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風来歯科医の航海日記  作者: 時田柚樹
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5月21日

五月二十一日 曇り

「おはよう、千早」

「レベッカさん、おはようございます。曇りのせいか、今日は肌寒いですね」

 うーん、一日の始まりがライラでなくなったのは、少し残念かも。

「本当ね。ベイカー夫妻のようだわ」

「ベイカー夫妻?」

「ええ。昨日の夜、カジノでマークが熱くなりすぎちゃったみたいで、キャシーと仲たがいしたのよ」

「……そうなんですか」

 何と言えばいいのだろう。

「おはよう。ご機嫌いかが?」

 通り過ぎる人達に朝の挨拶をしながら、熱心に二人の様子を話してくる。

……もう、数分。困った。

「それでね……」

 ため息を出さないようにするのが精一杯。

「おはようございます」

「あ、ライラ。おはよう」

「少しよろしいでしょうか?」

 渡りに船。

「ああ。すいません。話の途中ですが、失礼します」

 最初の一言は笑顔でライラに。残りは、すまさそうにレベッカに。

「あら。話しこんじゃって、ごめんなさいね」

 彼女は足取りも軽く、プロムナードをどしどし歩く。やっと、解放された。

「どうしたの?」

「あ、えーっと……。今日は少し寒いので、ハーブティーはいかがかと……」

 思わず苦笑した。

「そうだね。温かいの頼むよ」

「はい。では、後ほど」

 ライラは船内に戻っていく。

「ライラ」

「はい」

「ありがとう」

 はにかんだ女性は可愛らしい。


 昼食後、船医に声をかけられた。

「おおっ、渡辺さん。丁度よかった」

「小川先生」

「ちょっと、お力添えを願えませんかのぅ」

「はぁ……」

 私はそのまま、医務室へ行くことになった。

「この患者さんなんだけどね」

 先生はカルテを見せて来た。

「あ、あの。一応それ個人情報じゃないんですか?」

「まぁ、そうじゃな。で、これなんじゃが……」

「いや、あの、だから……」

「おや? 歯科医というのは嘘で?」

「や、確かに私は歯科医ですけど」

「でしょう? で、これ、この口の腫れ具合が虫歯には見えないんじゃよ。こういうのって、よくあることなのかな?」

 写真を見せられた。

「実際に見てみないとなんとも言えませんが、虫歯じゃなくとも口が腫れる原因はいくらでもあるでしょう。先生の方がご存じじゃないですか?」

「うーん、そうなんだけどねぇ。本人が虫歯だって言い張るし、僕が口の中見てもはっきり虫歯はないって言いきれないし」

 ため息。あきらめた。

「では、この方を呼んでください。一緒に見てみましょう」

「ほっ、そうかの? いやー、良かった。良かった」

 タヌキ親父だと思った。

 患者さんの口の中は、健康そのものだった。で、患者さんの話を聞いて、先生と話し合った結果、ただの肩コリと判明。慣れない旅行で筋肉が硬くなっていただけのこと。

「ほっほ。口の中は全くの素人ですからな。違うと思っていても、確信が持てんかったんじゃよ」

「先生はいつもお一人でここに?」

「看護師が二人おるよ。交代制でね。今は僕がいるし、丁度交代の時間じゃから二人してお茶でもしとるんじゃないかの」

「いつお休みになるんですか?」

「夜。起こされることも多々ある。それも、なんでもないような病状でのぅ」

「大変そうですね」

「まぁ、その分、寄港したときは、それなりに街を楽しんどるが」

「上陸OKなんですか?」

「スタッフは交代で休みを取っとる。僕らは、あまり遠くなく、連絡が取れるようにして、看護師が待機してれば。その他の時間は、こうして一人で将棋の奥義を究めようと研究中というわけで……。渡辺さん、指せるかね?」

「はぁ。動かし方がわかる程度ですけど……」

「ふむ。一局どうかね?」

 特に用事もないし、付き合うことにした。

「王手」

 一局目の投了が早いこと早いこと。これだけ差がつくと悔しくもない。

「待ったするかね?」

「や、どうせならもう一局。ただし、先生は飛車角抜きで」

「ほっほっほ。何なら金も抜いてもいいが?」

「では、お言葉に甘えて」

 やっと、互角に試合が出来そうだ。

「先生。絆創膏いただけますか?」

 カチャっと遠慮がちにドアが開いて、ライラが入って来た。

「怪我をしたのかね? 見せてみなさい」

「あ、いいえ。私ではないんです。持ってきてと頼まれて」

 なんか、私がホッとした。船医は「ほい」と絆創膏を渡した。

「あ、千早さま。ご気分がすぐれないのですか?」

「ん? いたって元気だよ。先生と将棋を楽しんでる最中だ」

「あら。お邪魔をしてしまいまして、申し訳ありません」

「丁度、一局終わったところ。早すぎて良かったよ」

 ライラは、「頑張ってください」と笑いを含んだ声をかけて去った。

「うーん、負けたのがバレバレか」

 駒を並べ、早速第二局。

 船医も笑いながら言う。

「君の知り合いかね。頭のよさそうな娘さんじゃの。日本人ではなくても将棋を知っとるのがその証拠じゃ」

「そうですか?」とは言えず、「彼女はよくやってくれます」とだけ言った。

「先生、この船は長いんですか?」

「そうさなぁ、それなりに長いと思うよ。最初は十年近く前かのぅ。前の医師、船酔いがひどくて使いものにならん言うてな。僕も当時は、陸に上がるとホッとしたものじゃが、今じゃ早く海に出たいと思うようになった。海はいい。うん」

