本当だとしたら
5月10日、午前7時50分。
陸沈は昨日と同じ時間に学校に到着した。教室のドアを押し開けると、中にはまだ半数ほどの生徒しか座っていない。朝の自習をする者、うとうとと眠りにつく者、誰もがそれぞれの5月の朝を過ごしていた。
「おはよう」
隣の席の蘇晴が顔を上げた。彼女のデスクの上には、すでに三冊の参考書が広げられている。彼女はいつもこうだ。正式な授業が始まる前に、まるまる一時間自習する。
「おはよう。今日も早いな」
「当然よ。だって、あと二十八日しかないんだから」
二十八日。蘇晴がその言葉を口にした瞬間、陸沈の脳裏の奥深くを何かが突き刺した。二十八日——昨日は二十九日だった。一日が過ぎ、二十八日になるのは至極当然のことだ。
「おいおい、朝っぱらからそんな堅苦しい話かよ」
背後から声が聞こえ、振り返ると、陳虎がだるそうに立っていた。今日の制服の襟も、相変わらず曲がっている。
「お前こそ、ちゃんと制服着ろよ」
「着てるっつの!」
「ネクタイが緩んでるわよ」
蘇晴が冷ややかに指摘する。陳虎は「細かいこと気にすんなって!」と笑いながら、自分の席へドサリと腰掛けた。この会話すらも、なぜだか見覚えがあった。
「みんな、おはようー!」
教室の入り口から、元気一杯の声が響いた。張磊だ。彼はクラスのムードメーカーの一人で、いつも大声で話す。背は陸沈より少し低く、丸顔に浮かぶえくぼがトレードマークだ。
「よお、張磊! 今日は遅かったな」
陳虎が手を振る。張磊は鞄を自分の席に放り投げながら答えた。
「言うなよ、夕べ遅くまでゲームしてちゃってさ。『突撃小隊』の新ステージ、お前もうやったか?」
「まだだ! 今週末一緒にやろうぜ!」
「決まりだな!」
張磊と陳虎は慣れた手つきで拳を合わせ、それから席に着いた。
彼は昔からこうだ。勉強よりも常にゲームが優先で、成績もクラスでは最底辺をさまよっている。けれど、その明るい性格はいつも教室の空気を和ませていた。
「張磊、あなたも少しはやる気を出しなさいよ」
蘇晴があきれ顔で言うと、張磊はすぐに両手を合わせてお手上げのポーズをとった。
「はいはい、分かってますって。でもどうせあと一ヶ月だし、今更焦ったところで何か変わるわけでもないしさ」
「あんたねぇ……」
「けど、張磊の言ってることも一理あるぞ」
陸沈が会話に割り込んだ。自分でも驚くほど、その言葉はあまりにも自然に口から突いて出た。
この会話の流れすらも、どこかで——
「ほら見ろ、陸沈だってそう思ってんじゃん!」
張磊が途端に調子に乗り、蘇晴は「二人揃って同類ね」と溜息をついた。
その時、また一人、生徒が教室に入ってきた。
劉雨桐だ。彼女はクラスで最も目立つグループに属している。髪を明るい茶色に染め、制服のスカートも規定より少し短く詰めている。成績は中下位だが、明るく人懐っこい性格でクラスでの人気は高かった。
「おはよ〜! あ、陸沈、今日も早いのね」
劉雨桐は陸沈の席の前を通り過ぎざま、ウィンクを投げてよこした。陸沈は少し戸惑いながら、「あ、おはよう」と素っ気なく返した。
「雨桐、今日も派手だな」
張磊が冷やかす。劉雨桐は「派手で何が悪いわけ?」と軽く受け流し、自分の仲良しグループの輪の中へと歩いて行った。
陸沈は彼女の背中を見つめながら、思索に耽った。劉雨桐は確かにクラスの中心人物の一人だ。だが、なぜだろうか。彼女の顔に浮かぶ笑顔にすら、どこか既視感を覚えてしまう。
——どこかで彼女のあんな笑顔を見たことがあるのだろうか?
