19-エピローグ
その日は朝からよく晴れていた。初夏を思わせる雲ひとつない青空と、涼しくて過ごしやすい気温。そんな外の空気が入るように、窓を開け放ってある部屋があった。
その部屋の中にある物、絨毯や棚、置物は全て高級品だが、それらを見せ付けるような嫌味は全く感じさせない。その中で、デスクに座ってじっと目を閉じる一人の男がいた。その顔は静かで厳しく、まるで阿修羅像が目をつぶるとこんな顔になるのではないかと思わせる。
しかし、彼が着ている服を見れば仏教徒ではない事は明白だ。その服は黒の神父服で、そして羽織っている肩掛けの刺繍から、大神父の役職についていることが読み取れた。
普通ならば大神父になるのは早くても40歳。だがこの男はそんな歳には見えない。せいぜい20代後半といったところだ。
そして、彼の実年齢は25歳。見た目が実年齢よりも高いのは、滲み出す雰囲気と貫禄によるものだった。それは、今の地位をコネや買収などを使わずに実力で手に入れたことを暗に示している。
25歳で大神父。それは驚くべきというよりも、本来ありえない出世だった。
黙って座っていた彼が目を開ける。
それと同時に部屋のドアがノックされ、2人の男が入ってくる。
皺一つない黒いスーツに身を包んだ男達は彼の正面に立ち
「蘇生班、警護班、報道班、会場班、指令班、全て異常ありません」
彼から見て左側の男が、そう報告をした。長めの髪をしっかりと整えていて、白衣を着ればどこかの研究員で通用する雰囲気を持っていた。
もう一人の男は、年齢不詳だった。身長は180センチを優に超え、全身の肉付きもいい。さらに坊主頭にサングラスと、特徴的な風貌をしていた。
この2人は、教会の特別警護の任務についている。決して表には出ないその部隊に何年も在籍し、なお第一線で働く彼等の名を、富谷と高部と言った。
富谷の報告を受けて、目を閉じている部屋の主はそうか、と短く答える。やがて大きく息をはきだし、深く背もたれに身体を預けた。
それを見て、直立不動だった2人の男達も少し姿勢を楽にする。
富谷は見て分かるほど。高部は見た目では分からないほど。
3人がそれぞれ、今日という日に特別な感情を抱いているようだった。
やがて、姿勢を崩した富谷が言う。
「いよいよ、今日だね」
それは決して高部に対して向けられた言葉ではなく、椅子に深く座り目を閉じている男に向かってかけられた言葉。先ほどは敬語で報告をした相手に、今度は躊躇う事なく普通の口調で話しかける。その口調の変化が、彼らの微妙な関係を示していた。
「そうですね。ここまで長かったのか短かったのか。今となってはよく分かりません」
そんな富谷の口調の変化に合わせるように、部屋の主も口調を改める。
「長い短いで言えば、間違いなく短かったと思うけど。何しろ教会としてはもっと長く眠らせておくつもりだったじゃないのかい?」
「ええ、彼女達は眠らせておくだけで大きなアドバンテージになりますから」
「それをわざわざ起こすのだから、君も物好きだね。もっとも、あの日の様子を見ていたからこうなる事は想像していたけど…。まさかこんな早くに実現させるとは思わなかったよ」
最後の一言は、素直な賛辞だった。
それは25歳という若さで大神父へと上り詰めるという奇跡と暴挙を成し遂げた事と、今日という日を今日というタイミングで迎えることができた彼への言葉。
「短いとはいえ、8年もかかってしまいました」
「8年しか、だよ。本当なら30年くらいはこのままのはずだったんだ」
8年前。
この国の教会は一つの大きなプロジェクトを行った。
通称「聖女計画」。全国より12人の女の子を選び出し、眠りに就かせるというその計画は、表向きには天がこの世界に遣わせた聖女たちを眠らせる事で一度大いなる主の下に帰し、この国の平和を願う、という事になっている。
だが、その計画の本当の目的は別にあった。
当時、国民は国を覆う暗い気配と、それを打破できない教会に不満を募らせていた。そんな不満を回避するのに、教会は国民に対する免罪符が必要だった。
聖女と呼ばれる12人の少女は、いわば人質だったのだ。
まだ若い少女を眠りに就かせる事に、国民は心のどこかに抵抗があった。それは聖女に対する負い目となり、やがて教会に対する負い目となった。負い目のある相手に、強くは出られない。
