18-そうして、僕たちは
沢西は、教会の屋上にいた。
教会の屋上から見下ろす街は夕焼けに照らされ、綺麗だった。沢西にとって重大な日でも、世界はいつもと変わらず一日を終わらせようとしている。
何かが終わろうとしている様子はとても美しい。目の前に広がる風景も、一瞬だけ光る花火も、風に舞う桜吹雪も。それならば、今の自分たちも美しいのだろうか。
彼女はそんなことを思いながら街を見ていた。
午前中に、眠りに就く12人の聖女全員が東京大聖教会に集められた。午後からは予定通り式典が行われ、テレビカメラは全国にリアルタイムでその様子を伝えた。
彼女たちは皆、今の自分がもう昨日までの自分ではない、本当に聖女となった事を実感していた。全員が今更ながら自分の選択の重さに驚き、同時に後悔していた。
式典の後、教会の最上階にある巨大な応接室に集められた彼女達に教会の人が「7時までは自由行動をして構わない」と言うと、一人、また一人と部屋を出て行った。
沢西が選んだ場所は、屋上だった。目の前に広がる夕日を見て、終わろうとしているものの美しさを考えてしまう自分にため息をつく。今はネガティブな考えしか浮かばない。
自分はもう覚悟を決めたはずだ。藤川と白沢の救いを断ったあの日に。
藤川は自分の本当の気持ちに気がついて、助けに来てくれた。そして、それを断った沢西に、聖女ではなく一人の人間として見ていると言ってくれた。それだけで、十分に奇跡と呼べる。
だが、彼女が眠りに就き、そして起きてからは、藤川もそんな事は言えないだろう。何しろ、生きている時間が違うのだから。
何年先に目が覚めるのか分からない。けれど、その時藤川は自分より年上になっている。そんな、視覚化された時間の差を見せ付けられてまで、藤川は同じ対応は出来ない。いや、彼だけじゃない。今自分の周りにいる人は、今日までの接し方をしてくれないだろう。たとえそれが、沢西を傷つけると分かっていても。
起きた時にいる人はいい。けれど、もし。今日まで彼女が会っていた人が、いなくなっていたら。それは、考えただけで恐ろしい事だった。人は思っているよりも簡単な事で死んでしまう。
家に残っている家族。お母さん、過労で倒れたりしないかな。弟は、事故とか怪我とかしないかな。小笠原マキちゃん、白沢君。次会うときまで元気でいるかな。
そして、最後に藤川の事を考えようとする。けれど、出来なかった。どうしてか、もう会えないという気がした。
もし事故にあったら?もし病気をしたら?もし遠くに行ってしまったら?助けを断ったから、自分の事が嫌いになっていたら―。
夕焼けのまぶしさから目をそむけることなく、まっすぐ見つめる。ビルの谷間の鮮やかな橙色がゆがむ。知らずに握り締めていた柵から手を離し、涙をぬぐう。
それでも夕日を睨むのをやめない。まぶしさで目がくらみ、視界が濃いオレンジにそまる。
構わない、これから自分は眠りに就くのだから。夢の中でこの綺麗な景色を思い出せるのなら。この目の痛いほどの現実が思い出せるのなら―。
その時、キィ、と屋上の扉が開く音が聞こえた。
僕と白沢と小笠原、3人が高部さんの運転する車で教会についたのは、式典が終わった後だった。
昨日の夜、僕は家族に騎士になる事を伝えた。
僕以外にも、それぞれ聖女一人に一人ずつ騎士がいると、教会に向かう車の中で富谷さんに教えられた。
「俺と小笠原は待っているから、お前は沢西と話しをしてこい」と白沢に言われて、僕は沢西を探していた。
応接室にも、休憩所にも、聖堂にも、沢西の姿は無かった。すれ違う教会の人に聞いても、誰一人として彼女の居場所を知らなかった。
僕は一秒でも早く彼女に会いたかった。会って伝えたかった。もう一人で泣かせない。僕が一緒に眠ることを許してくれるか。そして、喜んでくれるか。
最後に着いたのは屋上だった。キィ、という軽い音を立てながらドアを開くと、眼下の街も頭上の空も夕日に彩られて、空の端には夜の藍色が見えた。そんな景色にまるで立ち向かうように、街を見つめる一つの影があった。僕には一目で沢西だと分かった。
かける言葉を思いつかないまま、まるで吸い寄せられるように足だけが勝手に動いた。言いたい事はたくさんあるけれど何を言ったらいいのか分からなかった。それでも、沢西の傍に行きたかった。
そうして少し離れた所まで近づいたとき、沢西は涙を拭ってから「もう、時間ですか?」と振り向いた。きっと僕を教会の関係者と勘違いしたのだろう。逆光だったけれど、僕には彼女の目が赤く潤んでいるのが分かったし、その声は無理に明るく振舞っているとわかった。そして、その様子がたまらなく辛かった。聖女になって眠るのが怖いと思っているのに、それを決して表に出そうとしない。いくら仕事で、家族のためだと言っても、沢西自身がそれを望んでいない事がはっきりわかった。
それをどうして他の人は分からないのか、それが僕には分からなかった。きっと、それが分かるから僕は騎士になれたのだろう。
もう一度声が聞けるとは思わなかった。また会えるとは思わなかった。そして、これからは、一緒だ―。
