08 選任手続期日5 法廷
「では、やってみましょう」
裁判長はそういって、ドアを開け、法廷に入った。
待つこと1分、右陪席の裁判官がドアを開け、自分はその直後をついていく。目の前に法廷の景色が広がる。ニュースで見る法廷を、逆側から見るとこうなるのか、と思うと新鮮だった。
そして、一番右端を目指し、椅子を引いて立つ。補充裁判員まで全員が入り終えるにはそれなりに時間がかかり、その後一礼して、着席。この後、法廷に入るたびに、この儀式が繰り返された。
法廷に入る練習が終わると、法廷の設備などを自由に見学してよいことになった。
法廷にはディスプレイがいくつも設置されていて、映像音声機器がぎっしり詰まったラックもある。
どれが何の役割をするものかはよく分からないけれど、検察官や弁護人は、持参したパソコンにHDMIのケーブルをつなぐことで、証拠の映像を上映したり、パワーポイントのスライドを表示してプレゼンテーションしたりできる、ということだった。
たしかに裁判官3人と裁判員6人、補充裁判員の1人の合計10人もいると、写真を回して見るのも現実的ではないし、防犯ビデオのような映像だとモニターで見るしかないのだろう。
法廷にこれだけデジタル機器が並んでいるのなら、裁判所だって、やればデジタルができるのだ。
それなら、「調査票」や「事前質問票」もアナログな紙で郵送する方式だけでなくて、オンラインでできればよかったのにと改めて思ったが、デジタル化とオンライン化は違う、ということなのかもしれない。
見学タイムが終わると、再び評議室に戻る。質問があったら何でもどうぞということで、4番の裁判員がまず手を挙げた。
「今日はカジュアルな格好で来たんですけど、やっぱり裁判員として段の上に座るとなると、ジーンズとかは避けた方がよいのでしょうか。ジャケットとかは必要でしょうか」
裁判長が答えた。
「ジーンズで全く問題ありません。むしろ慣れない服で動きにくいとか、ジャケットを着て汗ばんでしまうとか、そうしたことで審理に集中できない方がよくないので、慣れている普段着の方がいいかもしれません。外を歩ける格好なら大丈夫なので、極端な話、半袖Tシャツでも問題ありません」
「座る席によって空調にムラがあるかもしれないので、脱ぎ着で調整しやすい格好だと、よりよいかもしれません。席が冷房直撃だと、半袖では寒い、ということがあるかもしれないので」
左陪席の裁判官が補足した。そうか、スーツじゃなくてよいのか。それは助かる。たしかに慣れないスーツだと、どうしても動きにくくて脇の下などが気になってしまうし、季節柄暑い。続いて補充裁判員が質問した。
「どういう流れで裁判が進むのかとか、そうしたことを全く知らないのですが、この週末に予習しておいた方がよいのでしょうか」
「そのような必要はありません。もちろんご興味がおありなら、予習していただいても構わないのですが、そのような予備知識がなくても、全く問題ないように必要な事柄は都度ご説明しますし、一緒に議論ができるようにしていきます」
これも気になっていたので、他の人が質問してくれてよかった。で、あと1つ、全然本筋ではないけれど気になったことがあったので、聞いてみた。
「法廷に入ったとき、最初にそろって一礼するのは、何かそういう決まりがあるのですか」
「特に決まりでそうしているのではありません。ただ、これから審理に臨むのだという気持ちの切り替えと、裁判の場への敬意、といったところだと思います柔道の選手が試合前に一礼するのと似ているかもしれませんね。ただ、そういう気持ちの問題の話なので、気になるなら礼をしなくても、別に問題はないですよ。」
なるほど、なかなか日本的な理由のようだ。
質問タイムが終わったあと、3つ説明があった。
「皆さんには、審理の予定や、この事件の概要が書いてある紙を、今日お配りしました」
「来週審理が始まると、ご自身でメモを取られることもあると思います。こうした事件に関する書類やメモは、全部評議室に置いていき、絶対に持ち帰らないようにしてください。何かの間違いでなくしてしまったら、大変ですから」
たしかに、プライバシーの侵害とか、色々問題になりそうだ。
「もう1つは、入構証です。今から、首からかけるストラップに入った入構証をお渡しします。これを持っていると、手荷物検査を受けずに裁判所の建物に入ることができます」
これは便利だけど、なくしたら大変なヤツだ。鞄の中の、ファスナーのかかるポケットに大事にしまった。
「最後に、審理期間中のお昼ご飯についてです」
「裁判員、補充裁判員の皆さんには日当が支払われますが、お昼ご飯は支給されません。ただ、裁判所の近くのお店で適当にランチを取るというのも大変ですし、外を歩いていて検察官や弁護人とばったり出くわしてしまうのもどうかというところがあります」
「ご自身で持参される場合はそれで問題ないのですが、お弁当を注文したい方は、自費ですが注文できるようにしています。1食500円のワンコインで、各日のメニューはこちらです」
「今日の帰り際に、こちらの表のご自身の番号のところに、丸印をつけていただけば、初日から準備しておきます」
お昼の心配をしなくてよいのは助かる。さっそく、全部の日に○をつけた。
そうこうしていると、時刻は12時前。3時間前にこの建物に入ってきたときとは、まわりの景色が全く違って見えた。来週は、職務としてここに毎日のように通うことになると思うと、やはり不思議な気持ちだ。
家に帰ったら、何だか疲れてしまって、その日は何もする気が起きなかった。慣れないスーツを着て、気が張ってたんだなぁ、と思った。
この作品はフィクションです。2023年時点での日本の法制度を前提にはしていますが、登場する国名や地名、会社名などは全て架空のものであり、扱う事件も実在のものではありません。