初戦
短編と称しておきながら二回に分ける羽目になりました。申し訳ない…。
そして、短編用だったので設定はいろいろ割愛。
少しでも楽しんでいただければと思います…。
いろいろ…ごめんちゃい。
これからお話しするのは、ドルウェルという国の鬼神と呼ばれた将軍と、鬼姫と呼ばれた少女の物語でございます。
鬼神と呼ばれた将軍の名はダクラス様。鬼姫と呼ばれた少女の名はシンディー様と申されます。
奇しくも種類は違えど鬼の通り名を持つ二人。まるで接点のなかった彼らでしたが、何の因果かはたまた宿命か…巡り合わせることによりこの物語は始まるのでございます。
ドルウェルの東方を守護するネルス地方伯家には、二人のご子息と三人のご令嬢がおりました。その一番末のご令嬢こそが今回の主役であるシンディー様でございます。シンディー様は幼少より三度の飯より怪談といたずらが大好きといった少々ズレたご令嬢でございます。
そんな少しだけ変わっているシンディー様が何故鬼姫と呼ばれる様になったのか…、そこには川より浅く丘より低いワケがございました。
それはシンディー様が三歳の頃にまで遡ります。
その頃には既に目に見えない薄暗い話を乳母にせがむ様になっていたシンディー様。それというのも、シンディー様は日中の陽射しに弱く、昼間は家に篭り、日が暮れ出した頃から日が落ちるまでしか外で遊ぶことの出来ないお体であったからでございます。薄闇が常にそばにある状態でしたから、乳母の離してくれる薄暗いお話はとても身近に感じられ、そして何より薄闇になれてしまっていたシンディー様は、子供がしがちないたずらより一歩先の、子供ならばベソをかくようないたずらを多々思いついては実践してみる少しばかりお茶目なお子様でございました。
そんなシンディー様でございましたので、黄昏時とも言える時間に他のお子様がビビってしまうようないたずらを仕掛けているうちに、いつしかご近所のお子様たちはシンディー様に恐れを抱くことになったのでございます。
気がつけばシンディー様と遊んで下さる子供たちはいなくなり、シンディー様と会えば恐ろしいことが起こると噂が立ち、いつの日からかシンディー様はネルスの悪鬼として名を馳せていたのでした。
現在、二十歳になられたシンディー様に今だにつきまとうその通り名を本人はどう受け止めているかと申しますと…。
泣いて暮らすこともなく、日々、自分の部屋の近くの一角を我が城だとばかりに、改築しては肝試しにくる馬鹿な大人子供を恐怖のドン底に突き落としては楽しんででおられました。
ちなみにこのシンディー様がお造りになった一角は肝試しだけでなく、ネルス家の使用人採用時に試験会場として使われていたりしますので、意外と有効活用されております。
体が弱く引き篭もっていても、わざわざイタズラをする方が、来て下さる今の状況はシンディー様にとっては正に鴨ねぎ状態。満足することはあれど不満になることなどなかったのでございます。
そんなシンディー様の住まうネルス家のお屋敷にダクラス様がお訪ねになられたことで、お二人の物語が動き出したのでございます。
「全く、殿下にも困ったものだ」
そう呟きを漏らすのは、他でもない鬼神と呼ばれるドルウェルの将軍、ダグラス様でございます。
熊の様にのっそりとした人より遥かに巨大な体躯は一見そうと見えなくても、筋肉がムッチムチのガッチガチ。もしゃもしゃの髭面をお乗せしたその姿はまさに鬼そのものでございます。
一つだけ言わせていただきますと、ダグラス様はその髭面の髭を無くしたところで、ダグラス様が美青年に変わるといった様なことはございません。むしろ鋭い眼光が増し、いかつ過ぎる顔が全面に押し出されてしまい、気の弱い方は一発で失神なさってしまう程です。
結構硬い質感のお髭を撫で回しながら、ネルス家のお屋敷の前にたつダグラス様。何故この様なことになったのかと、お屋敷を見つめながら思考に浸ってしまいます。
