同じおとめ座だったの。生きてれば、さぞかし仲がよかったかもなんて思うのよ」
「朱音さん、誕生パーティやろうよ。ぼくがごはん作ってごちそうしてあげる。といっても、習ったものしか作れないけど……。夏の宿題の集大成ってことでどう?」
その時の朱音さんのうれしそうな顔を、ぼくは一生忘れないと思う。こんなことでも人を幸せにできるんだって初めて気がついた。
「夢みたい。祐くんにお祝いしてもらえるなんて、まるでシオンにお祝いしてもらってるのと同じよ」
ぼくが中学生になりたての春。
四月二十二日は、母さんの最後の誕生日だった。父さんもふだんより早く帰ってくれて、三人で食事した。
父さんは花束とケーキを買って、ぼくは母さんへ宛てたカードを手作りした。
「おめでとう」と乾杯したときの、母さんの満面の笑顔と朱音さんのそれが重なる。
でも朱音さんは、そんなささやかな家族の幸せも味わえずに、これまでひとりで誕生日を過ごしてきたんだ。
よし。母さんの誕生会の時みたいにやろう!
「ね、じゃあ、誕生会のこと、ぼくにまかせてくれる?」
「そりゃあ、うれしいにきまってるわ、でもね、祐くん……」
朱音さんは、ふっと不安そうな顔つきになった。
「おとうさんを寂しくさせるようなことはしないでほしいの。きっと美晴とのことを思い出してしまうでしょう? それにね」
朱音さんは続けた。
「祐くんの母親がわりをさせてもらえるのはとても嬉しいの。だけど、それは……」
少しの間、口ごもるように下を向いた。
「それは……?」
「祐くんのお父さんと、私が結婚するという意味ではないのよ」
そうか。そういうハードルがあるのか……。
けれど、だからといって、誕生会をキャンセルする理由はまったくなかった。
「だいじょうぶ。それとお誕生会とは関係ないから。朱音さんは楽しみに待ってて」
ぼくは、ことさら明るくそう言った。
夜、ぼくは母さんに、朱音さんの誕生会の計画を話した。
母さんの手がOKをして拍手をする。大賛成だと言ってるようだ。
「だけどさ、父さんたら、近ごろやたらネガティブでさ」
ため息まじりでつぶやくと、母さんの手は、人差し指をくるくるまわして、パッと手のひらを開いてみせた。
「父さんがクルクルパーって? アハハハ」
思わず笑ってしまった。
母さんはむかしから、いやなこと、困ったことを笑い飛ばす名人だった。
決して悩まない。悔やまない。底抜けに明るい人だった。
笹村美晴は、ぼくにとってはただひとりの母さん。
父さんにとっては、ただひとりの妻。と同時に、人生をいっしょに歩む、かけがえのないパートナーだったはずだ。
長い間あたりまえのように、常にそばにあった光……なんの予兆もなく、それがある日とつぜん、永遠に消えてしまったら……。
父さんだって、きっと本当はぼくの倍以上に、母さんを思い出しているにちがいない。
「誕生会してもいいよね?」
ぼくは改めて、母さんにたずねる。
両手でOKのサイン。
―だいじょうぶ。朱音を喜ばせてあげて
母さんは、まちがいなくそう言っている。
ぼくは電話で、その計画を父さんに伝えた。
ひと夏、料理を教えてもらったお礼に、自分の手料理で誕生会をしてあげたいこと。
そして父さんにできるだけ、早く帰ってほしいとたのんだ。返事はもちろんイエスだった。
さて、どんなパーティにしようかな。
久しぶりに、心がワクワクしてくる。
いよいよ誕生会当日。
リビングのテーブルには、父さんと、少し緊張した面持ちの朱音さんが、お皿を運ぶぼくの手つきを心配そうに見ていた。
けれども、テーブルの上がすべて整った時、二人は口々にほめたたえてくれた。
「わあ、おいしそう。すごいわ、よくひとりで、こんなに作れたわね」
「相当、腕を上げたな。祐。びっくりだ」
コーンポタージュに、色とりどりの野菜サラダ。