「教会は聖女を確保して神の元へ遣わせております」
「若い女の子をコールドスリープにかけて眠らせております」
「それは酷くないか?―いえいえ、全ては民を導くため。彼女達が犠牲となっているのは、あなた方のせいなのです」
という教会の言い分のための、人質。
だから教会は、彼女たちを起こす必要は全くなかった。
そんな聖女達を今日、眠りから覚まさせるという。
教会側にすれば何の得もないその行動を起こさせた仕掛け人こそ、若干25歳で大神父へと上り詰めた彼だった。
「だけど、まさか本当に聖女を起こさせるとはね」という富谷の言葉に
「きっと司教の誰かが、私と同じ意見だったのでしょう。決して私の力だけではありませんよ」部屋の主はそう答えた。
いくら彼が史上最年少で大神父になろうと、それだけで教会の計画を曲げられるはずもない。結局、もっと上の地位にいる誰かが計画の終了を決めたのだろう。たまたまそれが、彼が志す所と同じだったというだけの話。
「教会内には、君が司教を動かしたなんていう見方もあるけど」
これだけ大きな計画が、当初の予定よりずっと早く終わった。その計画の変更を、若干25歳の若者が仕組んだとしたら。
それは、一つの流れとなるだろう。彼は将来大物になる。そう考える者が、彼を後押しするのは想像に難しくない。
だが、一つの流れは周りに乱れを与える。別の流れとぶつかることもあるだろう。自らの意思をもって世界の厳しさを実感するように。そんな流れの中央に、彼がいる。それはどうしようも無い事実だ。
だが、
「そうですか。それならばそれすらも利用するまでです」
特に気負う様子もなく彼は言い切る。
乱れや抵抗など気にしない。抵抗なら叩く、後押しなら最大限に利用する。
そうやってここにたどり着いた彼は、これからもそのスタンスを貫くと言い切った。その言葉には、もうすでに貫禄がついている。
「君は教会内部の権力争いを知らないからそんな平気な顔をしていられるんだよ。そうだね、来年の今も同じ事を言えたなら、その時は君に対する口調を改めさせてもらうよ」
そうは言うが、富谷はわかっていた。彼ならどんな権力争いに巻き込まれても、自分を貫けるだろう。
そして、なぜ彼がここまでの、年齢不相応の強さを身に付けたのか。その過去を知る富谷だから、少しだけ心配だった。
25歳で大神父。その裏には、もちろん訳がある。
親や親戚が教会の関係者ならばコネを使えるが、彼の場合はそれも無かった。だから、彼は唯一の武器を最大限に利用した。
自分の友人が聖女と騎士であり、現在眠りに就いている。その事実こそが、彼が持つ唯一の武器だった。
その武器は強力だった。国民が教会に対して負い目を感じるのと同じ様に、教会の上層部は聖女に対して負い目を感じている。そうして教会の上層部に足掛かりを作り、彼は25歳で大神父になった。
彼と同期、もしくは先輩に当たる教会関係者の中には彼の出世を卑怯だと言う声もあった。「俺も友人に聖女と騎士がいれば今頃大神父だ」と。それを聞くたびに富谷は、表には出さないが強い怒りを感じた。例え友人が聖女と騎士でも、それは簡単な事ではない。
彼が今の地位にいるのは、紛れも無く実力によるものだ。大きな組織の中で、重要な事、重要な人。それを探り出し見極める才能が彼には備わっていた。
少しして、若き大神父は口を開いた。
「……8年前のあの日、2人に約束したんです。お前達が起きる時には、この世界を素晴らしい世界に変えてみせる。それが、この世界に残された俺に出来る事だからって。どうです、少しはいい世界になりましたかね?」
その約束が、彼にとって何よりも大切である事を富谷も高部も知っていた。
「たった8年で変わるほど、世界は軽くないと思うよ。だけど、そうだね。それでも少しはよくなったんじゃないかな?」
そう言って富谷は、今まで全く口を挟まなかった相方―高部を見る。
「…少なくとも、悪くはなっていないと思います」
姿勢を崩して楽にしている富谷に対して、高部は直立不動のまま答える。
「ですが、世界の変化なんて8年程度では分かりません。先ほど富谷が言ったとおり、世界は軽くありませんから」
高部がここまではっきり自分の意見を言うのは珍しい。そしてそれは、彼なりの励ましにも聞こえた。
