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風来歯科医の航海日記  作者: 時田柚樹
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5月19日

五月十九日 晴れ

 船長のアナウンスとライラの笑顔で今日も一日が始まった。

 と、書いているのでは成長がない。

 そう、今日は重い腰を上げて、朝からプロムナードを歩いたのだ。偉そうに書いてはいるが、なかなかベッドから出られなかった。ライラの紅茶の有り難いこと。

 だがデッキに出てみると、昼や夜には味わうことのできない空気の張りつめた感じと、太陽が昇る直前のラベンダー色の空がなんとも綺麗で、ため息が出るくらいだった。夜の星も捨てがたいが、太陽の存在もまた……。

 船首でストレッチのような体操をやっている団体もあったが、私は軽くウォーキングすることにした。日本人も多くいたので人見知り克服ではないが、会話をそれなりに楽しんだ。といっても、たいしたことは話してない

 もちろん外国籍の方々とも顔見知りになった。こうして、船の上という限られた場所の中で、徐々に自分も溶け込んでいくのだと実感した。

 ちなみに、レベッカもゆったりと散歩を楽しんでいた。私を見つけて、なんだか嬉しそうだった。あの大きな体でハグはきつい。

 寒々しく見えた空も、歩いているうちに明るくなっていき、さっきまでとはまた違う表情を見せていた。

 私自身も気分が良くなり、これも毎日の日課にしようと心に決めたのだ。

 部屋に戻りシャワーを浴びて、船内新聞を読んでいるとライラがお茶を持って来てくれた。

「あら? おはようございます。千早さま。今日は早起きですね」

「運動不足なんで、ちょっとばかし散歩にね」

「まぁ、それはいいことですわ。きっとこのお茶も美味しく飲めますね。甘めになされた方がよろしいですわ」

 笑いながら彼女は言う。

 言われたとおりに、砂糖もミルクもたっぷりと入れた。胃に入っていく感覚がわかり、ホッとした。

「ライラのお茶は毎日美味しいよ」

 私がそう言うと、ライラは「愛情込めていますから」と笑みを浮かべ部屋を後にした


 午後からフラッと写真館へ行ってみた。

 午前の散歩中にカメラマンの森晃光君に会ったから。彼は、自己紹介のようにカメラを向けて私を撮った。あまり好きではないのだが。一言、撮ってもいいですかと聞いてくれればいいのにと思う。もちろん答えは、ノーだ。

 それでも結局、写真館へ行ってしまったのは興味があったから。自分が写ってなければ、写真は嫌いじゃない。

 ショップ街の一角にある小さなスペースに入ると、女性が受付をしていた。

「どうぞ、ゆっくりとご覧になってください」

 と、鉛筆と紙を渡された。欲しい写真の番号を記入するのだとか。

 私は、ベニヤ板に張られた写真を流し見た。船長との握手写真がたくさんあった。当たり前だが、私のも。やっぱり顔が引きつっている。その他、アクティビティや食事中の写真には楽しそうに写ってる。

 悩んだが、買うことにした。

 番号を記入し、受付方向に流し見していた途中、違和感のある写真を発見した。写っているのは、メインダイニングの隅。窓側に一人で座っている黒服の女性。笑顔に満ちた乗客の中で浮いている無表情。彼女だ。

 私は、番号を一つ付け加えた。

「お部屋に届けておきます」

 サインをして、写真館を出た。そして呟いた。

「何故買った?」


 シャワーを浴び、待ち合わせの『珊瑚』へ。

スワン会長と食事の約束。なんとなく気が重いけど、約束してしまった以上は行かなければならない。

純和風な店内は、木のやわらかさを強調していた。案内された個室は狭めだったけど、カウンター側の仕切りは竹で、壁にも綺麗な模様の欄間があるせいで、座った感じは広く思えた。

「大将。今日は客を連れて来たぞ」

「白鳥さま。いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 私より少し年上に見える大将は、挨拶がてら前菜を運んできた。そして、私に対し、礼をした。

「いらっしゃいませ。料理長の綿井と申します」

「渡辺です。本格和食に魅かれてやってまいりました。よろしくお願いします」

 正座していた足を崩すよう勧められ、喜んで従った。

「さぁ、挨拶はそのくらいでいいだろう。久しぶりの日本を堪能しよう」

 スワン会長の言葉に頷き、青い江戸切子で乾杯をした。お互いに、可愛い切子で二杯しか飲まなかった。

 別にホームシックではないが、日本食が恋しくなっていたらしい。そんなに日にちも経っていないのに。

 ジュンサイに始まり、冷製珍味三種盛り、温野菜和風サラダ、山の幸海の幸の天麩羅、ミニ蕎麦に手鞠寿司、水菓子に至るまで、これでもかというくらい繊細な和を楽しんだ。

 正直言って、会長の言葉は話半分で内容もあまり覚えてない。

 気になっていた秘書の行方がちょっとわかったくらい。船には、専属の部屋係がついているし、どこに行けるわけもないし、客の身元も確かだから安全ということで。海の上にいる限りは、それぞれが好きなことをしているのだと言う。

「いい仕事ですね」と口走りそうになった。

 この店には、また来ようと思った。そして、それは純粋に口にした。

 朝、散歩したからか。和食を食べすぎたように、いくらでも胃に入る気がする。これはまずい。逆効果?

 ま、そのうち折り合いがつくだろう。


 その重い身体で、夜の風に挨拶をしに行った。というのは、やはり建前で。彼女を見るための時間だっただけだ。

 彼女はいた。

しかし彼女、黒い服を何着持っているんだろう。しかも、同じデザインの。いや、同じに見えるだけで、違うのかもしれない。なんせ、私はセンスがないらしいから。

 そろそろ、声をかける努力をしようかな。そう思っていると、風が強く吹き抜けた。臆病者めと言われているらしい。

 部屋に帰ると、写真館の封筒が届けられていた。中身はもちろん写真。

 私の写っていない一枚を抜き、ベッドに転がった。

「……うん。明日から」


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