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風来歯科医の航海日記  作者: 時田柚樹
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5月18日

五月十八日 雨

 朝に香港へ着いた。陸に上がるまで少々時間を要した。上陸手続きのせいだ。

「そこはあとでいい。先に裏をしよう」

 なにやら、くすんだオレンジ色のつなぎを着たクルーたちが、忙しそうに船壁を移動していた。

「裏方はどこの世界も、大変そうだなぁ」

そんな風景を横目で見ながら上陸した。私の足が着いたと同時に雨が降り出した。小糠雨。風は止んで丸い空気。香港に似合っている気がする。

 久しぶりの陸は、足元が少しおぼつかなかった。が、すぐに慣れて、今日の予定地へと濡れるのも構わず歩いて行った。港からそんなに遠くない場所にある店で、『ブランチを飲茶で』と決めていたのだ。

雑誌で調べた評判高い店は、まだ混雑していなかった。席に着いた私はゆったりと時間と空間を楽しむことができた。雑誌で評判といっても、味が悪い店もある。そう言い聞かせて来たからか、この店は驚くほど美味だった。

 腹六分目と決めていたのにもかかわらず、様々なものを詰め込めるだけ詰め込んでしまった。小龍包なんか三皿食べた。好物なんだ。

 昼からは当てもなくふらつくだけだった。女性なんかは買い物天国だろうけど。夜遅くの出航までどうやって時間を使おうかと悩むくらい、飲茶以外、何にも決めてなかった。

 船では上陸しない人たちのために、なにかやっているだろうと帰ることにした。

 船内には思っていたより客が残っていた。彼らはいつもと変わらず楽しんでいる。


 そして今日は、香港上陸というニュースより驚いたことがあった。あの、例のご老人に部屋へ招待されるという!

 開催されていたアクティビティは数少なく、興味もなかったので、ゆったりと時が進む船の中をふらついていただけだった。

 そこで彼にバッタリ会い、ただ一言「こんにちは」と言っただけ。

「これだけの有名人になると、遠巻きに見る人は大勢いても、話しかけてくる人はなかなかいないのだよ。一瞬、君が私のことを知らないのかと思ってしまったよ。君の表情を見るまではね」

 と、フランクに言われた。

「あなたを知らないのは幼稚園児くらいでしょう。日本という国を世界に広めたような方なのですから」

「かいかぶりだよ、君。だが、君とは楽しく話が出来そうだ。予定はあるのかね? なければどうだい? 私の部屋で一杯やらんか?」

 そう言われて、のこのこついて行ったわけだ。

 スイートルームの広いこと! カウンターバーがついてるし、ソファーは大きいし、ドアのすぐ横に階段があるし。メゾネットタイプになっているらしい。上が寝室か。

 ここに一人だと寂しくなりそうだ。

「とりあえず自己紹介をさせてくれたまえ。白鳥草一郎だ」

私は彼の出した手を握り、答えた。

「渡辺千早です」

「酒を飲むか? なにがいい?」

 ソファーを勧められ、おとなしく席に着く。

「あ、いえ。紅茶を頂けますか?」

「なんだ、アルコールはやらないのかね」

「いえ、そういうわけでは……」

「ふぅむ。まあ、よかろうよ」

 老人は電話を取り、紅茶を二人分持ってくるように言った。

「会長はお酒を召し上がられないのですか?」

「私も、そういうわけではないよ。もう年だし、最近は量を減らしている。前後不覚になるような飲み方なんて、もう何年もしてないよ。若い頃の勢いはさすがに無いからね」

 彼はそう言ってウインクした。

 紅茶はすぐに来た。銀の三段トレイに乗った可愛らしいおやつとともに。

「この船の船長とは仲が良くてね。船旅をするときは必ずこれに乗るのだよ。気楽だからね。だが、いつも退屈しだすのさ。話をする相手がいなくて。どこぞの社長やら御曹司やらは話しかけてくる時もあるが、そんな見え見えの奴らとは話もしたくない。だから君は生贄に選ばれたのだ」

「生贄ですか」

「おっと、別に君が御曹司に見えないという意味ではない」

「実際に見えないと思います。よく言われますし」

「はっはっは。君は生贄さ。この老人に与えられた、ね」

「私は自らの意思でここに来たつもりですが」

「君は面白いね。だが、自ら進んで犠牲になる人間だっているだろう?」

 なるほど。しかし残念ながら、そういう正義感は持ち合わせていない。

「君は何をしているのかね?」

「歯科医です」

「ほう、それはいい。ここの船医の腕前は最高の部類だと思うが、歯だけはいかん。以前、かぶせ物が取れたから行ったら、強力接着剤を持ち出しよった」

 どうやら船の上で歯科医はモテるようだ。

「しかし、応急処置には悪くないですよ。歯科医師としては、クラウンを外すのに手こずるので勘弁して欲しいですけど」

「今はずれたら、君に頼むよ」

「私が治療するわけにはいかないでしょう」

「何故かね? 腕がとてつもなく悪いとか言うのじゃないだろうね?」

「腕がどうのこうのと言うより、私が持っているのは日本国内の医師免許です。一歩外に出れば役には立ちません」

「いやいや、そうとも限らんぞ。海の上はまた違うものさ。大体、腕のいい医者というのは、どこにいても腕がいいものさ」

 ……そうだろうか? 彼は何故か、私を腕のいい医者だと思い込んでいるようだ。や、もちろん自分の腕が悪いとは思っていないが。

「君は面白いが、真面目すぎるようだね。もっと、フラフラしているタイプかと思っていたが」

「いえ、おそらく当たってますよ。人見知りなんです。知り合ったばかりの方の前では、猫をかぶってるんですよ。一ダースほど」

 ご老人は大爆笑。

「猫は大好きだ。それが一ダースいるとなると大歓迎だ。気に入った。私に飯を奢らせてくれ。明日、七時に船内の和食店『珊瑚』で落ち合おう」

 私は「はぁ……」と、それについては覇気のない返事をした。それから、彼の仕事について馬鹿のように質問をし、満足して部屋に帰ったのだ。


 百万ドルの夜景を横目に船が出港し、相変わらずのメンバーとディナーを楽しんだ。

 今日はデビッド・スミスがいなかった。香港で食べて来たのかもしれない。

 それから、今日はナイトシアターで『LOVE BALLAD ~愛の詩~』を見た。評判高い映画だったはずだが、私の好みではなかった。

 シアターには充分な席があったが、観客は少なかった。ベストポジションで見ている私の前には、十人ちょっとしかいなかった。

 エンドロールになり席を立つ。前方右側に黒服の女性を見つけた。

 彼女だ。

 私は後ろのドアから出ようとするのをやめて、わざわざ前にあるドアへと足を運んだ。

 そっと彼女を見ると、一心にスクリーンを見つめていた。無表情で。それは、星空を見上げている時と変わらぬ表情だった。

 この船でそんな表情をしているのは彼女だけだろう。だから気になるのかもしれない。

 その足で後方デッキに行ってみたが、いつものような静寂はなかった。星空教室というアクティビティが行われていたから。

 そう、だから彼女は映画を見ていたのかもしれない。

 想いにふけっていたが、半ば強制的に集団に加えられ、航海士の説明を受けながら星を見上げた。


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