「クルーの皆さんも、いい人ばかりで」

「本当に皆、仲がいい。僕はかなりの年配者になるが、時にはフレンドリーに、時には尊敬の念を込めて接してくれるよ。特に部門ごとの結束力はスゴイ」

「大型客船だと航海も長いから、家族のような関係になるんでしょうね」

「家族、か。うん、家族のようだね」

 先生の指が、私から取った飛車をパチリと置いた。

「王手」

「……嘘でしょ?」

「ほっほっほ。飲み込みは悪くなさそうじゃから、実戦を繰り返せば強くなる可能性大じゃよ」

「親父さんは強いんです。もう少し習っておくんだった」

「ほっ。日本に戻ったら、渡辺さんのお宅へ実習に行こうかなぁ。親父さんも歯科医なんじゃろ? 歯科医師としての腕と、将棋の腕を見に」

「ぜひ、そうなさってください。親父さんも強敵に喜びます」

「その前に、また相手をしてくれると嬉しいがの」

 私たちは気持ちよく、それぞれの持ち場に帰った。


 今日のディナーにマークは来なかった。キャシーに聞くのが良いのか悪いのか……。

「ご主人は、まだご機嫌斜めなのね」

「すみません」

 うわっ。レベッカがストレートに聞いてる。年配ご婦人の特権か。

「謝らなくてもいいわよ」

 キャシーは小花のように笑った。目が少し赤いが、気付かないふりをしよう。

 今日の夕食。私は張り切ってしゃべった。部屋はひとつなんだから、彼女は帰ったら気まずい雰囲気なんだろう。食事中だけでも、楽しくいて欲しいと思ったから。


 シアターで『White×Black』を見る。最高だった。

主人公の強さ、タフさ、そして孤独さ。男はやっぱりこうでないと。

ハードボイルドに必要なもの。それは、闇とカクテル、そして背中だ。そう思い、『グレナデン』へ。

綺麗なピアノの旋律は、最高の演出で迎えてくれた。主人公になりきった私は、カウンター越しに彼と同じものを注文した。

「マティーニ」

 格好いいのはたぶんそこまで。チビチビとグラスに口をつけている時点でアウトなんじゃないかと思う。

 L字のカウンター向こう側、少し年配のレディが紅いカクテルを飲んでいる。色彩に魅かれ、碧い目のバーテンダーに注文してみる。

「あの女性が飲んでるやつなんだけどね」

「グレナデン自慢のオリジナルカクテルです」

「飲んでみたいな」

「あれはアルコール度数もさることながら、甘さも結構きついですよ? 女性には受けるんですけど。それでもよろしければ、私も自慢の腕を披露します」

「お願いするよ」

 アルコールにはちょっと弱いけど、甘さは問題ない。私が頷くと、櫛の通る隙間もないくらいピチッとしたオールバックのバーテンダーは、材料をシェーカーに入れていた。

「……日本酒を?」

「ええ、初代バーテンダーが日本人で、彼のオリジナルを採用していますから」

 そう言って、一つ一つ材料を教えてくれた。

「日本酒、コアントロー、ライムジュース、蜂蜜、そしてグレナデンシロップ」

 軽くシェイクされグラスに注がれた液体は、綺麗な柘榴色。

「オリジナルカクテル『ジャパニーズ・レッドムーン』です」

 目の前に置かれると、ダークなライトの中で夕陽のように煌めいて見える。

 チビっと一口飲んでみる。蜂蜜の甘さが効いたフルーティな喉越し。日本酒独特の香りが多少あるが、悪くない。

「これは癖になりそうだ。この味、好きだなぁ、私は」

「ありがとうございます」

 バーテンダーは嬉しそうに目を細めた。

落ち着いて音楽に耳を傾けながら、ふと思う。いつもより一時間遅い。こんな時間にも彼女はいるのかと。二杯目を飲んだら、日課を遂行しようと決めた。

「ハードボイルドには美女と謎も外せないな」

 と、変な納得をしながら。


 酔った勢いというのは恐ろしい。

なんと、今日は彼女に近づいた。それだけでなく、声まで掛けた。

「すみません」

 尋ねた。が、反応なし。どうしようかと悩んだが、再びトライ。

「失礼」

 彼女は振り向きもせず、同じ態勢で空を見ている。

 こ、これは……俗に言う『無視』。

 よく見ると耳にイヤホンが。コレのせいか? 中断してくれるかどうか。

 ……明日頑張ろう。夜の風は、私を応援してくれなかった。


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