悪意 ②
楽しい時間と言うものは、アインシュタインの例えを持ち出す必要がないくらい早く過ぎ去っていくものだ。高校の最寄り駅を出て、早二十分。既に視界には校門が見えており、向日葵至福の登校時間は終焉を迎えようとしていた。
「あ、忍君だ」
と。大きく開いた門の隅に、向日葵は長身に陰気な影を落とす忍の姿を見つけた。世界の方を見ると、「挨拶していくか」と問われ、断る理由もないので、首肯を返す。
「珍しいな。忍。いつも遅刻ギリギリなのに」
片手を上げて、比較的愛想良く世界は忍に近付いていく。向日葵も昨日のお礼にと、世界の背中を追いかけていく。
相変わらず手にした携帯端末のディスプレイを眺め、二人を見ないまま、忍はうんともすんとも言わない。忍は「すん」なんて冗談でも言わないだろうが。
「おい。どうしたんだこんな所で」
目の前に立っても、指先以外動かす素振りのない友人に、世界が不審そうに話しかける。雰囲気からして誰かを待っている風なので、世界を待っていると思ったのだが、そうではないのだろうか?
「日向向日葵」
そうではなかった。忍が口にしたのは、予想外の人物の名前だった。
「無視かよ」
世界は拗ねたように呟き、
「は、はい」
向日葵は慌てて返事をする。
何で向日葵なんだ?
何故私なのですか?
お互いに首を傾げながら、忍の顔を見上げて言葉を待つ。向日葵の上目使いはともかく、世界のそれはただ単に睨みつけているだけで、凶器そのものだった。見る人が見れば、カツアゲのワンシーンと勘違いするだろう。
当然脅迫されているわけでもない忍は、大物司会者のように余裕たっぷりに間を持たせた後に口を開く。
「今日は帰れ」
平坦な抑揚のない台詞は、待たせた時間に反比例するほど意味不明だった。
忍流のジョークだと思いたいが、二人を見ていない瞳は真剣そのものだった。画面を見ているのだからその真意は一向にわからない。
そんな忍と、間違い探しをしている表情の世界を交互に見比べて、どちらも喋りそうにない事を確認した後に、向日葵は溜息をつく。
「えーっと? 何の話ですか?」
話を広げられる人間が自分しかいないことを呪いながら、忍の発言を促す。
「サボタージュしろ」
フランス語を使った説明を受けて、二人の頭の中は更に『?』マークで埋め尽くされる。
フランス語がわからないのではない、忍の言いたい事がわからない。
「順を追って話をしろ。後、その中途半端な無口キャラを止めろ」
イライラと個性にまで文句を付け始める世界。その赤い瞳に恫喝された忍はようやく手に持っていたパソコンを学生服にしまい、向日葵だけを見つめる。
この二人、本当に友達なのだろうか?
「堀田雪根が、昨日の夜、街中で怪我をした」
だからどうした。と蚊帳の外に追いやられた世界が合いの手を入れる。実に友達っぽいやり取りに表情を崩す向日葵。
「右腕の骨折をしたそうだ」
その一言に、二人の表情が凍り付く。
昨日、あれだけの言い争いをしたと言えど、知っている人間が傷つくというのは気持ちのいいものではない。
「それに親七功兵の件。鬼頭教諭の事故」
更に、二言ぼそりと情報を付け足す。
完成形を知らずにジグソーパズルに取り掛かるような徒労感だけしか忍の台詞になく、世界は腕を組んで呆れる。
「要領を得ねーんだよ」
その台詞に忍は短く息を吐くと、一切の表情を変える事なくようやく結論を述べた。
その言葉を、忍は言いたくなかったのかもしれない。
「三件とも、日向向日葵に危害を加えた、加えようとした人間じゃあないか?」
それだけを言うと、再びパソコンを取り出し、そのディスプレイに目線を落とす。ここから去ろうとしない所を見ると、質問には答えてくれるようだ。
一瞬言葉の意味がわからずに呆けた向日葵は、すぐにその言葉の意味を呑みこむ。
「こいつが、腹いせに闇討ちしたってか?」
皮肉を含んだ物言いで、まず世界が忍に話しかける。
親七巧兵は向日葵を無理やり連れて行こうとした。
鬼頭教諭は理不尽な理由で向日葵への風当たりを強くした。
堀田雪根は弁解なく向日葵に暴力を振るった。
その三人が、漏れなく事故で骨を折っている。これが、偶然なのだろうか?
