43 文化祭(中編)
交代の時間を三分遅れて到着したぼく達だったが、怒られることはなかった。何故なら一年四組の生徒はぼくと百太郎くんの遅刻よりも技術室手前の廊下、そのど真ん中で対峙する男二人に気を取られていたからだ。あまりにも緊迫した空気に誰もその廊下を通行できず、距離を取っている。相手が知り合いでなければすぐ串山先生を呼んでいたのにと思いつつ、ぼくは今にも殺し合いを始めそうな雰囲気の二人に声をかけた。
「八雲さん、土竜さん。そこまでですよ」
ぴくっと彼らは反応し、同時にぼくを見た。相変わらず手にはシャベルとメスを装備している闇医者と探索屋。何故この人達が杏落高校の文化祭にいるのだろうか。とりあえずぼくは百太郎くんに「受付はよろしく」と言って、八雲さんと土竜さんの袖を掴んで歩き出す。向かうは一年四組の教室。生徒の荷物や着替えなどが置かれ、関係者以外は当然立ち入り禁止だ。誰も見ていないことを確認し、ぼくは二人を教室に連れ込んだ。
「一体何をやってるんですか」
声を張り上げたいところだったが、誰かに見つかると面倒なため堪えた。土竜さんは何も言わず窓際の方に行き、八雲さんは剣呑な目つきで彼を一瞥する。
「お前の通っている学校が文化祭だと知ったからね。せっかくだからと行ったみたところでこいつと鉢合わせたんだ」
「だからって喧嘩しないでくださいよ。生徒も他のお客様も迷惑します」
「それは悪かったよ。でも私と土竜のこれは、もう反射みたいなもので――」
突然八雲さんが一本のメスを土竜さんに向かって投げた。とんでもない速さで飛んでいったそれは、土竜さんの顔面を掠めるようにして窓の枠に突き刺さる。よく見ると土竜さんは喫煙しようとしていたらしく、右手に持った煙草を口元に近づけていた。今のメスで切断されたのか、煙草は半分くらいの短さになっている。
「何しやがる八雲」
盛大に舌打ちをし、土竜さんは使い物にならなくなった煙草をごみ箱に放った。八雲さんを睥睨する目つきは高身長であることも相まって、ひどく威圧的だ。しかし八雲さんは冷ややかな表情で睨み返す。
「それはこっちの台詞。子供の教室でそんな有害物質を取り出すなんて信じられない」
再び喧嘩が始まりそうな雰囲気に、慌ててぼくは二人の間に入った。
「この教室で、学校で、喧嘩するのは駄目ですよ」
「……愛織。お前よく俺達のことに首突っ込むようになったのう」
「子供のお前に大人の喧嘩が止められると本気で思ってる?」
「思いません。思いませんけど、一時的に考え直させます」
犬猿の二人が視線を合わせ、そしてまたぼくを見た。何をするつもりだと問う目で。
「喧嘩する二人の間に無理矢理入り込んで、二人が止めるまで邪魔することならできます」
「………………」
「………………」
彼らは一瞬だけ目を見開き、それから眉を寄せ、ひどく悩ましい表情になった。何故こうも反応の似ている二人の仲が悪いのか未だにわからない。もしかしたら同属嫌悪なのだろうか。閉め切った教室の外から賑やかで楽しげな声が聞こえてくる。しばらく二人とも押し黙っていたが、土竜さんが先に口を開いた。
「愛織なら本気でやりそうじゃけんのう」
それだけ言うと短髪をがしがしとかき回しながら教室を出ていった。扉が完全に閉まってから、八雲さんは呆れたような顔で嘆息する。窓の枠に突き刺さっていたメスを回収して、またぼくと向き合った。
「悪い子じゃないけど馬鹿な子だね、お前は。私とあいつが本気で喧嘩してる間に乱入したらどんな傷を負うと思う?」
「さあ」
「擦過傷、打撲傷、切創、刺創、裂創は当然。下手したら爆傷も負うだろうね」
「爆傷って……手榴弾でも投げ合うんですか?」
「場所と準備による。あと投げ合うって表現は語弊があるよ。使うのは私だけ」
「………………」
どちらにせよ、それは最早喧嘩ではなく戦争だ。
「わざわざ土竜さんと喧嘩するためだけに爆発物を購入するなんて」
「誰が購入するって言ったんだ。私が自分で作るに決まってるだろう」
「……え?」
「何、そのおかしな顔。弾丸を撃ち出す発射薬、爆風を発生させる爆破薬、容器の破片を高速度で飛散させる炸薬、ロケットに使われる推進薬――これら全てが加工品として数えられている火薬だという常識を知らないのかい。爆発物はこういった火薬が使われて製造されてるんだよ」
出来の悪い生徒に教え諭すような口調で、八雲さんはそう言った。
ぼくは以前よだかさんが言っていたことを思い出した。八雲さんは薬がつくもの全てのプロフェッショナルだ。発射薬。爆破薬。炸薬。推進薬。火薬、つまり薬品。薬が関係する兵器製造なんて、彼にとっては余裕の許容範囲内なのだろう。恐ろしい人だ。
「土竜は本気でやりそうって言ってたけど、どう? 私がメスや薬品入りの注射器以外に爆発物まで扱うと知っても愛織は私達の間に割って入るつもり?」
「はい。それが必要だと思ったときには」
「やっぱり馬鹿な子」
「思い上がってるわけじゃないですけど、八雲さんも土竜さんもぼくが間に入ったら止まる、んじゃないかって思ったので……。だって結局どちらも優しい人ですし」
