悪意 ①
「おはようごいまーす」
「はい、おはよう」
向日葵の住む町から一駅…………まだ通い始めて間もない学び舎のある駅前で、安全と周囲の目を気にして行われている朝の見回りの教師と挨拶が交わされる。
主に女子が教師に挨拶をし、教師は心底楽しそうにそれを返す。男子が珍しく挨拶をすると、大抵の教師はそっけなく返事をするのみ。教師だろうと、爽やかな朝から野郎の野太い声など聞きたくないらしい。
そんな朝の騒がしい雰囲気の駅を通り抜け、世界と向日葵は例によって肩を並べて登校していた。世界の顔色は相変わらずで、体調が悪いようにしか見えないが、昨日から引き続き、少しだけ饒舌であった。
「忍がパソコンやってる理由? ああ、知ってるぜ。学園生活で一番びっくりしたな。漫画意外にこんな展開が許されるのか? と思ったな」
話題は昨日涼から聴いた五・一五事件。かなり詳しく話してもらったのだが、忍がパソコン付けになった理由はわからないままだし、雪根の世界に対する偏執の理由が知りたかった。その二つはどうも涼には聴きにくかった。
もやもやした気持ちを抱えたまま朝を向かえ、駅前でバイクを止める世界を引きとめて、野次馬根性を丸出しにして世界を質問漬けにしていた。
昨日起こった事は、掻い摘んで…………暴力成分を排除して説明しておいた。
「忍の奴は、剣を持つ理由を失ったんだとよ」
苦笑いしながら、世界は髪の毛を掻き混ぜる。硬い髪質の白髪は、うまく混ざらないようで、気に食わないように舌打ちをする。
少女らしい細い髪をいつも通りにツーテールにする向日葵も、世界の発言に曖昧な笑みを作る。いったいこの二十一世紀の何処の剣を持つ理由があったのだろうか?
「その辺は聞くな」
両手を頭の後ろに回して、「面倒だ」と本音を漏らす。
「じゃあ、雪根さんは何者なのですか」
「あいつね」
忍の話はこれ以上進展しないだろうと見切りを付け、もう一人の人物について訊ねる。
あの切れやすい彼女は、世界への好意を隠すことなく喚いていた。ひょっとするとライバル出現かもしれない。
忍の時とは打って変わって、苦虫を噛み潰したような渋面を作る。
表情と肌の色にピッタリの、魂が抜けかけた返事に向日葵はただ事ではなさそうな雰囲気を感じ取る。
「俺の弟子になりたいらしい……」
「正気ですか?」
てっきり、自分のライバルになりうる存在かとも思っていたのだが、真実は向日葵の想像を悠に超えていた。弟子って。
「本気らしい」
最近はなりを潜めていたんだが……と心底嫌そうに舌を出す。その舌は真っ赤で、彼の顔の中で生気がある珍しいパーツだった。
「なんでそんなに嫌なのですか?」
面倒臭そうな顔をしつつも、こうして話に付き合ってくれる世界は、来る者は拒まずのスタンスのはずだ。心が広いと言うよりは、他者に対しての感情が希薄だからだとは思うが、だからこそここまで嫌う理由が向日葵にはわからなかった。
その質問に、二呼吸置いて口を開き、
「…………姉さんに似ている」
恥ずかしそうに告白する。
「お姉さんですか? へー意外ですねそんな弱点があるなんて」
姉がいる事も驚愕だが、世界に頭の上がらない相手がいる事がそれ以上に意外だった。教師にさえ不遜な態度を取る彼が、姉が苦手だなんて、信じられない。
「どんなお姉さんなんですか?」
雪根に似ているという事は、かなりヒステリックな人間だとは想像が付いた。
が、世界の語る姉像は再び意外なものであった。
「性悪なのか性格が悪いのかのどっちかだな」
その二つの差異なんてわからないが、要するに捻くれているのだろう。だが、目標に一直線の単純そうな雪根の性格とは対極に位置する正確ではないだろうか?
「似てるのは容姿だ。まあ、姉さんのほうが美人だという確信はあるがな」
ちょっぴりシスコン気味に胸を張る世界を横目で見ながら、まだ見ぬ義姉の姿を想像する。
雪根は髪の長い、きっと怒気に満ちていなければ大和撫子に見えなくもない見た目だった。それに世界の姉と言う年齢を考慮し、美人と言う身内贔屓を入れて、最後に捻くれた性格を足す。
大人の魅力溢れる大和撫子。ただし性格に難あり。
最後の一つのせいで、できれば近付きたくない人物になってしまった。と言うか、性格の悪い姉に似ているだけで避けられる雪根に同情してしまいそうになる。
ただし、同情する時間は世界との会話に費やした方が得なので、向日葵が雪根に同情する事はなかった。
「世界君にも苦手意識があるのですね」
「まあな」
「あら?」
短い付き合いながらも、世界の性格なら「うるせー」と悪態を付くと思っていた向日葵は、素直な反応に面食らう。
そんな向日葵を見て、
「弱みが在る事ほど救われる話はないだろ?」
と馬鹿にするように肩を竦めて見せる。
「なんですかそれ」
世界の茶目っ気に再び思考を一瞬飛ばされながらも、世界に食いつく。馬鹿にされたと思ったら引かなくなる、外見に相応しくない頑固さを発揮する。
「前言っただろ、俺は死ねるかどうか不安なんだ」
それで十分だと言わんばかりに世界は向日葵の顔を窺うが、首を捻ることで綺麗なクエスチョンマークを作り出していた。
「自分の弱さを感じる度に、俺はほっとするね。きっと俺は死ねるんだってな」
歩幅は緩めず、目線は前に。声は変わらず、腕は頭の後ろで組んだまま。
それなのにたった一言で、世界は一瞬で手の届かない場所まで行ってしまった気がした。
「……世界君は死にたがりですか?」
躊躇いがちに世界に声をかける。もし、返事がなかったら、そう思うと少しだけ恐ろしかった。
が、
「くっくっく」
返ってきたのは、噛締めた笑い声。苦しそうに笑い出すのを我慢しているいつもの世界。
「なんだそりゃ。俺はみっともないくらい生きたがりだよ」
おどけるように言って、向日葵の頭に右手を乗っける。
「それに、今のは嵐の受け売りだ。あいつが楽しそうに言っていたんだよ、『弱いから俺はようやく生きていけるようになった』って。わけがわからないだろう?」
馬鹿にするような口調とは逆に、世界は姉の話の時以上に楽しそうな雰囲気が体中から漏れている。
一体どんな関係なのか気にもなるが、一週間ほど前にそれとなく聞いたところ、有耶無耶に流されてしまったのも記憶に新しい。聴くだけ無駄だと思い、向日葵は静かに首を横に振る。
間違いなく言える事は、口では悪く言うが、嵐を誰よりも尊敬している。その気持ちだけだろう。
そう言えば涼は昨日、世界の活躍を『暴風雨』と評していた。
これが褒め言葉になるのか侮辱になるのか微妙なラインだが、嵐に憧れる世界にしてみれば、嬉しい褒め言葉なのではないだろうか?
思い切って、その事を世界に伝えると、
「そりゃあ、過大評価だ。もしくは嵐に対する過小評価だ」
皮肉っぽく唇を吊り上げて、やはり嬉しそうな、楽しそうな声で言う。
「俺が暴風雨だったら、嵐は神砂嵐。全てをネコソギにするからこそ、嵐なんだよ」