第九章
(9)
2008年 9月 秋
知り合いが捕られた。
井本幸一と言う、次郎のネタ元である。
ネタ元とは、シャブの卸業者の事で、業界用語である。
卸業者と言っても、次郎とは友達の様な関係で、品物の取引もするが、毎日の様に遊んで居た仲であった。
その井本が捕られたのは、警察ではなかった・・・
井本を捕って行ったのは、厚生省九州麻薬取締局、俗に言う麻取りだった。
次郎はそこら辺が鈍感なので、全然気が付かなかったのだが、井本は事ある毎に「何かおかしい」と言って居たのだ。
「幸ちゃん考えすぎやろ」
「いや次郎、絶対におかしいばい」
「何がおかしいの?」
「何がおかしいのかは、言葉では言えんが、兎に角おかしいばい」
「薬が効いとるから、頭グルグルに成っとんやろ、暫らく身体から抜いたら?」
次郎は適当な事を言った。
「そんなことしたら、商売出来ん成るばい」
「それもそうやね」
いつの頃からか、次郎もまた、薬を使うように成って居たのだ。
言い訳に聴こえるが、井本が言う様に、素面では商売が回らないのは事実である。
薬を身体から抜くとなると、二十日は掛かるだろう。その間、切れ目状態に成り、身体が動かないのだ。
身体が重くだるく、眠たくてたまらない状態が続き、日常生活さえ困難に成って来る。
点滴やサウナに行ったりして、少しでも早く抜いてしまおうと、色々試みるが、実際それがどれ程の効果があるのかは解らない。
とにかく次郎は、二十日間は抜けないものと考えて居る。
二十日間も空けるとなると、商売が干あがってしまう。
せっかく軌道に乗せたものが、台無しに成ってしまうのだ。
あそこに連絡すれば、何時でもシャブが手に入ると、客に思わせる事が一番大事なのだと次郎は考えて居た。
二十四時間、常にその状態を作っておかないと、相手はポン中なので、すぐ他所へ流れて行ってしまう。
次郎の経験上、流れた客は暫く戻って来ないのだ。
この商売で儲けるコツは、何時でも連絡が取れる状態と、フットワークの軽さだろう。
ポン中は気まぐれで、今なら欲しいけど、後なら要らないのだ。
そう語る、次郎自身がポン中なのだから、全く説得力がない。
そんな次郎の元に、今さっき連絡が入ったのだ。相手は井本の妻、アキからだ。
「次郎さん、幸ちゃんがパクられました」
「え、マジで」
「いきなり窓ガラス割って入って来たので、もうビックリでした」
「嘘やん、警察も思い切ったことするね」
「いや、警察じゃないです」
「はあ?」
「麻取りです」
「アキちゃんは大丈夫なん?」
「私も一緒に連れて行かれたけど、幸ちゃんが、コイツは関係ない、帰らせてくれって言ってくれて・・・」
「で、品物はナンボあったん」
「百くらいだと思います」
井本にしては少ない量だ。
「アキちゃん良かったね。これ警察やったら帰って来られんやったよ」
「在宅で取り調べるって・・・」
「そう、気を付けんと。コイツら取引するみたいやからね」
「はい、今日も何人かの写真を見せられました。知り合いは居ないかって」
「そうなん。で、俺の写真はあった?」
「え、いや、そう言えば次郎さんは、見てないですね」
「そ、そう・・・」
この場合、二つの選択が出来る。
一つ目は、麻取りは次郎の存在を知らないから、写真を見せなかったと言う事だ。
そして二つ目は、次郎の存在を既に把握しているので、写真を見せなかった。
「アキちゃん、ホントに俺の写真無かった?名前とかも出て無いの?」
「はい、色んな名前聴きましたが、次郎さんの名は一度も無いです・・・」
「そ、そう。俺もまだまだやね、ははは」
「何か聴いたら、また教えますね」
「あ、うん、アキちゃん気を落とさないで」
「はい、次郎さんも気を付けて下さいね」
そう言ってアキは電話を切った。
次郎は頭の中を整理した。
井本とは、毎日の様に遊んで居た。
井本の家も、何度も訪ねている。
警察と違い、麻取りは現行犯でしか逮捕出来ないのだ。人数も十人程度だ。警察みたいに、職務質問して任意同行など有り得ない。
確実に品物を所持して居ないと、逮捕する事が出来ないのだ。
従って、内偵捜査には時間をかける。
確実に所持して居ると解るまで、半年も時間をかける事もある。
おとり捜査も出来るのだ。
わざと客の振りをして、シャブを買いに来ることもあるそうだ。
一度ターゲットを決めると、半年は離れない。井本にもそれだけの期間、引っ付いていたのだろう。
次郎の名前が浮上しない訳が無い。
アキに写真を見せなかったのは、わざわざアキに聴くまでもないと考えられる。
次郎がして居る事は、全て承知して居ると言う事だ。
今手元に抱えている商品は、幾らあるだろうか・・・確か、二百と少し・・・
