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風来歯科医の航海日記  作者: 時田柚樹
11/37

5月22日

五月二十二日 晴れ

 早朝、シンガポール寄港。

 朝から大変良い気候であった。風も歓迎してくれた。

 青い空に白い建物の数々。高層ビルも多く、シンガポールは都会だった。マーライオンは思っていたより迫力がなかったけど。

 今回も特に何も決めてなかった。や、飲茶という目的が一つあった分、香港の方がまだマシだったかもしれない。

 それでも、初めての地だったし、せっかくだからと上陸したわけだが。

 後でよくよく聞くと、なんでもここにも有名な飲茶の店があったらしい。シンガポールは多国籍民族で、中国系も多いので料理店も多いとのこと。チャイナタウンには足を向ければよかったかなと、今更ながらに思う次第で。


「うーん、もう少し黒を増やしてくれ。そう、その色」

「停泊中に塗装し直すんですか?」

 船に戻ると、オレンジ色のつなぎに身を包んだクルーが船に手を加えていた。

「あまり航海中にはしたくないんですが、どうしても手直しが必要な個所が出てくるんですよ。塩水は強いですね」

 腕組みをして、指示を出していたクルーは甲板員といい、彼は甲板長だという。

「甲板員というのは、甲板にいてデッキを掃除しているイメージでした。塗装や修理もなさるんですか」

「ははは。映画やアニメの影響ですかね。甲板員は航海士の下にいますから、船の見張りや簡単な修理は私たちの仕事です。機械に関しては別ですが」

 ごつい人だ。だが、笑顔はいい。オレンジのつなぎが余計に明るくしてるのかもしれない。

「船に携わっている方々は、皆、忙しくても楽しそうですね」

「乗組員合わせると約三五〇名ですが、全員が誇りを持って仕事していますから。お客様に最上の航海を、と」

「おかげで、私も楽しく過ごせています」

「その言葉が嬉しいんですよ」

 私は、礼をして船に戻った。

「渡辺さん。シンガポールの街はいかがでした?」

「ええ、思ったより都会でした」

「最近のアジア情勢は変わってきていますからね」

 船長とすれ違いざまに会話した。

「香港もそうでしたでしょう?」

「ええ。午前中だけで、午後は船に戻って、スイートルームにお邪魔してましたけど」

「スイートに、ですか?」

 何やら不思議そうな顔。私は頷いた。

「スワン……や、白鳥会長に誘っていただきまして」

「えっ! そうですか。……香港に立ち寄った日にですか。お部屋は素晴らしかったでしょう。中をご覧になられて」

「驚きましたね。でも、あの部屋で一人は寂しいですね」

「はは。そうかもしれませんね。……あ、高木甲板長、少しいいかね?」

 どうやら、甲板長と話をするために降りてきたようだ。

「では、失礼します」

 私は早々に部屋に引き揚げた。


 夕食時、ベイカー夫妻の様子を窺っていたが、どうやら仲直りしたらしい。キャシーは、いつもの明るい笑顔を、マークは……ま、それなりの態度で食事をしていた。

 気になっていたデビッドは現れなかった。皆で予想していたのは、香港で乗り遅れ、飛行機で先回りしているだろうというものだった。

 彼はこのクルーズを楽しんでいたし(と思う)、途中下車(下船か)、という話は聞いてなかったし(と思う)。レベッカ曰く

「このクルーズは途中で降りることはできないのよ。スペインに到着するまで誰もね」

 だそうだ。

「そうそう、今日ここに来る前にね、ロビーが騒然としてたの」

 キャシーが言う。

「何かあったんですか?」

「聞いてみたんだけど、教えてくれなかったわ」

「盗難事件ですって」

 急に後ろから声がかかった。隣のテーブルにいた女性が、コソッと教えてくれた。

「何が盗まれたんですか?」

 その女性は、私たちが話しに食いついたことが嬉しいのか、空いているデビッド氏の椅子に座って来た。

「あたしが聞いたのはね。ロイヤルスイートに御泊りのご老人の部屋から、指輪やブローチ、カフスなどの高級品、宝石のついたやつね、が無くなってたんですって」

 女性は東洋美人だ。日本人かもしれない。私くらいの年齢か。や、若く見えるだけかもしれない。短い黒い髪は、所々はねているように見えるが、セットされてこうなったのか不明。大きめの口がニヤリと上がる。

「まあ。スワン会長ね。有名人だから狙われたのかしら?」

 レベッカが首をかしげる。首が見えないけど。

「どうかしら。それよりも、この船にそんな人が乗っているっていうことが怖いわ」

 東洋美人は腕を抱えて、怖がるふりをした。明らかなるふりだ。

「身元がしっかりしている人ばかり乗っていると思っていたがね」

「そうね。でも、お金持ちがたくさん乗っている船ですもの。まだまだ、被害が出そう。私たちも気をつけましょう」

 レイニック夫妻が顔を見合わせる。同じようにベイカー夫妻も。私は一人寂しく思う。狙われることがない人間もここにいるんだけどな。

「千早もね」

「はい」

 レベッカに見つめられた。

「早く解決するといいですね」

 向きを変え、女性に言ったら、

「そう? 面白そうじゃない?」

 ものすごく楽しそうに言われた。返す言葉がない。

「じゃあ、あたしはこれで失礼しますわ。皆さん、ごきげんよう」

 名前も聞かなかったが、情報通の東洋美人は、鼻歌交じりに、軽やかに出て行った。同席の皆さんの興味はすでに、別の話題へと移っていた。


 食後のお楽しみとして、カジノに行ってみた。

 煌びやかで賑やか。ポーカーにルーレット、スロットにバカラ。ディーラー相手に真剣に挑む者、機械相手に一喜一憂する者、人それぞれだ。

 私はルーレットに挑戦してみた。なんとなく一番カジノっぽいかなという理由で。

 赤か黒か。その二択は調子が良かった。だが、人間欲を出すといけない。四点がけ、二点がけなどを始めたのが悪かった。私の予想する数字には一切かすらない。ま、遊びのつもりで楽しんでいるのだから、それはそれでよしとしよう。

 ちょっと悔しいけど。

 時計を見て気付く。かなりの時間が過ぎていた。

 いつもの場所に彼女はいない。しくじった。微妙にカジノで負けたより悔しいかもしれない。


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