1メートルと目標宣言
「うーん、面白い小説ってなんだろう。」
お助けの部室、ノートを目の前にして巧が悶々とつぶやく。今まで小説は、原稿用紙に書いていたが、下書きだけならノートの方が持ち運びやすいし、メモも取りやすい。
「さあ、人にもよりますよね」隣で依頼人を待つ猫実さんはアイデア帳をパラパラとめくっている。猫実さんが中学生時代から積み上げてきた努力の結晶だ。面白そうなテーマが山ほど詰まっている。しかし、まだ小説という形には至っていない。
「そうなんだよなあ、夜桜先輩ってどうなのが好きなんだろう。知ってます?」
「、、、あれ?どんなのが好きなんでしたっけ。」
「猫実さんって、夜桜先輩と付き合い長いんじゃなかったっけ?」
「はい、中学生の時からです。でも好みとかはあんまり、語らない感じでしたね」
「ヒントなしか、余計難しいですね」
「直接、聞いてみたらどうですか」
「うっ、それはちょっと、、、」夜桜先輩は苦手だ。巧は急にうろたえる。
「えっ、嫌ですか」
「猫実さんも一緒に来てくれればいいですけど」
「私は巧さんのお母さんじゃありません」
「だって夜桜先輩ちょっと怖いんですもん」
「大丈夫ですよ!ついでに、目標宣言したらどうですか」
「はあ」
あの日から猫実さんとはもっと上手くやってる。一歩踏み出して良かったってことだ。ただし、まだやるべきことは残ってる。夜桜先輩に「面白い」と言わせる小説を書くこと、それが僕たちの目標だ。
「さあ!」猫実さんがこっちを熱い目で見てくる。
「いや『さあ!』って何ですか、もしかして今行けっていうことですか?」
「今以外にいつ行くんですかっ!後回しにしてもいいことないでしょうが」
「じゃあ猫実さんも来て、、、」
「私はお客さんが来るのを見てないといけないんでダメです。さあ早く行ったいったあ!」
「はい、、、。」
という経緯で今、文藝部のドアの前に巧はいる。文藝部の唯一の部員にして創設者の夜桜かおるの牙城だ。古ぼけた地下部室棟の廊下で、わずかに光るような白いドアは不思議な緊張感をまとっていて、開けるのにやや勇気がいる。
深呼吸する。大丈夫だ、夜桜先輩は話せばわかる人だから、そう自分に言い聞かせる。そしてドアをノックした。
待つ。ドア越しの声は、難聴のため聞こえない。その制約がさらに心臓の鼓動を加速させる。さっきまで猫実さんとペラペラ話せたのは一対一で、近くにいたからだ。まあ、不便だよなあ。軽く人生で、幾度目かの不満を愚痴る。
ドアが開いた。見覚えのある、いや一度見たら忘れない顔だ。漆黒の髪に、美しく整ったパーツ。美人だ。
「返事してもすぐ入ってこなかったら君だね。」夜桜先輩はニコリと微笑んで巧を部室に招き入れた。
部室の中はお助け部の部室をそのまま縮小したような配置だっだ。すなわち、部屋の真ん中に机と椅子が四ずつ集まって島を作っている。夜桜先輩はそこに座って小説を書いているんだろう。それらしきノートパソコンが開いたまま置いてある。黒を基調としてピンクのラインがオシャレに入ったデザインだ。その薄さから、最新型のものであることがうかがえる。
「かっこいいパソコンですね」とりあえずご機嫌を取ろうとした。
「ああ、ありがとう」運動部の男子顔負けの爽やかさで返されてしまった。
「それでいつまでそこに突っ立ってるつもりなの?」夜桜先輩はとっくにノートパソコンの前に着いている。
巧もいそいそと夜桜先輩の前に座る。顔に美人特有の引力があって視線が惹きつけられる。化粧とかしているのだろうか。女性の化粧についての知識が全くない巧には違いがよくわからない。これで化粧してないというのなら、本気を出せばもっと美人になるっていうことだよなあ。もっと美人になるとはどういうことだ?美人というのはパーツの個々の美しさで決まるものだろうか?化粧とは顔のパーツを整える行為なのか?