事の起こりは三週間程前でございました。
『なぁ、ダグラス。そろそろ暑くなってきたなぁ』
『はぁ…』
何とも気のない返事を返すダグラス様に話しかけていたのは、ダグラス様がお仕えしているドルウェルの王太子殿下、チェリオ様でございます。
軍の書類を提出しに宰相閣下のもとを訪れたダグラス様の目の前に現れた簀巻き姿のチェリオ様。そして、その隣に黒い怒気を発しながら艶然と佇む麗しきドルウェルの宰相閣下、リディック様。
事態の悪さを察知して、踵を返そうとした矢先にチェリオ様に話しかけられたダグラス様は、必死に舌打ちを噛み殺したのでございます。
チェリオ様はダグラス様を見上げながら、必死の形相で助けを訴えておりましたが、ダグラス様に助ける気は全くございません。
何せドルウェルの宰相閣下と言えば世界にその名を轟かす容姿端麗にして頭脳明晰、その上王位継承権二位のお方。そんなお方に、将軍といえどダグラス様が逆らえるはずがございません。後からネチネチネバネバと嫌がらせをされるのが目に見えているのですから。
頭を使うより体を使いたいダグラス様にリディック様の嫌がらせは耐えられないものがございました。
『殿下、逃げようとは思っておりませんよね?』
ドスの効いた甘いお声のリディック様に、ゾクリと体が震えるお二人。それは決して如何わしいものではなく、明らかに悪寒と呼ばれる類のものです。
『まっ、まさか、まさか!まさかっ!!逃げようなどとはっ!リディックの美しい顔を前にそんな勿体無いことが出来るハズがないだろう?なっ!?ダグラスっ!』
『そ、そうですな。殿下!あっ、閣下、私はこの書類をお渡ししに来ただけですので、後はごゆっくりどうぞっ!!』
涙を浮かべながら言い訳を述べるチェリオ様は完全に目が泳いでおり、ダグラス様に同意を求める時のみ鋭くなるという器用さを見せております。
一方ダグラス様は、そんなチェリオ様に同意しつつ、三十六計逃げるに如かずと保身のために戦線離脱の意を見せます。
『ダグラスっ!!』
チェリオ様が叫ばれます。そのお瞳はダグラス様を逃がさないとばかりに暗く淀んでおります。
そちらを見ないように、サッと身を翻してそそくさと部屋を出ようとなさるダグラス様。
『ヌイィィィイイッ!!ダクラス、確保ぉぉぉぉぉおおおっ!!!!』
『なっ!?卑怯なっ!!』
簀巻きのチェリオ様が天井に向かって声を張り上げた瞬間、ダグラス様の体をぐるぐると締めつける透明な糸が突然現れます。足まできっちり巻かれたそれに、ダグラス様は態勢を崩し、素晴らしい音を立てて仰向けに倒れてしまいました。
倒れたダグラス様にもぞもぞ近づくチェリオ様。伊達に毎日簀巻きにされているわけではございません。器用に背を反らしてダグラス様を覗き込むチェリオ様に、リディック様の片鱗を見えるのは気のせいではありません。容姿はあまり似ておりませんが、チェリオ様とリディック様はきちんと血の繋がった兄弟なのです。
『旅は道ずれ世は情けというよな、ダグラス』
クククッと笑う不気味なチェリオ様の後ろにドス黒い影が差します。
ギギギと音がしそうな程、ぎこちなく動くチェリオ様とダグラス様の首。お二人の視線の先に、美しき魔王が降臨なされていたのでした。
『殿下に、ダグラス殿。そろそろよろしいか?』
相変わらず美しい笑みを貼り付けているリディック様でございましたが、背後に背負っているものが半端なく濃く暗く淀みきっております。
先日失恋したばかりのリディック様。その傷は中々癒えず、お怒りになられた際の怖さは通常の十倍程。
チェリオ様とダグラス様は知らず知らずの内に身を寄せ合い、カタカタと震えるしかありませんでした。
『リッ、リディック…!私が悪かった!!だから、落ち着け!なっ?なっ!?』