いや、毎日見ているのだから、見慣れているのは当たり前だ。しかし陸沈は、それだけではないような気がしてならなかった。まるで別の——どこかの情景で、彼女が全く異なる表情を見せていたような。
「陸沈、何見てんだよ」
陳虎がどこか意地悪そうに尋ねる。
「なんでもない」
陸沈は首を振り、自分の教科書を開いた。
◇
第一課が始まった。今日は『社会倫理』だ。担当教師は三十代の女性で、普段から熱意あふれる授業をする。
「公共の責任とは、多数の安定のために個人の犠牲を受け入れるべきであることを意味するのだろうか?」
教師はそう言いながら、黒板にテーマを書きつけた。まさにその瞬間、陸沈の脳裏に、まとまった一文が突如として浮かび上がった。彼ははっきりと覚えていた——それは公共の行動規範に関する三段論法による論述だ。まず社会規範の存在を認め、次にそれが個人の自由と調和することを述べ、最後に——
「……では、皆さんもこのテーマについて簡潔な論述を試みてください。書ける人は、十分以内に書き上げてみなさい」
教師の指示で、皆がペンを走らせ始めた。陸沈は迷うことなく筆を進めた。手の中のペンが紙を滑り、文章が滞りなく溢れ出していく。まるで、かつてどこかで全く同じ文章を書いたことがあるかのように。
「……はい、時間です。どなたか自分の答えを朗読してくれる生徒はいますか?」
教師が問いかける。陸沈は手を挙げた。普段なら絶対に自分から手を挙げるタイプではないだけに、彼自身も驚いていた。
「陸沈くん、読んでみなさい」
彼は立ち上がり、書き上げた文章を朗読した。序盤は社会規範の存在についての分析、続いて個人の自由とのバランス、そして最後には、公共性と私的領域の境界線についての深い考察。
教室内は水を打ったように静まり返った。教師も生徒も、全員が彼の論述に集中して耳を傾けていた。
「……素晴らしいわ。これはもう満点模範解答レベルの回答と言っていいでしょう」
教師がそう口にした瞬間、全クラスから一斉に拍手が巻き起こった。蘇晴は信じられないといった眼差しで彼を見つめ、陳虎は口をぐうの音も出ないほど大きく開けて「すげえ」と漏らし、張磊も「お前、マジかよ……」と呟いた。
陸沈は席に戻り、自分が書きつけた文字をじっと見つめた。確かに、完璧に近い文章だった。自分でもそう思う。けれど——なぜこんな内容が書けたのだろうか?
「……これ、どこかで見たことがあるような」
「次は張磊。この問題を解いてみなさい」
指名された張磊は慌てて立ち上がったが、黒板の内容を目にした途端、完全に固まってしまった。
「えっと……あの……」
「分からないなら分からないと素直に言いなさい」
教師は溜息をついた。張磊は小声で「すみません」と言い、意気消沈して腰を下ろした。その姿を見て、クラスの何人かが忍び笑いを漏らし、陳虎もその一人だった。
◇
「お前、最近マジで神がかってんな」
授業後、張磊が身を乗り出してきた。その目には純粋な驚愕の色が浮かんでいた。
「何か秘密の参考書でも使ってんのか?」
「いや、いつもと同じのだよ」
「嘘つけって! 昨日の小テストだって満点だったろうが!」
張磊の大声に、周囲の生徒たちが好奇の視線を向ける。陸沈は居心地の悪さを感じ、話題を逸らそうとした。
「……ただ、出題のパターンを把握しただけだ」
「パターンねぇ……」
張磊は首をかしげ、それ以上は追求してこなかった。代わりに、別の話題を振ってきた。
「そういえば今日、王輝が『登階考学習会』をやるって言ってたけど、お前行くか?」