「どうしたの?不思議そうに人の顔を眺めて」
「あいや、何でもありません」急いで夜桜先輩から目をそらす。
「何でもないってどういうことだ」ビクリと体が震える。顔を見てなくても鋭い目で睨まれてることがわかる。
「私たちの間に嘘があってもいいということか?」
もう怖くて泣きそうになる。ここはもうホントのことを言うしかない。何気ないことでつまずいている場合じゃない。
「夜桜先輩は綺麗だなあっ!」
「お世辞か。」
「って考えてました。」
空気が凍りつく。夜桜先輩は何にも言わずにこっちを睨んでくる。巧は引きつった笑顔を浮かべる。沈黙。なんか耳の悪い自分にもノートパソコンのウィーンという音が聞こえてくるような気がしてきた。
夜桜先輩の視線が痛い。もしノートパソコンがなかったら、直接この視線を受けることになっていたと思うとゾッとする。目をそらしていろんなところを見ようとするけど、二人が座っている机と椅子以外に物がない。
「別にこのままいてくれてもいいけど、なんか用があってきたんじゃないのかい」
そういえば当然の疑問だ。
「はい」やっと、とっかかりが出来たので巧は少し安心した。
「あのですね、猫実さんのことを聞きました。」
彼女は小説を書けない。しかしそれは「今」の話だ。苦手を克服して書けるように頑張っている。
「ああ、喧嘩したらしいね」
夜桜先輩がニヤリと笑う。美人だから単に微笑んでいるように見えるけど断じてそうではない。
「もう仲直りしたんで大丈夫ですっ!」
夜桜先輩の情報の速さに驚きながらも弁解する。。猫実さんが報告したんだろうなあ。お母さんに今日の出来事を報告する様に先輩にそうしてるんだろう。
「それでですね、僕も先輩が卒業するまでに面白い小説を書くんで、待ってて下さい。」
すると夜桜先輩は嬉しそうな顔をした。思わず見とれてしまう。先輩を喜ばせることが嬉しくて頭の中でバンザイをする。
「なるほど、じゃあ君はその目標宣言をしにきたんだね。」
こくりと頷く。
「それで、なんか先輩の小説の好みとかをいろいろ聞きたくて、、、」尻すぼみになってしまった。なんか質問するのが申し訳ない。
「なるほどなあ」
夜桜先輩は腕を組んで考える。顎に当てられた手ははっとするほどに白い。その姿さえも凛々しくて目が離せなくなる。先輩がこんな風に見えてるのは自分だけなのではないか。そう錯覚させられるほどに挙動の一つ一つが美しく思えてしまう。
「うーんと、やっぱり小説は全部好きかな」
なるほどこれは、いいぞ。どんなものを書いても夜桜先輩の好みだ。いや待て、これって実質ノーヒントじゃないか?どんなものも彼女の前では同価値なのだから。
「ほんとに全部好きなんですか?」
夜桜先輩お得意の意地悪の可能性があるので念のために聞き直す。巧も前よりかは対応ができるようになっているはずである。
「本当だ、さっき、嘘は良くないって言ったじゃないか」
きっぱりと切り捨てられた。思わず「ごめんなさい」と謝ってしまう。やっぱり実力で勝負するしかない。巧は楽をしようとした自分が恥ずかしく思った。そして、一刻も早くノートの前で小説に取り組みたいと思った。
「じゃあ、用も済んだのでそろそろお助け部に戻ります。猫実さんを待たせてるんで」
「うん、頑張れ」
「はい!」夜桜先輩の笑顔に射抜かれて巧はつい力んでしまった。
出て行こうとしたら声をかけられた。夜桜先輩の低く響く麗しい声だけが聞こえる。急いで席に戻る。
「すいません、離れると良く聞き取れないんで」
夜桜先輩はきょとんとした顔をする。また申し分けなくなってしまい下を向く。机の上の木目の模様が心のモヤモヤを映し出しているようだ。
「どのくらい離れると聞こえないの?」
耳の悪いことを責めるのでなく、ただそれを受け入れてくれる優しさのようなものを感じた。
「1メートルぐらいですかね、それ以上離れるとちょっと自信ないです。」
本当はちょっとどころじゃない。普通に話す声だと音しか聞こえない。なんて言っているのかわからない洋楽を聴くような感じだ。音は聞こえるが、意味はわからない。