そんな言いたいことを、何一つ言えずに僕が最初に言った言葉は
「ここに、いたんだな」
それで沢西は、目の前にいるのが僕だと分かったようだ。その表情が固まり、顔には驚きと―そして拒絶の色が浮かぶ。そうして彼女は、
「……何しに、来たの?」
感情を押し殺した、低く冷たい声でそう言った。
その声は、沢西自身が驚くほど冷たい声になった。沢西はこの時、嬉しさと怒りを同時に感じていた。
藤川は助けてくれると言った。その誘いを断るのにどれだけの覚悟が必要だったか。それを断った後、どれだけの後悔が自分を襲ったか。今また藤川に「ここから逃げよう」と言われたら、今の自分はそれを断れるのか、沢西は分からなかった。藤川に会いたくて、同時に会いたくはなかった。彼女にできる事は、自分の中で荒れ狂う感情に耐えることだけだった。藤川には何も言ってほしくはなかった。
二人の距離はそのままで、ゆっくりと藤川が、まるで何かを確認するように語りだす。
「俺は、嫌だったんだよ。誰かの犠牲の上に成り立つ平和が。そもそもこの教会の計画では、平和なんて訪れない。この計画で救われるのは、教会だけだ。だから沢西が聖女なんて役目を引き受けなくてもいいと思っていた。
けれどあの日、沢西は自分の意思で聖女になるって言ったよな。俺には自分で決めた道を変えさせるなんて出来なかった」
そこで藤川は少し寂しそうに笑った。
「昨日、白沢から連絡があってさ。騎士にならないかって言われた。
騎士っていうのは、眠りについた後の聖女の護衛者なんだ。だから聖女と一緒に眠りに就いて、聖女と一緒に目覚める。白沢は俺にその騎士を勧めるんだ。沢西の騎士にはお前が一番相応しいって。
俺、その時考えてみたんだ。自分が本当にしたかった事は何なのか。何のために教会の計画を邪魔するなんて事を考えていたのか」
そうして、藤川は一歩、沢西へ近づく。その顔にはもう笑みは浮かんでいない。決意を決めた、一人の大人の顔だった。
「誰かの上に成り立つ平和が嫌だ。これは本心だ。そして、沢西を犠牲に成り立つ平和なんて、俺にとっては無意味だったんだ。お前が眠りに就かないと得られない平和には、価値なんて無いよ。たとえ会えなくても、この世界のどこかでお前が生きている。俺は、そんな世界にいたいんだ。それでもお前は自分の意思で聖女になるって決めた。それは誰にも曲げられないと思う。
だから、お前が決めたように、俺も決めた。これから先、俺が沢西を守るよ。だから許して欲しい。俺が、騎士となってこれから先共に眠りに就く事を」
沢西は戸惑っていた。騎士なんて役目は初めて聞いた。藤川がその騎士になり、自分と共に眠るという。
沢西は目を逸らしながら「それはだめだよ。藤川君はこっちの世界で生きて」そう言った。その声は小さく震えていた。
藤川はまた一歩、沢西に近づく。沢西は目を逸らしたまま、それでも藤川の視線を感じていた。
「藤川君も、私と一緒に眠るなんて―」そんな事はだめ、と言いたかった。
けれどそれは、藤川の「沢西」という一言にさえぎられる。
思わず顔を正面に向けると、目の前に藤川は立っていた。
「俺は、沢西と同じように自分の意思で騎士になるって決めたんだ。それを否定するのなら、しっかりと俺の目を見て言ってくれ」
沢西もそうしようと思った。藤川の顔を見て息を吸い口を開いて、だが言葉は出なかった。
そこで気がつく。自分はどうしようもなく、藤川と一緒にいたいのだ。
でも、それはさせてはいけないと思う。彼が大切ならば、なおさら自分と一緒に眠らせるなんてことはできない。藤川には、こちらの世界で生きていて欲しい。生きて、自分の分まで幸せになって欲しい。自分の望んだ道を、時々悩みながらも歩き続けて欲しい。彼だけが持つ優しさで、周りの人を幸せにして欲しい。そうして大人になって、誰か素敵な人を見つけて、穏やかで幸せな家族を持って欲しい。
だけど。こう考えずにはいられない。時々悩みながら歩く藤川のすぐそばに自分がいられたら、それはどんなに素敵なことだろうかと。
また一歩、藤川は沢西に近づく。お互い見つめあったまま、やはり沢西は何もいえなかった。藤川の目は、中学時代の雨の日と同じように優しくて、でも強い意志を秘めている。
それで沢西は悟った。自分がここで騎士になるなと言っても、藤川は聞かないだろう。自分が聖女を止めないのと同じように。
藤川と一緒に眠りに就く。つまり、自分が起きたときに藤川は必ず今のまま傍にいてくれる。それを実感したとき、沢西の目からとめどなく涙がこぼれる。沢西は聖女になると決まってからたくさんの涙を流したが、それとは全く違う涙だった。
うつむき、嗚咽を漏らす沢西を、そっと藤川が抱きしめる。こうすると沢西は聖女なんかではなく、家族思いの一人の少女だった。その彼女は今日この瞬間までにどれほどの孤独や不安、絶望を味わったのだろう。それを全てこの小さな肩が耐えてきたと思うと、藤川は腕の中の存在がいとおしかった。
そして彼は思う。何もできないと思っていた自分でも、彼女の不安を取り除く事はできた。そんな自分を、誇っていこう。こうして自分を頼りにして涙を流している彼女の為にも。