第七話 かつて在った日
早朝。
僕たち三人は、瀬川家の庭先で素振りをしていた。
それは身体を鍛えるとか、精神を集中させるとか、そういう目的で行っているものじゃない。
ただただ飛馬との、あるいは、ひーねぇとの『絆』を確かめるためだけに続けていることだった。
おぼろげであっても、僕の幻想でしかなくても、僕と飛馬は、僕とひーねぇは、まだどこかで繋がっているのだと、そう思っていたかったから。
まあ、ひーねぇが別れ際に言っていた『たくましく成長したそのときには』という言葉を信じ、強くなろうとしている自分がいることも否定はできないのだけれど。
もちろん、僕が勝手に思っているだけだ。
再会を約束しているわけじゃない。
でも、僕がたくましく成長すれば、ひーねぇのほうから会いに来てくれるんじゃないだろうか。
そんな思いが、期待が、僕の中にはまだ未練がましく残っていた。
期待すれば、裏切られる。
出会いがあれば、別れがある。
それを知り、受け入れたというのに、それでもなお。
それは果たして、喜ぶべきことなんだろうか。それとも……。
……いけない、いけない。
こんな雑念混じりに、中途半端に竹刀を振っていたら駄目だ。
どこかに無駄な力が入り、身体を痛めてしまう危険が出てくる。
目を閉じて。
ただただ無心に。
竹刀は僕の身体の一部。
そうイメージしながら、素振りを続ける。
すぐ近くには、優菜と光一の気配。
もちろん、目を閉じた僕の視界には映らない。
けれど、耳に聞こえてくる風切り音が、二人もまた無言で素振りに打ち込んでいるという事実を伝えてくる。
ふと、三年前のことを思いだす。
最初、優菜は僕の素振りをぼんやりと見ているだけだった。
そしてある日、唐突に訊かれた。
『なんで、そんなことを毎日しているの?』と。
そんな彼女に飛馬のことを話して聞かせたのは、当然のなりゆきだったといえるだろう。
でも、話の途中で出した『草試合』のほうに優菜が食いついてくるとは思わなかった。
おまけに、僕よりもずっと運動神経が優れていて、剣の実力という一点においてはすぐに追い抜かれてしまうなんて、もっと思いもしなかった。
さらにさらに優菜は、僕が飛馬に教えてもらった『御剣流剣術』も、すごい勢いでものにしていったのだ。
それこそ、簡単な技なら当時の飛馬と同じように繰り出せてしまうくらいに。
ひーねぇは『御剣の剣術は一子相伝』と言っていた。
だからあとになって、これはちょっとマズいんじゃないかなあ、と思ったりもしたのだけど、でもまあ、いまとなってはあとの祭りというか、なんというか。
ともあれ、草試合はするのに朝の素振りはやらないなんて、そんな半端なことを優菜がするはずもなく。
彼女が瀬川の家にやってきた日から二ヶ月も数えないうちに、優菜は僕と一緒に素振りも行うようになった。
光一が素振りや草試合に参加するようになるまでの経緯も、優菜と似たようなものだ――などと言えればすごく楽なのだけど、実際には、全然違っていたりする。
彼が瀬川家に引き取られてきたのは、僕が十三歳、光一が十二歳の夏のこと。
優菜と違って、養子縁組することなく居候としてやってきたから、僕や優菜と苗字が違うという事実に、最初僕たちは大いに戸惑った。
訊けば両親は存命だというから、なおさらだ。
でも僕は、両親から『優菜と同い年の男の子が、これからこの家に住むことになる』と聞かされたときから『よき兄』になろうと思っていたから。
だから、積極的に話しかけて、とにかくコミュニケーションを図ろうと頑張った。
けれど、瀬川家にやってきたときの光一は、いまの彼からは想像もできないほどに内向的で、暗い少年だった。
とにかく、自発的な行動というものに乏しかったのだ。
だから、難儀した。本当に難儀した。何度か、諦めかけそうにすらなった。
でも――
「うっし。今日の素振りはこれでお仕舞いっと。俺、先にシャワー浴びてくるな」
聞こえてきた光一の声に思考を中断し、目を開く。
そうして見てみれば、光一は早くも縁側で靴を脱ぎ、家の中に入っていこうとしているところだった。
もちろん呼び止める理由はないので、そのまま無言で見送る。竹刀はちゃんと彼専用の竹刀袋に入れて肩に乗せているし。
「じゃあ僕たちは、シャワーが空くまで待つとするか」
竹刀を袋に仕舞いながら、僕。
優菜も「うん」と僕に倣って竹刀を袋に納め始める。
けど、ただ待っているだけというのもなあ、と僕は優菜のほうへと目を向けた。
「なんか、こうしてると思いだすなあ。優菜の『光一ケツ竹刀事件』」