井本が捕られた今、次のターゲットを探して居る筈だ。
もし次郎がターゲットに成るとしたら、捜査を始めるのは、これからだと判断した。
理由は、次郎が品物を持って居る事を、まだ把握出来て居ないからだ。
もし把握して居るなら、井本を捕りに行く時と同時に次郎の所へも来るはずだ。
井本が捕られたのを知った後では、次郎が用心するのは当たり前で、品物を何処かへ隠すのは明らかだからだ。
もし麻取りが、次郎が持って居のが解って居るなら、捕るのは同時でなければおかしいのだ。それか、井本よりも先に次郎を捕るはずである。井本が挙げられた量よりも、次郎の抱える量の方が多いからだ。
以上を考えると、麻取りは次郎の現状はまだ把握出来て居ない。
そして、次郎がターゲットに成るかどうかは解らないが、内偵捜査は、まだ始まって居ない。次郎はそう判断した。
今ある商品は、売り抜けよう・・・そして一応、身体からは抜いておいた方が良さそうだ。ガラも別な所へかわすことにしよう。
影山には今の状態を報告して、取りあえず来月分までのカスリを入れて、暫らくは様子見をさせて貰おう。
影山へのカスリは月に百万円。
仕入れ、顧客集め、売買は全て次郎持ち、シャブを売ると言う権利代だけで、月に百万円は取り過ぎではなかろうか。
「はあ、カスリは来月で終わる」
「いや兄貴、終わるじゃなくて、様子を見させて欲しいと言っとるのですわ」
「ホントに麻取りが付いとんのか?」
「いや、それを見極めるのに、暫らく時間を下さいって・・・」
「見極めるのは構わんが、その間もカスリはちゃんと入れろよ」
「えっ、収入が無くなるのに、俺にどうしろと言うのですか」
「決まっとるものは、ちゃんとせんか。お前そうとう稼いどるらしいやないか?おう、蓄えがあるやろうが、蓄えが」
「ちょっと待ってくださいよ」
「お前、誰のお陰で飯が食えよると思いよるんかぃ?俺の名前があるからシャブだって出せるんやろうが」
「・・・」
「影山の名前無しでシャブ捌いたら、すぐに他のヤクザにさらわれるわぃ。分かっとんのかぃ、ボケが」
「・・・」
「懲役に行ったら、その間の事は、俺がちゃんと面倒を見てやる・・・イモ引くなや」
そう言って影山は帰って行った。
次郎はロボットに成った様な気がした。
影山の言う事は、解らない訳ではない。俺がこの街で何かすれば、影山のシノギと言うことで、他のヤクザは引いてくれるのだ。
それは解る。それは解るのだが、月に百万円は高すぎる。捕られるまで売り続けないといけないのか・・・
「くそヤクザが」
次郎は独り毒づいた。
さてどうしたものか・・・
取り敢えずは売り抜けるまで、商売を続ける積もりだ。
細心の注意を払ってやっているが、次郎の肌に引っ掛かって来るものは、まだない。
井本は拘置所に居る。
麻取りに捕られたら、その日から拘置所で拘留される。麻薬取締局は、留置場を持たないからだ。
面会は出来ないが、井本にお金の差し入れと、冬物の衣類を入れた。そろそろ冬が来る、拘置所は寒かろう。
警察と麻取りでは、そもそも上の機関が違うのだ。警察が警察庁なのに対して、麻取りのそれは厚生省である。
捜査方針も違えば、有する権利も違う。
麻取りの捜査官は、皆、薬剤師の資格を所有すると言う。警察は犯罪者を検挙することでポイントに成るが、麻取りに検挙率は関係無い。あくまでも押収量なのである。
従って、ターゲットが必ず薬物を所持して居る確信があっても、量が少ない場合は見逃す事もあると言う。
今回の井本の様に、思い切った捕り物の割には、いささか量が少なかった様に思える。
頃合いを見誤ったのだろう。
井本はキロを動かして居た男なので、それを思えば、井本の方に分があったのだろう。
それでも井本は七~八年は帰って来られないだろう。
警察官と麻薬取締捜査官が、互いに協力して捜査にあたる事は無い。
逆に、捜査上バッティングした時などは、お互いに邪魔をするのだと聴いた事が有る。
麻取りが、容疑者に連絡を入れて、警察が内偵をして居ると教え、逃がしたなどと言う笑える話もある。
警察、特に組織対策の薬物銃器課と麻取りとは、犬猿の仲だ。
麻取りも警察官と同じで、拳銃の所持が許可されている。
警察と違い、九州だけで十人程度しか居ない捜査官の数で、麻薬組織を対象にして捜査するのだ、命の保証は無いだろう。
自分の身を守る為に、所持するのだ。
「麻取りかぁ・・・」
次郎は昔の苦い経験を思い出して居た。
もう十何年も前の話しだが、実は次郎は麻取りに捕られた事が有る。
薬物自己使用のションベン刑であったが、その件で懲役も行った。
余りにも、しょうもない件であった為、思い出すのもバカバカしいのだが、少し脱線をする。