エピローグ
2020年8月20日10時20分
捕虜となった人民連邦兵は日米陸軍退院から尋問をされても北部のほうにあると言う事以外は正確な位置を答えなかった事もあり、司令部探しは赤外線センサーなどを備える無人偵察攻撃機によって実施する事となる。
11時10分ごろ
対馬最北端上空を偵察中の空自所属のRQ-4J無人偵察攻撃機が人民連邦軍の特殊潜航艇と思しき潜水艇を発見。装備していたヘルファイアミサイルで攻撃を行うもこれに至近弾を与える。この攻撃により潜航艇は潜水が不能となる。この事を知らない人民連邦軍司令部は最北岸に移動を決定。
正午
対馬北部上空を飛行中の米空軍のRQ-7無人偵察攻撃機が携帯式地対空ミサイルにより撃墜され、米軍と自衛隊の関係者はその周辺に人民連邦軍司令部があると確信する。
午後1時、新田原基地
この基地では対馬北部の人民連邦司令部のあるであろうエリアに対して攻撃を行う6機のF-35A戦闘機が並んでいた。
『コントロールよりディフェンダー隊各機。これより離陸を許可する』
「了解、ディフェンダー1。これより離陸準備に移る」
ディフェンダー1こと俺、北川健二2等空佐はそう管制官に返す。
そして俺はいつも通り飛ぶ前にやること、そう自機に搭載されている装備(F-35ならウェポンベイに収容されている武装)の最終確認を行ってから、すでにエンジンの入った機体を滑走路まで移動させる。
搭載されている武装はノルウェー製の統合打撃ミサイルと言いこの戦いがこのミサイルにとって初陣である。
緊張するな、もしも今回の作戦でこのミサイルが着弾せずにミッションが失敗したら敵に反撃の機会を与える上に開発者に申し訳ない、それに導入の意味を問われる。俺はそう思いつつも機体を離陸体制に入らす。
「いくぞ!!」俺はそう叫ぶと次の瞬間、機体は一気に空へ舞い上がり、美しい青空が視界に入る。戦争中であるという事を除けばいつもの様な美しい大空だ。
俺はそう思いつつも任務に集中すべく、レーダー画面を睨む。
2時、レーダー警報装置も反応する事無く対馬の上空へたどり着いた。
南の端なのでもう陸さんと海さんが奪還しているはずだ。故にここからミサイルを発射し、離脱せよと上からは言われている。
JSMの速度はマッハ3、F-35には大きすぎて搭載出来ないF-2用に開発された対艦・対地・レーダー攻撃兼用のASM-3に比べて威力以外は遜色ないものだ。
「ディフェンダー1、マグナム!!」
俺がそう言うと対馬北岸にある人民連邦軍の司令部施設、その通信塔と思しき建物にJSMを放ったのである。
「ディフェンダー1よりベース。これよりRTBを申請したい」
俺がそう言うと管制官は『了解。RTBを受け入れる。なお新田原ではなく熊本空港へ着陸せよ。あのミサイルはASM-3ほどじゃないが重たい。燃料残量が心配だしな』と続き、俺は笑う。もっともこの作戦が終わったら熊本への帰還が命令されていたので俺はそれを再度聞いただけだ。
部下たちもそれを聞いて笑い、俺は熊本に着陸するように命じた。
同じころ、ロシア連邦首都モスクワと米国首都ワシントンDCでは日本政府代表団と新朝鮮半島政府の代表が議論をかわしていたが、人民連邦の掃討と言う事では両国ともに一致。とは言え日米は正式にはロシア傀儡のこの新政府を認めていない事もあり、非公式に合意したとの事で、国内には発表されなかった。
閑話休題。2時10分人民連邦軍司令部通信塔らしき建物にJSMが直撃するとその下にあった人民連邦対馬司令部の通信能力が全て失われたのか、人民連邦へ打電されていた全ての文章が途絶えたのである。ここが司令部だ。おそらくここに爆撃を加えれば司令部施設は壊滅するだろう。日本政府と自衛隊関係者は米国との交渉を終え、空自は新田原に待機していた米太平洋空軍所属のF-15E戦闘爆撃機を借用(※)、バンカーバスターが空爆を実施。するとすぐに人民連邦軍の幹部と思しき人物たちが入口から出て来たのである。
4時ごろ、洞窟コマンドポストを破壊された人民連邦軍に対し、米空軍と自衛隊の共同作戦で降伏勧告がなされ、人民連邦対馬軍は降伏を受け入れたのである。
この戦争は日米合わせて2587名の戦死者、人民連邦軍2600名以上戦傷者を出し、戦死者数からすると日米のほうが多かったが、対馬奪還と言う日本側の戦略目標は達成した。とは言え戦略的には1945年の硫黄島の戦いに次ぐ勝者なき戦いとも称された。
2020年9月1日東京
国立戦没者慰霊施設では自衛隊員の家族、米軍人の家族、日米政府の関係者が集まり、日米の戦死者に対する慰霊式典を実施した。
そして上空に飛来した海空自衛隊所属のF-35戦闘機がミッシングマン・フォーメーションと呼ばれる飛行をして過ぎ去っていった。
横須賀、佐世保、呉などと言った海上自衛隊の軍港でも軍艦旗、国旗などを半旗とし、それは陸自駐屯地、そして国旗が掲げられているすべての施設で行われていた。
対馬戦争で日本が失ったものは大きい、だが得たものもある。
それは平和は念仏のように祈っても手に入らないと言う”経験”であった。
スイスがなぜ2度の大戦争に巻き込まれなかったか、それはスイスの持つ極めて強力な国防政策にあった。それを真似て日本は次期防衛大綱を計画したのである。
終わり
※F-15Eの借用
中露戦争後、Pre-M-Ship型F-15の代替としてF-15Eを導入する計画が立ち、その操縦士養成を米国で極秘裏に実施、なお本作戦への参加機の国籍マークは米国籍マークのままである