「ちょっとこっち向いて」鋭く空気を切り裂くように夜桜先輩は言った。
巧は反射的に前を見る。すると先輩こちらの方にの方に身を乗り出してきた。気がついた時には左の耳に温かいものが触れていた。
夜桜先輩の手だ。驚きで声を失う。
「だいたい人間の腕の長さが1メートルだからこの距離ならいいはずだ。」
耳の裏をさらさらと指で撫でられる。ほおに手のひらがあたる。しっとりとして柔らかい。頭の中が真っ白になって何も考えられなくなる。まるで耳が電源を切るスイッチであったかのように静かに働きを失っていった。ただ夜桜先輩の顔を見ているだけの何かになったような気がした。
夜桜先輩の方は巧の耳に注目しているようで視線が合うことはない。顔を触られているだけなのに全身の意識がそこに集中する。
薄っすらと笑みを浮かべられた唇がまた開かれる。
「今までちょっと無理してたみたいだね。」 語りかけるように夜桜先輩は言った。
あまりにも抽象的な言葉だった。何かいい返さなくてはと思ったが思い浮かぶ全て、優しくその言葉に飲み込まれていく。やがて何も言わなくていいのだと理解するようになった。撫でられた耳が温められるに従って心の冷たかったところも緩やかにほぐされていくようだった。こわばった身体が安心感に包まれて、力が抜ける。
「泣いてるの?」
目頭に先輩の親指がそっと乗せられる。暖かい。指摘されて初めて、自分が泣いていることに気がついた。意識した途端に涙が流れてきた。
声も出ずにただ涙が頬を流れ落ちるだけだ。自分の身体にこういう風に泣く機能があることを初めて知った。
無遠慮に先輩の指を濡らし続ける。申し訳なさはもう、感じなくなっていた。許されている気がした。
先輩がどこからか取り出してきたハンカチで涙を拭いてくれる。なんの匂いでもなく、ただ先輩のいい香りがまた一つ安心感で巧を包んだ。
『今までちょっと無理してたみたいだね。』
先輩はさっきまで二人が話していた距離が1メートルより遠かった、ということを言いたかっただけかもしれない。
それでもその言葉はゆっくりと心の奥底まで歩み寄ってくるようだった。触れられた耳を通して。
必死に周りに合わせようと気を張り詰めていた。自分だけが聞こえなくて、周りだけが先に行った。いつからか背中を追いかけるのが当たり前になっていた。
先輩はそんな自分をわかってくれたような気がした。痛みを思い出させてくれたような気がした。
流れた涙は、悔しさと、惨めさと、幸せと、安心と、喜びと、恥ずかしさ、そして自分の弱さが混ざっていた。短い人生の全てを夜桜先輩に懸命に伝えようと絶えず流れ落ちていた。
「ほんとうにちょっと無理してたかもしれないです」やっと口から出た声は自分の声ではないような気がした。
「うん、そうでしょ」何事もなかったように夜桜先輩が言う。
ふわり、と手が放された。止まっていた時間が動き出すみたいだ。景色もはっきりしてきた。
「ありがとうございます」
心から思った。
「どういたしまして」眩しいほどの笑顔で先輩は受け止めてくれた。青空に輝く太陽のように、晴れた心は彼女によって照らされていた。
「私にはよくわからないけど、耳が悪いっていうのもなかなか可愛いと思うよ。」
難聴であることがそんな風に言われるとは。
「最後にね、言いたかったのは好みなんて関係ないってことだよ。」
「はい」先輩が注いでくれる愛をゆっくり噛みしめるように、頷いた。
「人生は限られてるからね、書きたいものを書くといいよ。あとね、君にしか書けないものを書くといいよ。」
たった一人のたった一言で人は救われるものなのだと思った。
愛と勇気を先輩がくれた。ふと手の中にあるそれらを見て気がついた。持ってなかったのではなく、そこにあることに気がついてなかっただけなのだと。目を凝らせばそこらじゅうにあった。思い出せば、今まで関わってきた人たちから、たくさんのものをもらってきた。
そう気がついただけで、目の前の世界が変わって見えた。
「失礼しました」文藝部を後にする。
涙の跡が消えるまでどこで時間を潰そうか。猫実さんは待っててくれるだろうか。