『ケツバット事件』ならぬ『ケツ竹刀事件』。
それは我が瀬川家における、数少ない大事件のひとつだ。
発端は、光一の内向的に過ぎる性格にあった。
よく言えば面倒見のいい、悪く言えばお節介な優菜は、その性格をなんとか矯正しようと彼に竹刀を握らせたのだ。
だが、それがマズかった。
正確には、そのあと光一の発した言葉がマズかった。
――いいよな。いつもすぐ近くに親がいてくれる奴はさ。
それに、優菜がキレたのだ。
彼女の両親は一年前に他界していたから、無理もないことといえばそうだったのかもしれない。
そして光一も、まだそのあたりの事情を知らなかったわけだから、これもやっぱり責められることではなかったのかもしれない。
けれど、キレた優菜は手に持っていた竹刀を大きく振りかぶり。
バシンと一発、光一の尻を勢いよく叩いてしまった。
もし優菜と光一の立場が逆だったら、僕は光一を散々に叱っていたことだろう。
そう考えると、女の子というのはつくづく得な生き物だと思わずにはいられない。
多少の暴力は許されてしまう傾向にあるというか、なんというか。
おまけに、どういうわけか、それがいい方向に作用したらしく、光一は段々といまの明るい性格になっていった。
いや、なっていったというよりは、戻っていったというほうが正しいのかもしれない。
光一は、両親の都合でいきなり瀬川家に預けられ、そのせいでただ腐っていただけだったのかもしれないから。
それはそうと、いまになって思うことがある。
グレるんじゃなく、塞ぎ込む方向にいってくれて助かった、と。
もしも光一がグレてたら、僕とはきっとケンカばかりの毎日になってただろうし、きっと、いまみたいな仲のいい兄弟のような関係性にも、なれなかっただろうから。
おそらくは、優菜も当時のことを思いだしていたのだろう。
気づけば彼女は、恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めていた。
「も、もう兄さんったら! その話を持ちだすのはいい加減やめてよ! 大体、兄さんだって昔、私に似たようなことしたじゃない!」
今度は僕が顔を赤くする番だった。
「してないよ! 天地神明に誓って絶対にしてないよ! 妹の、その……そういうところを竹刀で叩くって、どんな兄だよ!!」
「竹刀では叩かれてないけど、それくらいの衝撃があったの! あのときの兄さんの言葉には!」
『あのときの兄さんの言葉』でピンときた。
優菜が言っているのは、きっとあの日のことだろう。
僕と優菜が『兄妹』になるきっかけとなった、あの一件。
それは、優菜が瀬川の家にやってきたばかりの頃のことだ。
彼女にとっては、話したことはおろか、顔すら合わせたことのない人たち。
優菜がやってくる前から、すでに『家族』を形成していた三人の人間。
それが、僕と親父と、母さんだった。
その中に半ば強制的に放り込まれ、場違いだとでも思ったのだろうか。
ある日彼女は、自分でも『なにか』としか表現できないものに耐えきれなくなって、家出した。
あとから聞いた話だと、それは本当に衝動的にしたことで、行く当てなんて全然なかったらしい。
亡くしてしまった両親を捜したかったとか、そういうのでもなかったらしい。
ただ、瀬川の家にいられなかった。
どうしても、自分が邪魔者に思えて仕方なかった。
そう、優菜は涙ながらに、僕にだけ告白してくれた。
姿を消した優菜を見つけたのは、僕だった。
そして、怖かったけど。
本当に、怖かったけど。
怖くて怖くて、仕方なかったけど。
でも、僕は優菜の兄だったから。
優菜の兄に、なりたかったから。
だから、僕は……その日、初めて彼女に大きな声をあげた。
嫌われることを覚悟して、僕の生の感情を叩きつけた。
――どうして、いなくなったりしたんだよ!
本末転倒だと、思いながら。
だって、僕は優菜に嫌われるのを恐れていたのだ。
彼女に拒絶されるのが怖くて、このときまで、必死に『優しい兄』を演じていたのだ。
なのにいま、こんなに怒鳴ってどうするんだって。
――駄目なのかよ! 父さんじゃ、母さんじゃ、僕じゃ……お前の『家族』には、なれないのかよ!
でも、抑えられなかった。
『優しい兄』の仮面が、弾け飛んでしまっていた。
絶対に嫌われると思いながら、それでも、僕は声を大にして続けずにはいられなかった。
――僕はお前の『兄』で、お前は僕の『妹』で……。僕たちは『家族』で……。そうは、なれないのかよ……!