ぼくが傷だらけになっても止めることをやめようとしなければ、二人とも折れてくれるのではないかという期待がある。八雲さんも土竜さんも、通行人を直接巻き込むような喧嘩はしていないのだから。
「ああ、もう」
八雲さんがふいっと背を向けてしまった。そのまま教室を出ていくのかと思いきや、扉を開ける寸前で手を止める。
「変に計算高くなったね、愛織。私も土竜もお前に理不尽な暴力を振るえないことを見越したうえで、身体を張って変な抑止力になろうとするなんて」
「ええ。ぼく、馬鹿な子供ですから」
「わかったよ。もう校内ではあいつと何もしないから」
「ありがとうございます」
ぼくは八雲さんが出ていった後で技術室前に駆け足で戻った。机を三つ並べ、床に玩具のジャック・オ・ランタンをいくつか飾った受付の席。そこで吸血鬼の仮装をした百太郎くんが待っている。詰襟を脱いだ上から裏地が赤い艶やかな黒のマントを羽織り、白いジャボタイをカッターシャツの襟につけ、さらには普段無造作にしている髪を大人っぽく撫でつけるように整えていた。
「どうしたの、その髪型」
「吸血鬼の仮装する男子は皆こうするんだってよ。知らずに選んだら衣装係の女子からワックスを差し出された。あんまりこういう髪型したことないんだけど……似合う?」
「すごく似合ってるよ。いっそその恰好で宣伝に行った方がよかったかもね」
「めーちゃんも早くこれ着ろよ。俺が無難なの選んでおいたから」
渡された衣装は魔女のものだった。竜胆色のレースリボンを巻いた黒い大きな三角帽子、床に裾がつくくらいの黒いローブ。ぼくは制服の上からそのまま身につけ、百太郎くんの隣に座った。教室の中からは何人もの悲鳴が、教室の外でダック・アップルに挑戦する人達の笑い声と対照的に響いている。
「なあ、めーちゃん。さっきの人達は?」
「今それ訊くのか。てっきりもう流されるのかと」
「訊かない方がいいのかと思ってたんだよ。あんな殺気出してる大人と中学生を仲裁するなんて、尋常じゃないだろ」
「二人とも二十六歳だよ。あんまり人には言えない仕事をしてる人達」
「へえ」
「ぼくにもよくわからないんだけど、出会ったら戦闘開始するくらい犬猿の仲なんだって。でもさっき説得してきたから大丈夫。もう校内では何もしないみたい」
「…………なんか、めーちゃんって本当変な磁力持ってるよな」
「磁力?」
「周りに特殊で奇妙な人間を集める磁力。前に琴太郎も言ってただろ」
「ああ、うん。そうだね」
「あの人達との関係は深く聞かないことにする。ところで、この前言ってたオツベルさんとはどうなんだ? ここに誘ってみたらよかったのに」
「浮気云々言ってたのはどこの誰だよ。一応誘ったんだけど、もう死んだから」
「ふうん」
百太郎くんは欠伸をして、机の上で腕を組んだ。新しい客が来ることなく二十分が経過したとき、突然廊下の向こうから大勢の足音とざわめきが近づいてきた。席から身を乗り出して見てみると、人の塊がこちらに迫っている。
「あ、おったおった。おーい愛織ちゃん!」
子供を連れていったハーメルンの笛吹きのごとく、老若男女問わない大勢の人を引き連れて――本人にその意図はないのかもしれないが――むくろちゃんがこちらに向かっていた。思わずぼくは帽子の鍔を両手で掴んで俯く。
「めーちゃん。アイドルからご指名だぜ」
「野外ステージの出演だけで帰るんじゃなかったのか、彼女」
「わっ、お化け屋敷やっとるんじゃねえ。こういうのうち好きよ。あそこにあるたらいの林檎は何なん?」
興味津々といった様子でむくろちゃんはぼくの前に立ち、ダック・アップルを指差す。廊下は彼女についてきた人々で埋まりつつあった。
「ダック・アップル。手を使わず口で水に浮かべた林檎を取るハロウィンのゲームだよ。あれはレプリカだけどね。一回五十円で、三分以内に無事取れたら林檎味のロリポップをあげる」
本物の林檎なら果肉に齧りつけたのだろうが、それができない硬いレプリカの林檎はまだほとんどの人が取れていない様子だ。
「何それ楽しそう。やりたい」
「いけません」
きっぱりと言い切ったのは、あの黒スーツにサングラスの男だった。彼はむくろちゃんのマネージャーなのだろうか。
「むくろさん。あなたはもっとアイドルの自覚を持ってください。顔を水につけては化粧が落ちて髪まで濡れます。それに見ている限りレプリカの林檎は洗って、たらいの水も適度に新しくしているようですが、あなたが挑戦した後の林檎や水が誰の手にも渡らない保証はどこにあるんです。以前楽屋のごみ箱が何者かに持ち去られたことをお忘れですか?」
「うぅ……わかったよ。じゃあ、お化け屋敷だけ入る」
むくろちゃんが男と料金を払い、一緒に技術室の扉を開けて中に入っていく。すると恐らくファンや野次馬だろう人達がどっとぼく達の前に押し寄せてきた。
「これはすごい大盛況になるな」
「むくろちゃん効果、すごい」
結局ぼく達は交代時間になるそのときまで、止め処なくやってくる客の対応をし続けた。




