プロローグ
ディートリッヒ・オブライアンは眉目秀麗のアルナレス王国の若き公爵だ。
彼が微笑めば全ての女性は失神する。それだけではなく王家の信任も厚く、領地経営も手掛けている事業も彼が公爵になってから全て黒字。そんな彼は独身であるため、未婚のご令嬢は我こそは、とあの手この手を使いどうにか公爵夫人に収まろうと躍起になっていた。
そんなある日、アルナレス王国に激震が走る。あの、ディートリッヒ・オブライアンが結婚したからだ。お相手はなんと、貧乏伯爵家の次女。醜いと蔑まれ、伯爵家でも使用人以下の扱い。しかも庶子。そんな女性と結婚したものだから、ご令嬢達はショックで皆、寝込んでしまった。その中に、既婚のご婦人がいたのは公然の秘密だ。
しかし、ディートリッヒ・オブライアンの周辺はあまりにも変化がなかった。新妻を連れ歩くこともないし、夜会も一人で出席。誰もが羨む公爵家自慢の庭園や温室での茶会もない。
これは何かある、と皆はこぞって噂した。
『使用人以下の扱いだったから、マナーがなっていない。隣を歩かせるのが恥ずかしいのでは。』
『いやいや、恥ずかしいのは容姿が醜いからだ。』
『違う違う、公爵サマはお優しいから、伯爵家での扱いに情けをかけて助け出して差し上げたのた。』
くちさがなく囀る貴族たちは最後には必ずこう言うのだ。
『まあ、愛されていないのは変わらないか。』
哀れな元伯爵令嬢を嘲り、時には下品な噂で卑しめる。その囀りはじわじわと広がり、寝込んでいた令嬢達はまるで水を得た魚のように生き生きし始めた。愛されていない公爵夫人、醜い公爵夫人と社交界で積極的に囀り始めた。
そんな噂もなんのその、ディートリッヒ・オブライアンはいつものように仕事をこなし、いつものように女性たちに愛想よく微笑む。良くも悪くも変わりのない公爵に貴族はなんで結婚したのかと首を傾げ始めた。
この様子では、令嬢を愛していないのは間違いない。だが、離婚をするつもりもなさそうだ。では、なぜ結婚したのだろう。元伯爵令嬢に集中していた噂は次第に、公爵の謎の行動に移っていった。
しかし、一年経ったある日。王家主催の夜会に出席した公爵の隣には一人の女性が立っていた。隣国でしか手に入らない希少なシルクで仕立てられたドレスは、まるで朝焼けのように足元から胸までにかけて見事なグラデーションになっている。デコルテ部分には公爵家名産の繊細なレースがあしらわれており、美しい肌を際立たせていた。艶めく亜麻色の髪を美しく結われ、髪のあちこちにはダイアモンドがシャンデリアの光で角度を変えて輝く。
しかし、そんな様相の中でも一際、目を引いたのはなんと言ってもその顔である。きめ細やかな肌にほんのりと色づいた頬。形の良い眉にアーモンドのような大きく可愛らしい目。瞳は王国では珍しい、湖畔のような澄んだ水色。口角が僅かに上がり、女神のような微笑みを携えている。
男達だけではなく、女達までもが息を呑む美しさである。公爵の隣に立っても引けを取らない美女がいたのか、とざわめきが伝染していく。しかし、一番の衝撃は、公爵が国王に挨拶に上がった時であった。
公爵がこう紹介したのである。
『妻のオリビア・オブライアンである。』と。
マナーのなっていない醜く、愛されていない元伯爵令嬢。使用人のような扱いであった元伯爵令嬢。『あの』元伯爵令嬢なのか。
人は驚愕すると言葉を忘れるのか、あれだけざわめいていた場は静まり返っている。国王でさえ、あまりの事に口をぽかんと開けている。
とても美しいカーテシーをし続けている妻を心配して堪らずといったように公爵は国王に声を掛ける。国王は我に返ると夫人に頭を上げさせた。夫人はまるで花が咲いたかのように国王に微笑みを向けると、またまた声を失っていた。
国王の前から辞すると、人々の視線に気がついたのか赤らんでいた頬はさらに赤くなり、恥ずかしそうに微笑んだあとに公爵の影に隠れてしまった。その様子を見た公爵は嬉しさを隠せないほど愛おしそうに微笑んだ。
その日を境に、公爵は夫人と様々な場所に連れ立ち、夜会には必ず夫人と参加した。どうにか恥をかかせようと教養をひけらかした貴族達だがそれを上回る教養と知識で鼻をへしおり続けた。毎度見事なドレスを着用し、夫人が着たドレスのデザインが流行った。
何をするにも常に一緒で片時も離れない公爵と夫人に、いつしかおしどり夫婦と呼ばれるようになった。きっとこの二人は子が産まれてもいや、きっと死ぬまで仲睦まじいだろう。皆がみな、そう思っていた。
しかし、状況は一変する。夫人が亡くなったのだ。公爵家の小間使いであるマルク・ステードが夫人に横恋慕し心中を図ったのである。公爵家の一室、夫人の部屋に火を放ち豪炎とともに二人は亡くなった。遺体は丸こげで、なんとか女性らしい骨格から夫人であるだろうと判断された。
葬式は、しめやかに行われた。皆がみな悲しみに暮れ、それぞれが夫人との思い出をぽつりぽつりと呟いていた。公爵は茫然自失で立っているのがやっとだ。一人、また一人と教会から去っていき、最後には公爵と夫人の棺のみが残された。公爵は棺に縋りつき、肩を震わせ泣いている。悲痛である。きっと誰が見ても、その公爵の姿に心が痛むだろう。一人を除いては。
教会を少し遠くから眺めている人物がいる。ワイシャツにズボン、頭にはハウチング帽。全体的に薄汚れている青年はツバをくいっと上げ、教会を見上げた。
『ざまぁみろ。』
そう口が動く。口角を上げ笑うと王国では珍しい、湖畔のような澄んだ水色の瞳を細めたのだった。