熱々のドミグラスソースをかけた、焼きたてのハンバーグ。
簡単なメニューだけど、シェフ役のぼく自身、十分満足のいくできぐあいだった。
味付けも上々。ひとしきりほめられ、おいしく夕食を終えたあとは、ケーキとシャーベットのデザートタイムにした。
そのときに、ぼくは朱音さんに手作りのバースディカードをわたした。
夏休みのお礼とともに、できればこれからもいろいろ教えてほしいと、自筆でていねいに書いたカードだ。
うっすらと涙ぐみながら、うれしそうに何度もカードに目をやる朱音さん……。
「ありがとう。最高のお誕生日になったわ」
朱音さんが大事そうにカードをしまうのを待っていたように、父さんが立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ、父さんからの報告だ」
それは予想外のことだったので、ぼくも、朱音さんもいったい何事かと父さんの顔をながめるだけだった。
父さんはちょっと言いにくそうに、何度も咳払いをしていたが、思いきったように口を開いた。
「実はな、父さん、このまえの親戚のばあさんにどうしてもって勧められて、先週、見合いをしたんだ」
「ええっ?」
最悪のシナリオが心に思い浮かぶ。
すなわち、父さんは、ぼくの知らないだれかと再婚するということなのだろうか?
「だけど、すぐに断った」
はりつめた気持ちが、いっしゅんで抜けた。
「それでよかったんですか?」
朱音さんが、おそるおそるたずねる。
「朱音さん、ぼくは今はまだ、だれとも再婚する気はないんですよ。ただ……」
父さんは、ぼくの方に目を向けた。
「祐には、美晴の代わりになれるような人が必要だとずっと思ってきた。抵抗なく祐が甘えられて、抵抗なく祐を受け入れてもらえる人……そんな人を美晴がちゃんと連れてきてくれた」
父さんの視線が、ゆっくりと朱音さんにうつる。
「朱音さん、本当にありがとう。あなたは、うちの家族にとってご縁のある、大切な方だ。わたしはまだ美晴への気持ちの整理もついていないし、つける勇気もないけれど、あなたさえ迷惑にならなければ、この先もずっと、祐に関わっていってやってほしいのですが……」
朱音さんの口元がくしゃりとゆがんだ。
深くうなずく。
「私でよければ……」
父さんの顔に、おだやかな微笑みが広がった。
久しぶりだった。父さんの微笑む顔を見たのは……。
母さんがいなくなってから、ぼくはぼくの世界で、父さんは父さんの世界で、それぞれ苦しんでいた。
ぼくは父さんのことを考える余裕なんて、まったくなかったけれど、父さんは父さんなりに、ぼくのことをちゃんと考えてくれていたんだ。
「じゃあ、あらためて、朱音さん、誕生日おめでとう」
父さんが、テーブルの下に隠していた大きな花束を取り出した。
母さんも大好きだった白いカンパニュラの花が見える。
父さんが差し出す花束を、朱音さんが受けとろうとした瞬間だった。
二人の後ろで、母さんの手が拍手をしていた。
その手は、これまでになくキラキラときらめいていた。
―これでいいのよ。こうなってほしかったの
まるでそう言いたげに、手は軽やかに祝福を送っていた。
―祐
母さんがぼくを呼ぶ声が、心にはっきりと届く。
―さようなら
光を放つ両手の指で、OKサインを作ってみせた。
母さん、ずっとありがとう。
不思議と寂しくなかった。
これでいい。母さんは、ぼくの心にも、父さんの心にも、朱音さんの心にも、これからだってちゃんと生きていてくれる。
現実には、二度とは会えない母さんだけれど、今度こそ、その事実をきちんと受け入れることができそうだった。
OKの指がだんだんと形を崩していく。
そのたび、光の粒子が、あたりいちめんにこぼれ落ちていった。
最後の光が、ジュッと線香花火のような音をたてて消えていくまで、ぼくはじっと見守っていた。