三人は、誰かに襲われたのではないだろうか?
誰に報復されたのだろうか? その誰かとは、誰だろうか? 決まっている。
忍は答えずに沈黙を守り抜き、世界も反応のない共にそれ以上詰め寄ろうとしない。
「…………」「…………」
「そんな! 言い掛かりですよ!」
誰も喋らないからと言う受動的な意思ではなく、はっきりと沸く怒りから忍に詰め寄る。
「学校裏サイト」
目の前に迫った向日葵に短い返事と、手にしたパソコンを無責任に押し付ける。
「俺の意見ではない。世評と言う物だ」
神知教製のディスプレイには、この二週間の事件全てに関わりがある、その少女の誹謗中傷が嘲り半分に書いてあった。
誰も真剣に向日葵が犯人だとは思っていないだろう。ただ単に、興味本位に思いついた事を投稿するだけ。悪意があるわけでも、敵意があるわけでもない。暇潰しとして、大して話した事もない人間を祭り上げ、喜んでいるのだ。
「おいおい、俺が実行犯みたいに書かれてるぞ、忍」
その内容は世界にまで飛び火していた。凶暴性が噂される世界が常に傍にいた事で、向日葵が世界に頼んで三人を襲ったという、微妙にリアリティのある話まで出来上がっていた。ただ、世界は嬉しそうに唇を吊り上げている。パソコンやらのハイテクに疎いのか、自分の名前がこんな場所に載っている事が新鮮のようだ。面白がって記事の内容を読み上げている。
朝の校門で一つの小さな機械を熱心に眺める三人は、世界の音読が終了と共に一歩ずつ距離を開ける。
「わかりやすい答えが、一番に求められる。真実にさえ見えれば、辻褄など些細なものだ」
中々に恥ずかしい台詞をサラリと忍が向日葵にかける。慰めよう。そんな気持ちはない事だけ十分に理解できた。
その台詞に、向日葵は弱弱しく頷くと、校門を行き来する生徒たちを見る。
誰も、三人を見ようとしない。目が合えば逸らす。こちらを見て、ひそひそと何か、陰口をいっている気すらしてきた。
「世界君、忍君……」
視線を二人に戻し、何とか声を震えないようにして、ぎこちなく笑顔を作る。笑わなければ、きっと自分は泣いてしまう。泣いてしまったら、二度とここにいられない気がしてならなかった。
その震える肩を、
「帰っとけ、一日置けば変わるかも知れん」
世界は思いっきり振り上げた右手で叩いた。ばしん。と大きな音が華奢な体から飛び出し、向日葵は「ひゃう」と悲鳴を上げる。踏鞴を踏んで、転倒することだけは避けたが、周囲の奇異な者を見る目は一層強くなる。
「何するんですか! 痛いじゃあないですか? 折れたかと思いましたよ!」
「辛気臭い面をしやがって。今日は帰れ、帰れ」
今度はスニーカーの蹴りが向日葵の肉付きの薄い尻を蹴飛ばす。しつこく何度も。
「痛い! 痛いです! え? 何? ちょっと!」
きゃんきゃん甲高い悲鳴を上げながら、向日葵は堪らず、
「わかりました。今日は帰ります。帰りますから!」
「よし。じゃあとっとと帰れ」
言われなくても。と向日葵はそそくさと学校とは間逆に走り出す。校門で尻を蹴られ続けるのは別の意味で「痛い」事だった。
今来た道を仕方なく逆走しながら、今の理不尽かつ脈絡のわからない世界の暴力を思い返す。
世間の風評では、粗暴で短気な爆弾のように言われているが、向日葵に取っての彼はそんな存在ではない。
ひねくれてはいるが、自分の一方的な感情で動く人間ではいるが、決して意味なく他人を傷つける男ではない。
「優しいですね」
きっと、泣きそうだった酷い顔を見て励ましてくれた。きっとそうだ、決まっている。女の子の尻に蹴りを加える。いかにも、新里世界のキャラクターだ。と、自分の想像に納得をみせ、向日葵はそう言って微笑む。
その顔に、もう怯えは必要なかった。
「これで良いのか? 新里世界」
向日葵の遠くなっていく背中を二人で眺めながら、最初に口を開いたのは珍しいことに忍だった。手はポケットに突っ込み、膝を折って世界の目線まで頭を下げる。
「十全だよ。よくやってくれた」
高い位置にある肩に手を回し、二度叩く。
「細工は流々って程ではないが、まあこれで様子見だ」