王輝——クラスの学級委員長だ。成績は蘇晴に次ぐ二番手で、真面目で厳格な性格で知られている。彼は常にクラスの結束を重んじており、こうした学習会を企画するのも日常茶飯事だった。
「……行くかどうかは、その時の状況次第かな」
「そっか。俺も行こうか迷ってんだよな。陸沈が行かないなら、俺も——」
「お前は行けよ」
陸沈と思わず吹き出した。張磊は少し不満そうに口を尖らせたが、すぐに元の笑顔に戻った。
◇
昼休み。
食堂は相変わらずの人込みだった。陸沈、陳虎、張磊の三人は窓際のテーブルに腰掛けていた。蘇晴は委員長の『学習会』の準備を手伝うとのことで、先に教室へ戻っていた。
「それにしてもさ、お前最近マジで凄くないか?」
張磊は箸で麺をズズッとすすりながら、同じ話題を繰り返した。
「さっきも言っただろ、ただパターンを掴んだだけだって」
「にしても度が過ぎてるだろ。一ヶ月前の模試じゃクラス十五位あたりをうろついてたのに、今じゃ蘇晴と肩を並べそうな勢いじゃん」
張磊の言う通りだ。一ヶ月前——四月の模試では、陸沈の成績は確かにクラス十五位前後に過ぎなかった。
「これが噂の『覚醒』ってやつだな!」
陳虎がニシシと笑う。陸沈は「お前は喋ってないで食え」と返した。
だが——
一体全体、どうなっているのだろう。
その疑問が、彼の頭の中に深く根を張り始めていた。
◇
昼休み。陸沈は一人で屋上へとやってきた。校舎の屋上は普段立ち入り禁止なのだが、彼は「静かな場所で自習したい」という理由で、担任から特別に許可を得ていた。実際には、どこにでも付きまとうあの既視感から逃れたかっただけなのだが。
五月の微風が彼の髪を揺らす。ここに立つと、街全体の風景を一望することができた。
新アトランティス区の灰色の高層ビル群が、薄曇りの空の下でどこまでも広がっている。そしてそのビルの群れの果て——あの巨大な壁の向こう側が、エッジエリア(外縁区)だった。
「……考え事?」
声がして振り返ると、少し離れた場所に劉雨桐が立っていた。手にはチキンサンドイッチを持っている。いつもと違い、彼女は制服のインナー一枚になり、短かったスカートもジャージのパンツに穿き替えていた。
彼女にもこんな学生らしい一面があるのだな、と陸沈は思った。
「……君も屋上に来るんだな」
「たまにはね。静かな場所って、いいじゃない?」
彼女は陸沈の隣に佇み、同じ風景を見つめた。二人の間に、しばしの静寂が流れる。
「今日ついてなくてさ、前から勢いよく走ってきた一年生と正面衝突しちゃって。買いたてのジュース、全身にかぶっちゃった。でもさ、この新作サンドイッチも試してみるといいよ。第二食堂の新作なんだけど、第二食堂って誰も行きたがらないでしょ? でも彼らだって頑張ってるんだから、あはは……」
劉雨桐はくすくすと笑った。その笑い声は普段の彼女とは少し違い、どこか静けさを含んでいた。
陸沈はただ素っ気なく、「……そうか」とだけ返した。
「……さっきの授業の時、凄かったね。あんな完璧な論述、私だったら絶対書けないわ」
「ただの偶然だよ」
「偶然ねぇ……」
「ねえ、陸沈。あなた、最近変わったわよね」
「……変わった?」
「うん。なんて言うか……ものすごく——ものすごく余裕がある感じ。まるで、最初からすべての答えを知っているみたい」
その言葉を聞いた瞬間、陸沈の胸がドキンと跳ね上がった。
「……そんなことないよ」
「そう? でも私には、そんな風に見えるけどな」
劉雨桐はそれ以上追求せず、立ち上がった。
「そろそろ戻るね。また後で」
彼女は手を振り、屋上のドアへと歩いて行った。その背中を見送りながら、陸沈は深い思索に落ちて行った。
——まるで、最初からすべての答えを知っているみたい。