なんとかリディック様の怒りを収めようと、ご自分のなさっていることを棚に上げ、宥めようとなさるチェリオ様でございますが、残念ながらこのドルウェルという国で最も最恐なリディック様に太刀打ち出来るハズもございません。国のトップでもあり、チェリオ様とリディック様もご両親である国王夫妻ですら、『あの子を怒らせたら世界が滅亡する』と言わしめた程のお方なのですから。
チェリオ様の巻き添えをくらったダグラス様はというと、デカイ図体を一生懸命縮めて、己の気配を殺そうとしており、そこには鬼神と呼ばれる勇ましい将軍の姿はなく、ただむさっ苦しい男が怯えている姿しかありませんでした。
チェリオ様とダグラス様はこれからどんなお仕置きがあるのかと、青ざめるを通り越し、青紫になりかけた時でございます。
『チェリオ様っ!!』
バーンッ!!と勢い良く扉が開き、チェリオ様とダグラス様に天からの助けが来たのでございます。
チェリオ様のお名前を呼ぶそのお声は、少し低めの色気のある女性の声。扉の先から現れたのは、リディック様と並び立っても遜色のない美しい女性で、チェリオ様の奥方様、メルド様でございました。
『メルド…っ!』
自身の奥方様の姿を見て、喜ぶチェリオ様。そして、その傍で体の強張りを解くダグラス様。
イイ歳をしたお二人が、か弱気女性に、ここまで安堵するのには訳がございます。
メルド様は、見た目こそは美麗でか弱い女性でありますが、実のところ、なかなかご結婚なさらなかったチェリオ様の為にリディック様が死ぬ気で探してこられたおいそれと得ることの出来ない素晴らしい女性なのでございます。
文武両道、末は良妻賢母と名高かったメルド様。
この国で唯一、リディック様と張り合える得難いお方なのでございました。
『リディック殿、そろそろ陛下を返して頂いてもよろしいかしら?』
とても乱暴に扉を開けた人物とは思えない優雅な仕草で、お辞儀をして本題を告げるメルド様。
通常の十倍程の黒過ぎるモノを背負ったリディック様に全く気を負うところはなく、輝いております。
『…なんだろうな。私の目には虎と龍が見えるぞ』
こそこそとダグラス様に耳打ちをするチェリオ様に、ダグラス様が鋭い眼差しで応えます。
(ほんっとにこのバカ殿下がっ!!)
口には出せませんが、視線にその思いを乗せるぐらいは許されてもいいのかもしれません。
メルド様の登場により、事態は好転し、拘束を解かれたお二人は、気づけば暑さとは関係のない汗で全身がビッショリと濡れておりました。
『うむ、まさに怪談。夏に持ってこいの出来事だったな』
ハハハと朗らかに笑うチェリオ様に、拳を叩きつけたいダグラス様の手が震えます。
『リディック、メルドも来たし、私は執務に戻るよ。怒らせて悪かったな。…最近、お前に元気がなくて心配なんだよ、私は。だから、つい怒らせてしまう様なことをしてしまうんだ…。すまないな』
リディック様の肩を叩きながら、心配そうに申し訳なさそうに仰るチェリオ様。
そんなチェリオ様に、リディック様の肩が震え、急速に怒気が収まります。
リディック様は自他ともに認める重度ブラコンでもあります。兄であるチェリオ様に気をかけて頂いて嬉しくないはずがありません。
『次回からはしっかりしてくださいよ、兄上…』
罰が悪いリディック様の素直になれないご様子に、チェリオ様は軽く抱擁すると颯爽とメルド様を伴い、お部屋を後になさいます。
『…ちょろいな』
ダグラス様だけに聞こえた、チェリオ様の呟き。カッと目を開き、チェリオ様を伺えば、ノー天気なチェリオ様の笑みがございました。
そして、去り際に、
『あ、ダグラス。さっきの怪談で思い出したんだが、東の地方伯家に素晴らしいお化け屋敷があるらしい。今度の避暑にメルドと訪れたいので、安全面の確認をして来てくれ。よろしく頼むぞ!』