「あなたは今日という日を迎えるのに全力を尽くしてきました。いや、全力以上の力を出してきていました。そんなあなたが作ってきたこの世界が、悪くなっているはずはありません。少なくとも自分の力の範囲で出来る事をやっているのですから、今はそれでいいじゃないですか。
それとも本当に8年程度で世界が変えられると思ったら、それは大きな間違いです。いくら最年少で大神父になったからといって、その程度では世界は変えられません。
世界を変えたいのなら、少なくとも大司教にはなってもらわないと」
大司教。それは、この国の教会のトップ。
「……大司教、か」
それもいいかもしれない。
自らの時間を犠牲にして、この国の為に―いや、教会のために眠りについてくれた彼らの為にも、大神父程度で足を止めるわけにはいかなかった。
そんなことを思いながら、机の上におかれた写真立てを見る。そこには2枚の写真が入っていた。
1枚は、中学の卒業式なのだろう。丸い筒を片手に4人の少年少女が校門前でそれぞれ泣き顔と笑顔を見せている。
そしてもう1枚、写っているのは少し大人になった4人の少年少女で、場所は教会の応接室だった。
時間も場所も違う2枚の写真。けれど、そこに写っている彼らの空気は、何も変わっていない。
それを見つめる彼の目に、優しい光がともる。
少し日が高くなってきたが、湿度は高くない。よく晴れてすごしやすい天気だ。
写真を見て物思いにふけっている彼と、それをやさしく見守る2人。それぞれがこの8年を思い返している沈黙は、机の上にある電話機の呼び出し音に破られた。電話をとる彼の顔は、すでに大神父のそれになっていた。
「はい。…………はい、分かりました」
短くそれだけ言うと受話器を置く。
もう一度写真を見て、大神父は椅子から立ち上がった。
「もう行きますか」
自然と敬語になる富谷に
「ああ、お呼びがかかった。そろそろ会場へ向かわねばなるまい」
自らの法衣に袖を通しそう答える。それ以外の準備は、この8年で済ませてきた。後は結果を見届けるだけ。
そうして、部屋を出て行こうとする彼の後ろに、自然と富谷と高部が並ぶ。
部屋の扉の前で一度だけ立ち止まって、大神父は振り向かずに
「そういえば、カメラは持ったか?」
とたずねる。
「もちろんです」
前を向いたままの彼に見えるはずは無いが、富谷は1台のカメラを取り出した。
それは、旧式と呼んでも差し支えないようなモデル。大きな傷は無いが、年季が入っている事をうかがわせる。
「もちろんちゃんと使えますよ、8年前のようにね」
それを聞いて小さく頷くと、25歳になった白沢は扉を開ける。
「それじゃあ、2人を迎えに行きましょう」
彼のその言葉で、3人は歩き始める。
今日は聖女を眠りから覚まさせる日。
そして、白沢にとっては8年振りに友達と再会する日。部屋を出て歩き出したその背中を見て、富谷は思う。
目を覚ました聖女と騎士を前に、彼が一体なんと言うのか。
豪華なベッドの上で目を覚ます沢西と藤川。
そのすぐそばで、彼は目が覚めるのを待っている。きっと頭の中では最初にかけるべき言葉が用意されているはずだ。
だが、実際に騎士や聖女が目を覚ますと、そんな言葉は出てこないだろう。8年ぶりの再会、そこには言葉が入り込む余地など無い。その瞬間は、25歳となってしまった彼も17歳に戻るだろう。
目に涙を浮かべ、無事を喜ぶ白沢の姿を想像して、内ポケットの中のカメラにそっと手をやる。
8年の月日を越えて今日、このカメラにはどんな絵が残るのだろうか。
どんなものかは想像も出来ないけれど、それは絶対に幸せなものになる。
そんな確信を持って、富谷も歩き出した。
これで、この物語はお終いです。
この物語は私自身にとって、特別なものです。
最初にも書いた通り、ある映画に対する私からの『回答』でもありますし、この物語を書いている時に、書くことの難しさと面白さを感じることができました。
作中のセリフではないのですが、改めて読み直してみると「本当に公開してもよかったのか?」と思ってしまう箇所もたくさんあります。
その後悔は、次の物語の糧にしたいと思います。
最後になりましたが、最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。