ゼロ
6月8日、午後5時。
「登階考」の最終科目『社会倫理』の解答用紙にペンを置いた瞬間、教室のあちこちから安堵の溜息が漏れ聞こえた。
陸沈は指先で机の上の消しゴムカスを弄びながら、窓の外へと視線をやる。
新アトランタ区特有の無機質な灰色のビル群が、夕日に照らされて歪な橙色に染まっていた。
あのビルの向こう側——境界線のさらに先には「限界区」がある。行ったことはないが、噂だけはよく耳にしていた。居住権を剥奪された者たちが送り込まれる場所。
電力は不安定で、医療も不十分、最低賃金すら保証されない、まさに「直視したくない世界の裏側」だった。
「おい、陸沈! なにぼさっとしてんだよ!」
背後から聞き覚えのある声が響いた。振り返ると、陳虎がニシシと笑いながら立ち上がるところだった。彼の机には相変わらず参考書が山積みになっていたが、どれも買ったばかりのように綺麗だった。それでも彼の顔には、今年一番の晴れやかな笑みが浮かんでいた。
「終わったぞ、ついに地獄が終わった! 今夜はパーッと繰り出そうぜ!」
「終わった、か……」
陸沈は小さく呟いた。
確かに、試験は終わった。この一年間続いた地獄のような猛勉強も、毎朝5時の朝練も、深夜まで過去問に溺れる日々も、すべてが過去のものとなった。
あとは、6月23日の「出窓(発表)」を待つばかりだ。
判定タワーの掲示板に並ぶ数字が、自分の得点とボーダーラインを告げる。すべてはその瞬間に決する。
「ねえ、みんな『基礎構文』の最後の問題どうだった? あの記述、正直かなり厳しくなかった?」
隣の席の女子生徒——蘇晴が筆箱を片付けながら話しかけてきた。彼女の顔には濃い疲労の色が滲んでいたが、その瞳だけは奇妙なほど澄んでいる。
いつもの彼女だ。コツコツと点数を重ね、成績は常にボーダーの20点上をキープする、クラスで最も安心感のある秀才。
「ああ、あれか……まあ、なんとか埋めはしたけど。お前はどうだったんだ?」
「うん、一応最後まで書けたわ。でも時間配分に失敗して、最後のまとめが雑になっちゃった」
「お前の成績なら絶対余裕だって。心配しすぎだろ」
陸沈は苦笑した。
自分としても手応えは悪くない。『基礎構文』も『数理論理』も、過去問の対策は万全だった。少なくともボーダーラインくらいなら軽く超えられるはずだ。
「この野郎、絶対コソ勉してただろ! ズルいぞ!」
陳虎がたくましい腕で陸沈の首を抱え込み、わしゃわしゃと髪を撫で回した。その無邪気な笑顔を見ていると、陸沈の口元も自然とほころんでしまう。
「おいおい、離せよ。汗くさいな」
「はっ! これぞ爽やかな青春の汗だ!」
「どこが爽やかだよ、ただの汗だくだろ」
教室に笑い声が弾けた。窓の外、他の教室からも同じような喧噪が聞こえてくる。
6月8日、17時。
この街にあるすべての高校で、誰もが同時に解放の瞬間を迎えていた。生徒たちは机の上を片付け、教科書を鞄に押し込み、中には何も書かれていないノートを空中に放り投げる者さえいた。紙吹雪のように舞い散る紙屑が、クラスメイトの頭に降り注ぐ。
「今夜はカラオケだ! あと、マキシミリアンのタコス屋! あそこのタコス、マジで絶品なんだって!」
「お前、結局カラオケに行きたいのかタコスが食べたいのかどっちなんだよ」
「両方だよ、ボケ! どっちも譲れねえ!」
廊下では、いくつかのグループがすでに今夜の予定を話し合っていた。端末を取り出してグループチャットに「今夜の計画」を打ち込む音、そして解放感に満ちた軽やかな足音。
陸沈は鞄を担ぎ直し、なにげなく教室の最後列の席へと視線をやった。
林小雨——彼女はぽつんと一人で窓の外を眺めていた。
彼女はいつも目立たず、輪に入ろうとしなかった。挨拶をされれば柔らかく微笑みはするものの、自分から近づいてくることはない。今この瞬間も、周囲の狂乱からふっと距離を置くように、ただぼんやりと茜色の空を見上げていた。
「行くぞ! なに見とれてんだ、陸沈!」
ぽんと肩を叩かれ、陸沈はハッと我に返った。「あ、今行く」
校門を潜り抜けた瞬間、街全体が同じ熱狂の渦に飲み込まれているのを感じる。
通りは制服姿の生徒で溢れ返り、半数ほどはすでに私服に着替えて中心街へと向かっていた。信号待ちの交差点では、肩を組んで大声で笑い合うグループがいくつも見える。ファストフード店からは、何かのコラボイベントの楽曲が陽気に流れていた。
「今日はやっぱり特別だな……」
陳虎が大きく背伸びをした。その視線の先には、新アトランタ区の中心部にそびえ立つ「判定タワー」がある。