と、爆弾を投下され、それを聞いていたチェリオ様を喜ばせたいリディック様に、予定を素早く調整されて、現在に至ったのでございます。
(なんだろうな…、この脱力感は)
自国の王太子のバカ具合が全面に押し出された回想に、脱力感が湧き上がるダグラス様は意外と苦労人なのかもしれません。
そうして、何をするでもなく、ネルス家のお屋敷を眺めていたダグラス様。その間、ネルス家のお屋敷の中の人々に不審人物認定されておりましたが、ガチャリと音がして、お屋敷の中から、家令が出て参りました。
「何か、御用でしょうか?」
壮年の白髪混じりのこの家令。ダグラス様のご様子を見ても恐怖にビクつくことはございません。
実をいうとこの家令、シンディー様のお部屋の一角を悲鳴一つ上げずにズカズカと歩き回れる強者でございますので、ダグラス様にしっかりとした外向きの対応を出来るのでございます。
そんな家令に感動を覚えるダグラス様。意外と幼少よりご自分の面構えで傷ついていたりしております。
「あぁ、すまない。こちらのお屋敷はネルス地方伯家のお屋敷で間違いないだろうか?」
家令に軽く挨拶をしてから、確認するダグラス様。門には確かに東領の地方伯に贈られる紋章があるのですが、そのお屋敷はお化け屋敷とは程遠い、咲き乱れた花や緑に囲まれた落ち着いた門構えの綺麗なお屋敷でした。
「左様でございます」
恭しく応える家令に、ここはお化け屋敷かと聞けるはずもなく、どうしたものかと悩むダグラス様。
しかし、王太子がわざわざ嘘を教えるはずがないと、失礼と思いながらも濁しつつ聞くことにしたのでございます。
「私はドルウェルで将軍の位についているダグラスと申す。今回、こちらの東領を王太子夫妻が避暑地として訪れたいと所望され、偵察に参ったのだが…」
「左様でございましたか。旦那様はただいま視察に出かけておりまして、席を外しておりますが、中でお待ちいたしますか?」
肝心なことを言わずに、中に招き入れてくれる家令に、これ幸いと大きく頷くダグラス様でありましたが、ご自身の面構えをよぉく理解しておられるましたので、家令の警戒心のなさに余計な心配をされています。
そんなダグラス様の心配をよそに、家令はダグラス様を屋敷の玄関へと促します。そして、玄関の扉の前に来るとピタリと足を止めて、ダグラス様を振り返りました。
「これより先はとてつもない危険地帯となっております。将軍職をいただいている御方に対して、大変失礼なことではあるのですが、無事に旦那様にお会いになりたいのであれば…決して私の後ろから三歩以上離れないでいただけますでしょうか?」
振り返った家令の言葉が脳き…いえいえダグラス様の耳を右から左へと駆け抜けます。
見るからに手入れの行き届いた屋敷の外観に、家令の言っている意味が理解出来ないダグラス様。しかし、そんなダグラス様のご様子に家令は呆れた様子も見せずに、
「ダグラス様はネルス領を訪れるのは初めてでいらっしゃいますか?」
と尋ねられます。
「そうだが…?」
怪訝に小首を傾げるダグラス様のなんという視界の暴力!しかし、それにダメージを受けることのない家令は真の強者と言えましょう。
「そうでしたか。このネルス領にはちょっとした噂がございまして…」
にっこりと笑う家令に少しばかりビクつくダグラス様でありましたが、殿下の言っていた怪談話を聞けるかもしれないと目をカッと見開きます。
「その噂というのも、私が長年勤めているこのお屋敷にまつわる噂なのでございます」
内心、(キターーーっ!!)と喜ぶのはやはりダグラス様でございます。
「このお屋敷は少々特殊でありまして、一歩中に入ると様々仕掛けがあるのでございます。いつもは、怪我をするような危険なものはございませんが…」
若干言葉を濁し、気の毒そうにダグラス様を見やる家令に、再び小首を傾げるダグラス様。はっきり申しあげて、気持ちが悪いとしか言いようがありません。