優菜のことを『お前』と呼んだのも、このときが初めてだった。
それまでは、恐怖感を与えないように『きみ』と呼びかけていたから。
僕の叫びに、やがて優菜が首を横に振り始めた。
ぼろぼろと、涙を流しながら。
小さな声で、何事かつぶやきながら。
そんな彼女に、僕はぶっきらぼうに吐き捨てた。
――帰るぞ。
こいつは、きっと僕から離れていかない。
限度はあるだろうけど、ほとんどすべての『本心』を見せても、嫌われることはない。
恐れなくても、大丈夫な奴なんだ。
そう、思えたから。
――帰るんだよ、『僕たち』の……『家』に。
その言葉に、優菜はぐちゃぐちゃになった顔でうなずいて。
差し出した僕の手を、ぎゅっと握ってくれた。
そして、家路につきながら話してくれた。
僕だけに、告白してくれた。
彼女が家から姿を消した、その理由を。
もちろん、いきなりなにかが大きく変わったわけじゃない。
これは、あくまでもきっかけでしかなかったから。
でも、僕たちの間にあったぎこちなさは、その日から確かに薄まり始めた。
僕と優菜の関係性は、その日を境に『兄妹』のそれへと近づいていったのだ。
しかし、である。
手もあげていないのに『ケツ竹刀事件と似たようなことをした』と言われるのは、さすがに心外だった。
いや、それ以上に勘弁してほしかった。
だって、他人に聞かれたら絶対誤解されるに決まってるから。
「それはそれとして、兄さん。どうでもいいことなんだけどさ」
まだ顔を赤くしたまま、優菜が話題を変えてきた。
僕は彼女に正対し、『聞く姿勢』に入る。
雑念が綺麗さっぱりなくなるからなのだろうか、黙々と竹刀を振ったあとの優菜は、何気ない口調で妙に重要なことを言ったりすることがある。
「あの、本当にどうでもいいことだから、そんなかまえられるとプレッシャー感じるんだけど。
……そのさ、兄さんって、クラスに友達いないよね? 私が『ぼっち』とか言ってからかえるくらいには」
ぐさり、とは僕だからならないが、人によっては深刻なダメージを負うであろう、痛烈な一言。
なんというか、優菜はときどき本当に容赦がなくなる。もちろん、本人に自覚はないんだろうけど。
それはそれとして、僕は答える。
「……まあ、いないな。クラスでは基本、事務的な話か相槌を打つ程度のことしかしてないから、当然といえば当然だけど。
というか、そもそも僕、クラスで友達作りたいとか思わないし」
「どうして? 兄さんって、相手によって対応変えるところがあるから、クラスでも話しかけてくる人は多いほうでしょ?」
「まあ、確かに多いけど……」
ぶっちゃけ、うっとうしく感じられるくらい多いけど。
「じゃあ、その気になれば友達なんていっぱい作れそうなものじゃない。……それとも、やっぱり飛馬さんって人のことがトラウマで?」
「う~ん……。もちろん、それは大きいと思うけどな。初めて『別れ』っていうものを経験したのが、あのときだから。
でも本当に『別れ』がトラウマになってるとしたら、それはむしろ、ひーねぇのときのほうだと思うんだよな……」
あのとき、僕は子供ながらに思ったから。
期待すれば、信じれば、必ず裏切られるんだ、と。
だから、可能な限り期待はせずに生きていくんだ、と。
他人のためではなく、自分のためだけに生きていくんだ、と。
自分だけを大切にして生きていけば、きっと幸せな、誰にも裏切られない未来が待っているはずだから、と。
もちろん、いまの僕はそうなりきれてない半端者なわけなのだけれど……。
「……ああ、瞳さん?」
と、いきなり優菜の声音が不機嫌なものになった。
まあ、ひーねぇのことを話題にすると、彼女はいつもこうなるのだけど。
義理とはいっても、優菜はやっぱり僕の『妹』だから、自分の知らない『瀬川和樹』を知っている『僕の姉のような存在』には、どうにも好印象を抱けないんだろう。
そのひーねぇが僕を捨てるようにして行方をくらましてしまったものだから、なおさら。
一度だけ、優菜に直接訊いてみたこともあったけど、そのときだって、
『別に、嫌いってわけじゃないよ。会ったこともない人だから。でも好きとか嫌いとかいう前に『なんだかなあ』っていうモヤモヤしたものが先にきちゃうの。なんていうんだろう、ものすご~く複雑な感じ』
と言っていたし。
それはそれとして、優菜の機嫌が悪くなるのは、僕にとってあまりよろしくない。
ここはちょっと、話を逸らしにかかるとしよう。
「そもそも僕、学年関係なく、友達なんていないし」
その言葉に、なぜか優菜が目を丸くした。
「は!? 秋葉とか司とかいるじゃない!!」
なにを言ってるんだ、こいつは。
