第16話: 大丈夫
「最悪のパターンかも」
相変わらずこちらの嫌なことを的確に突いてくる、と評して苦い顔をする。復活時の平静をもってしても抑えきれない嫌悪を滲ませて、目の前の石柱に焦点を合わせないまま目を向けた。
あの怪物が言葉を発せるかもしれない、とは思っていた。
わざわざ人の頭をしているのだ、言語を解していても不思議ではない。ただこれまで出会い頭に命をもぎ取られてばかりいたため、無情なキリングマシーンだと決めつけていた。
奇しくも用いる言語は日本語のようだが、どうにも会話は成立しそうにない。成立させたくない、というのが本音だ。
「人を殺せるって覚悟した後に、これかぁ……」
悪辣な手管に舌を巻きながらか細い息を吐いた。
幸い決意は鈍ってはいないが、なまじ知性のある生物だと把握できた以上、これまで以上に慎重な手段でなければ倒すことは難しいだろう。あるいはそこも弱点やもしれないが……。
「己が希望、ねぇ」
言い残された言葉を口内で弄び、反芻する。名前を知られていたり、揶揄するような言い回しだったのは置いておいて、そんなものは誘拐された当初から変わっていない。
おうちに帰るのだ。帰って、それで――。
「……あれ?」
帰って、何をするんだろう。
冷や汗にじっとりとした不快感が背中を襲う。何か、あったはずだ。
サヨには沢山のやるべきことと、守るべきものと、やりたいことがあったはずで、だけど何も思い出せない。
まるで人生の中核に、ぽっかりと穴が空いてしまったような虚脱感が急に襲い掛かって、立っていられない。
私は、誰かに救われたはずだ。
私は、誰かを守らなければならないはずだ。
私は、何かに、ならなきゃいけないはずだ。
「――っ」
ふと、首に手を伸ばす。締めるように、撫でるように両手でチョーカーを包み込んだ。大事な大事な宝物。誰かから貰ったはずのそれを確かめるように指を動かし、後ろに伸ばして、金具を解く。
心地よい束縛感が身体から離れ、寂寥感に目を伏せた。
チョーカーを手に持ったままゆるやかにスマホを起動する。表示される時刻は既に間に合わなくなったという諦念を感じさせ、それが何なのか分からないまま内カメラを起動して、自分に向けた。
映るのは透き通る雪のような真っ白な肌。劣悪な環境で荒れていて、自慢になった肩にかかる白い髪もぼさぼさで見苦しい。頬も少しこけていて、これでは心配をかけてしまう。
そして、見つける。
首の真ん中辺りで細雪の肌を途切れさせている、縦に抉られた傷跡に囲まれた黒く変色した痣を。
サヨの、紛れもない原罪の痕。今生を儚み、来世を恨んだ後ろ向きの決意。
すっかり記憶から抜け落ちたそれはどこまでも他人のもののようで、だけど湧き上がる罪悪感が卑怯な逃避を許さない。
乾いた喉からは呻き声すら出ず、どうしていいのか分からず持て余す感情に視線がぶれ、握ったチョーカーを捉えた。
縋った手からスマホが落ちて、そんなことは気にも留めずサヨの罪を優しく覆っていたそれを強く握りしめて、存在を確かめるようにじっと見つめ、
「――――はは」
笑いが零れた。
真っ黒のチョーカー、その裏には真っ白なインクで文字が書かれていた。記憶にない筆跡、力強く柔らかな日本語。
『せいぜい縛めになるように マシロ』
「マシロ」
確かめるように口の中で言葉を転がす。記憶にない名前、しっかりと存在しているサヨの人生を狂わせた誰か。
だけどこの人が、彼女がくれた想いはしっかりと手中にある。
これは、私の罪を覆い隠す優しい許しなんかじゃない。
私の罪をいつでも思い出せるように贈られた、厳しくて冷たい咎だ。
「マシロ……」
いくら呼んでも記憶は蘇ってくれない。答えは返ってこない。だけど、今はこれだけで十分だ。
覚束ない指でチョーカーを撫でて、そっと持ち上げて首にあてがう。かちゃかちゃと金具が擦れ合い、もたつく指先が震えてうまく付けられない。ずっと身に着けていたにしては慣れない手つきに自分で疑問を覚え、頷く。
ああ、きっと彼女がいつも着けてくれてたんだろう。
それは想像していたより、ずっと暖かな咎で。
なんとか装着できたチョーカーをもう一度撫でて、締め付けられる首がくすぐったくて身をよじる。
私は、誰かに救われた。
死を望んで、願われて、希われて、未だ生きている。
落としたスマホを拾い上げ、ひとまず液晶にひび割れがないことを確認して汚れを払う。
ずらりと並ぶアプリのアイコン、その内の1つを起動しようとして、やめた。答え合わせは、今じゃなくていい。
「……大丈夫」
私は、大丈夫だ。だから、
「死んでなんか、やるもんか」