彼女の言葉が脳裏で何度もリフレインする。確かに、最近の自分はそうだ。問題を見れば答えが浮かび、ペンを執れば模範解答が書ける。まるで——何かを記憶しているかのように。
「……けれど、そんなことあり得るわけがない」
彼は低く呟いた。そんな荒唐無稽なことが起きるはずがないのだ。
しかし、彼の心の片隅で、別の声が静かに芽生え始めていた。
——万一、本当だとしたら。
◇
放課後。陸沈は教室に残って勉強していた。
結局、今日は陳虎も張磊も帰宅し、教室には数人の生徒が残るのみだった。蘇晴は王輝と『学習会』の細かい詰めの話し合いをしている。林小雨は後列で何かを書き留めていた。
「……陸沈」
声をかけられて顔を上げると、蘇晴が彼のデスクの前に立っていた。その表情は普段の冷静さとは少し異なり、眉間に何か思索の影を落としていた。
「どうした?」
「陸沈、あなた最近本当に変よ」
蘇晴はどこまでも真剣な眼差しで彼を射抜いた。
「何か、私たちに隠していることでもあるんじゃないの?」
「……ないよ」
「ならいいけれど」
蘇晴はそれ以上追求せず、自分の席へと戻っていった。だがその一言は、鋭い刃のように陸沈の心に深く突き刺さった。
——何か隠していることでもあるんじゃないの?
そうだ、彼は確かに何かを「知っている」。知っているはずなのに、それが一体何なのか思い出せない。だが、己の脳内に確かな「記憶」が存在していることだけは、はっきりと感じ取れた。
問題の答え、論述の構造、そして——あの夢。
「……夢」
彼は呟いた。
あの6月23日の夢。陳虎が落選した夢。あれは本当に、単なる夢だったのだろうか? それとも、何らかの——
「おい、陸沈!」
背後からの唐突な声に、陸沈は跳び上がるほど驚いた。振り返ると、そこには陳虎が立っていた。「あ、わりっ、驚かせたか?」と言いながら、ニシシと笑っている。
「帰ったんじゃなかったのか?」
「忘れ物だ、取りに戻った」
陳虎はデスクの引き出しから小さなノートを取り出した。どうやら本当にこれだけのために戻ってきたらしい。
「そうか……気をつけて帰れよ」
「おう! ……お前もあんまり詰め込みすぎるなよな」
陳虎はそう言って教室を出て行った。その背中を見送りながら、陸沈は大きく息を吐き出した。
——あんまり詰め込みすぎるなよ。
その言葉が、なぜだかひどく重く響いた。
◇
その夜。陸沈はベッドに横たわり、静かに天井を見つめていた。
今日起きた出来事のすべてを思い返す。カウントダウンの数字。
——そのすべてが、目に見えない何かの糸で繋がっているような気がした。けれど、どうしてもその糸を掴むことができない。
彼は目を閉じた。
無明の闇の中で、あの灰色の光景が再び浮かび上がる。
6月23日。判定塔の電子掲示板。
陳虎のスコア。492.5点。
警報音。
『じゃあな』。
——もしあの夢が、現実なのだとしたら?
彼はその考えを強引に振り払おうとしたが、どうしてもできなかった。
もしあの夢が現実なのだとしたら——自分に何ができる? 自分は何をすべきなんだ?
「……馬鹿げてる」
彼は呟いた。夢が現実になるわけがない。そんなこと、起きるはずがない。
だけど——
万一、だとしたら。
万一、自分が本当に「これから起きることをあらかじめ知っている」のだとしたら?
それを確かめる術は、本当にないのだろうか?
彼は目を開けた。カレンダーが視界に入る。5月10日。そして——
「……明日、確かめてみよう」
彼は心の中で誓った。一体何を確かめるのかすら、自分でもはっきりとは分からない。けれど、この違和感を、もう二度と無視することなどできなかった。