「先ほどからお屋敷の前に建っておられたダグラス様に不信感を抱いた者がおりまして…、申し訳ないのですが大変危険な仕掛けを発動させたようなのです」
心底申し訳なさそうに話す家令に、ダグラス様も己の風体を思い出されます。
がっくりと肩を落としたいダグラス様でありましたが、仕方がないとばかりに諦めると、
「いや…。こちらこそ、不安を抱かせるような行動をしたこちらが悪かった。貴殿の指示に従わせていただこう」
むさ苦しい頭を軽く下げて家令に侘びをいれるダグラス様は脳筋(あ、言っちゃった)ではありましたが、きちんと人の意見は聞き入れるぐらいの柔らかさはあるのでございます。
そんなダグラス様に、おやっと器用に片眉を上げる家令でしたが、そのまま申し訳ありませんともう一度謝ると、ダグラス様を屋敷の中へと招き入れたのでございます。
屋敷に入ってから、ダグラス様はきちんと家令の言った通りに三歩以上、家令の後ろを離れることはございませんでしたが、時折屋敷には悲鳴が響き渡ります。
初め、ダグラス様は何事かと足を止めようとなさったのですが、家令がすかさず声をかけ、
「まだ育たない使用人がいたようです。お気になさらずに決して足をお止めしないで下さいませ」
ダグラス様を振り返りつつ微笑まれた瞬間、ダグラス様の脳筋センサーに最近感じたことのある種類の逆らっていけない何かがピンとひっかかったのでございます。
そのまま家令に向かって引きつった笑みを浮かべつつ、頷き返して歩みを止めることはありませんでした。
家令に連れられて、お屋敷の応接間といえるべき一室に通されたダグラス様は、その後屋敷の主人が帰られるまでその場で待つことになったのでありますが…。
突然のダグラス様の来訪に、お屋敷は大わらわのご様子で、家令もダグラス様の対応をすることが出来ずに、一人ぽつんとお部屋に残されたのでありました。
暫く、所在なさげに立ったり座ったりを繰り返していたダグラス様でしたが、時折聞こえる悲鳴が訓練時に聞こえる部下の悲鳴に聞こえ出してきたあたりで、どかりとソファに腰掛けると落ち着きを取り戻してまいりました。
ソファに腰掛けたまま、じっくりと部屋を眺めてから、ゆっくりと目を閉じられたダグラス様は決して寝ているわけではございません。
脳筋といえど、そこは将軍職につくお方です。何も出来ない状況時には自然と体力を温存し、精神力を高めてしまう癖がついているのでございます。
ダグラス様が目を閉じられてから、暫くして、部屋の空気が少しだけ変わり始めました。
ダグラス様が感じたのはまず、部屋の気温の低下でした。
それから、屋敷に響いていた悲鳴がぴたりと止み、鳥の囀りと木の葉がすれる音だけが微かに部屋に聞こえるだけになりました。
そうして…、突然ボタリとダグラス様の方に何かが落ちてきたのであります。
殺気のないそれに、ダグラス様はゆっくりと閉じていた目をお開けになると、ご自分の肩をご覧になったのでございます。
常人であれば絶対に息を呑むか悲鳴を上げてしまうそれは、ダグラス様にとってはなんてことのないもの。
ただそれが纏っていた液体のお陰でダグラス様のご衣裳は肩の部分が真っ赤に染まっていたのでがざいます。
不愉快そうに肩に乗っかったものを掴み上げてまじまじと見るダグラス様は、たった今人を狩ってきた悪鬼のようなご様子です。そして、その時、
『うっ…』
と、どこから息を呑むような声が聞こえてきたのでございました。
声が聞こえてきたほうをじっと見るダグラス様ですが、片手には真っ赤に染まった物体X。そして、片方の肩は真っ赤に染まっております。更には、ダグラス様自身の厳つい顔も相俟って、どう見ても次の獲物に狙いを定めた鬼のようにしか見えないのであります。