「秋葉は優菜の友達で、司は光一の友達だろ? だから僕ともそこそこ仲いいってだけだ。二人とも、僕の直接の友人ってわけじゃない」
「友達の友達は友達っていうじゃない! この場合は、妹と弟の友達だけど!」
「いうかもしれないけど、僕にそれを当てはめようとするのはやめてくれ。
そもそもさ、独占欲の強い人間ばかりが集まると、友達の友達は敵ってなったりもするじゃないか。友達を取っていっちゃう人って意味でさ」
優菜が「それは、確かにそうかもしれないけど……」とつぶやく。
けれど、それ以上の言葉は出てこなかった。もちろん、なにか言いたげに上目遣いを向けてはきていたけど。
と、汗で身体が冷え始めたのだろう、「くしゅん」と可愛いくしゃみをひとつして、彼女は仕方なくといった様子でシャワーを浴びに家の中へと戻っていった。
そろそろ光一もシャワーを終えただろうし、ちょうどいい頃合いだろう。
「さて、僕はどうやって時間を潰したものかな」
しばし考え、僕も家の中に入る。
「朝食と弁当、作っておくか」
昨日はあの死神少女の襲撃を警戒し、司と秋葉にも家まで同行してもらっていた。
そして当然、食事当番を決めるための草試合も行わなかった。
昨日の夕飯を作るのは、優菜が申し出てくれたわけなのだけれど。
とばっちりで自分の命が危険に晒されるかもしれない、なんて状況でもあの二人は一緒にいてくれているのだ。
家族なんだから当たり前、と取れなくもないけど、それを当然と受け入れてしまうのもどうかと思う。
感謝は大事だ。こんなときだからこそ、余計に。
そして、ちゃんと感謝の気持ちがあるのなら、やっぱり形で示したい。
「それに、料理は僕の趣味でもあるしな」
そして冷蔵庫を開けてメニューを決め、ふと、どうでもいいことに思考が飛んだ。
「そういえば、光一って『ケツ竹刀事件』の直後くらいから、優菜のことを意識し始めたんだったよなあ」
決してわかりやすいものではないけれど、一緒に住んでいれば鈍感な僕でもさすがに気づく。
いやまあ、最初の頃は、尻に竹刀を叩きつけられて変な性癖に目覚めでもしたんじゃ、と心配したものだったけれど。
でも、いくらなんでもそれはないだろう。
もちろん、僕が『それはない』と思い込んでいたいだけ、という可能性は残ってるんだけどさ。
あの事件以降、段々と光一の性格が明るくなっていったのだってそうだ。
元に戻ったんじゃなくて、優菜の前でいい格好をしたいという心理が働いただけなのかもしれない。
結果として、明るい性格になったのであって、僕と出会う前の光一はやっぱり暗い性格の少年だったのかもしれない。
本当、『かもしれない』ばっかりだ。
だって僕は、光一の過去も優菜の過去も知らないのだから。
知ろうとしたことが、ないのだから。
もっと言えば、知りたくなんかないのだから。
僕は現在の優菜と光一を見て、推測するだけ。
手にある情報の中から、『かもしれない』と想像するだけ。
それ以上のことは、絶対にしない。
だって、過去のことを無理に聞き出したとして。
そのとき、いまの日常が変わらずそのまま続いていくという保証は、どこにある?
円満にやっていけてる現在が壊れないなんて、誰に言える?
そんな保証、どこにもない。
二人の過去に、現在の暮らしをひっくり返してしまうような傷がある可能性を、否定することなんてできやしない。
だから、触れない。
触らなければ、変わらないで済むはずだから。
そう、思うから。思いたいから。
――いつか、二人の過去に深く踏み込まなかったがために、なにか大切なものを失ってしまう日がくるとしても。
「それはそれとして、あの死神、なんで昨日は現れなかったんだろう……」
コンロに火を点け、包丁をとんとんとやりながら、僕はなんとなくつぶやいた。
秋葉と司が一緒にいたから?
いや、そんなのは理由にならないだろう。
司からの情報を信じるなら、死神――神霊っていうのは、人間よりも高位の存在。
いくら最下級とはいえ、僕たち五人じゃどう逆立ちしたって敵わない相手であるはずだ。
仮に僕以外の人間を殺せないというのが真実で、悪い言い方をしてしまえば、僕の『盾』となれる人間が四人に増えたからって、それが理由になるとは思えない。
その程度じゃ、襲撃を躊躇なんて、しないはずだ。
なのに、なんであの死神は現れなかったんだろう……。
まさかまさかの本日二回目の更新です。
出来ちゃったから投稿しちゃえ、というノリで投稿しちゃいました。
今回は和樹と優菜、和樹と光一の過去話。さらに他にも諸々と、前回の反動かと思うくらい長くなってしまいました(笑)。
でも、異常に長いというほどではありません。
物語も、まだこれといって大きくは動いてませんしね(苦笑)。
では、また次回。