ダグラス様の視線の先は、応接間から隣の部屋に移動するための続き扉ではなく、応接間に飾られていた精巧な飾り額に囲まれた一枚の鏡でありました。
じっと鏡を見ていますと、ご自身の厳つい鬼顔と部屋の内部が映されていた鏡が徐々に変化をして、いつしか鏡の奥には長く黒い髪をだらりと垂らし、片目だけがぎょろりと覗いた女がダグラス様を睨んでいたのでございます。
そんな女と見詰め合うこと数秒…。先に目を逸らされたのは、残念ながらダグラス様でございました。心のなしか頬が染まっておりますのは、生まれてこの方女性に縁がなく、初めて女性と見詰め合ったためでございます。
一方、目を逸らされた女の方といえば、ぎょろりと覗いていた瞳をカッと見開かれて、更にダグラス様を睨みつけられました。
『何故なのっ…?何故なのよぉぉぉぉぉっ!?』
バンッと激しい音がしたかと思うと、鏡の中からダグラス様を覗いていた女の顔が鏡の中いっぱいに広がります。
それをちらりと見ては、更に頬を赤く染めて目を逸らされダグラス様のお顔は正しく赤鬼…。
そして、赤鬼は何を思ったか、持っていた物体Xを女に向かって差し出したのでございます。
「こ、こ、これは…、あ、あ、あああなたの、右手だろうか?」
そう、ダグラス様の持っていた物体Xとは血塗れの断裁された、人の右手だったのでございます。
しかし、その右手。実は精巧に作られた、作り物の右手。生身の人間相手に鬼神の名を轟かせるダグラス様にとっては、よく出来た作り物だと関心こそすれ、驚くに値しないものでございました。
そんなダグラス様のご様子に鏡の中の女は更に、怒りを煽られたのか、
『おのれ…この悪鬼めっ!!そこで待っておれよっ!!』
と捨て台詞らしいものを吐き捨てるように叫ばれると、鏡の奥にすっとその姿を隠しました。
残されたダグラス様といえば、女に悪鬼と言われたのが余程ショックだったのか、呆然と立ちすくんでおります。
しばらくしてバタバタと、荒い足音が聞こえて来ますと、突如バーンッと応接間の扉が開かれ、髪を振り乱した先程の女が現れたのでございます。
現れた女に再び頬を染め、顔を俯かれるダグラス様でございましたが、そんなダグラス様を仰天させる出来事が待ち構えていたのであります。
虚しく血塗れの右手を鏡に向かって差し出したままであったダグラス様の片手をはたき落とさんばかりの勢いで押しのけ、ダグラス様の胸ぐらを掴み上げる女。
いつものダグラス様であれば、そのようなことには驚きもしませんが、今回は相手が悪うござました。いつもなら、近づきたくとも絶対にお近づきになれない女性の上にその体は巨体のダグラス様がすっぽりと覆える程の小柄なお方だったのです。
女がダグラス様の胸倉を掴んで、がくがくと揺すっているのですが、普段から鍛えておりますダグラス様はビクリともしません。しかも、掴む胸倉は女からすれば、少し遠く足は爪先立ちになっており、これでは余計力が入るわけもないのでございました。
「なんで!なんで、驚かないのよ!?この唐変木ぅぅっ!!」
俯いたお陰でまともに下から見上げる髪を振り乱した女と目が合ってしまわれたダグラス様は、それはそれは面白いほどにお顔を赤鬼や青鬼に変化をさせております。
はたから見れば、鬼に戯れる怨霊といった感じのお二人でありましたが、そんな二人の中を裂くかのようにいつの間にか女の後ろに忍び寄っていた影から、お嬢様?と声が聞こえた瞬間、女は飛び跳ねるようにダグラス様から離れるとそそくさと応接間から姿を消されました。
「ダグラス様、大変失礼いたしました」
女の背後に忍び寄っていたのは、家令でございました。
「い、いや…」
深く、頭を下げる家令に動揺を隠せないダグラス様でしたが、そのお顔は何故か女の走り去った応接間の扉の方に向いていたのでございます。
次回更新は来週火曜日までに出来るといいなwてへぺろ