タワーの最上部に設置された巨大な電子掲示板には、今日という日も変わらず「登階考発表まであと14日」というカウントダウンが表示されていた。
14日。あと14日で、すべての答えが出る。
「今夜は思いっきり遊ぶぞ! 明日は丸一日寝てやる!」
「お前、志が低いな」
「いいんだよ! もう全部終わったんだから!」
そうだ。すべては終わったのだ。少なくとも、自分たちにできることはすべてやり尽くした。あとは結果を待つしかない。
沈みゆく夕日の下、高3(7)組の38名の生徒たちは、それぞれの足取りでこの街へと散っていった。今夜は何一つ考えない。明日も何一つ考えない。少なくとも、これからの14日間だけは——
それこそが、彼らに残された「日常」の終わりだった。
◇
6月23日、正午12時。
陸沈は自室のベッドに腰掛け、移動端末の画面を食い入るように見つめていた。
指先が微かに震えている。それと同時に、街のどこかで機械的な警報音が鳴り響いた。
判定タワーの頂上——あの巨大な電子掲示板に、一斉に結果が出力された合図だった。
「……来た」
息を呑む。ほぼ同時に、グループチャットに次々と通知が躍り出た。
『出たぞああああ!!!!』
『今年のボーダー……ちょっと待って……』
『何点なんだよ、早く言えって!』
『……493点。今年のボーダーは493点だ』
『俺495! ギリギリだけど超えた!!』
『よかったー!』
『なあ、陳虎はどうだった?』
『……返事がない』
陸沈は深呼吸をし、自分の得点を確認した。518点。問題ない、安全圏だ。胸を撫で下ろす。続いて、知り合い同士で手動で点数を共有できる「連動機能」を開いた。
陳虎のアカウントを検索し、画面が切り替わる。表示された数字を目にした瞬間、彼は目を擦り、二度、三度と見直した。
492.5点。
——判定ラインまで、わずか0.5点。
「……嘘だろ」
震える声が漏れた。
その瞬間、グループチャットの更新がピタリと止まった。数秒の死寂の後、誰かが一行の文章を打ち込んだ。
『……陳虎、落ちたのか?』
返信はなかった。代わりに、新アトランタ区の全世帯へ強制配信される「判定結果通知」が、一斉にすべての端末画面に表示された。
青い背景に、白抜き文字——
『居住権剥奪対象者の皆様へ。閣下の新アトランタ区居住資格は、只今をもって失効いたしました。72時間以内に限界区への移送手続きを完了してください。移送費用は当区が負担いたします』
——その文章の下に、長い対象者リストが添付されていた。そこに、はっきりと「高3(7)組 陳虎」の名が刻まれていた。
「あ……あ……」
陸沈は何か言おうとしたが、声が出なかった。
画面の向こうで、現実がガラガラと崩れ落ちていく音が聞こえるようだった。街のどこかでサイレンが鳴り響く。それは居住権を剥奪された者を強制移送するための、忌々しい警報音音だった。
『おい、陳虎から返信が来たぞ……』
『なんて言ってる!?』
『……『じゃあな』って。それだけ』
チャットが一瞬で凍りつく。
「じゃあな」——たったそれだけの言葉で、すべてに終止符が打たれた。
陸沈はベッドから跳ね起きた。
窓の外——街のあちこちから、悲鳴と叫び声が上がり始めていた。合格者の歓喜の声、落選者の絶望の叫び、そのすべてが混ざり合い、6月23日正午の空気を形作っていく。
「待てよ、陳虎……待ってくれよ……!」
必死に端末を操作し、メッセージを打ち込もうとする。しかし、何を打てばいいのか分からなかった。何を言ったところで無駄だということは、この街で暮らす者なら誰もが嫌というほど理解していた。判定を覆すことなど不可能だ。
それこそが、新アトランタ区における絶対の鉄則なのだから。
『陸沈……あなた、大丈夫?』
蘇晴から個人のメッセージが届いた。彼女の得点は525点、安定の合格だ。だが文字の奥で、彼女の声も微かに震えているようだった。
『……ああ、大丈夫だ』
返信を打ち込みながらも、指の震えは止まらない。
窓の外で、サイレンの音が一段と高く響き渡る。剥奪者を回収するための「移送車」の音だ。あの車に乗せられた者は——
陸沈は再び陳虎のアカウントを開いた。最後のステータスには「オフライン」と表示されている。
——すべてが、終わったのだ。
陸沈は糸が切れたように床へ崩れ落ちた。床が唐突に、冷たく突き刺さるように感じられた。
周囲の音が遠のいていく。蘇晴からのメッセージも、チャットの喧噪も、街の警報音も——すべての音が水底に沈んだように、鈍く歪んでいく。
視界から少しずつ色彩が失われていった。端の方からじわじわと灰色に染まり、やがてその灰色は中心に向かって急速に広がり、すべての色を呑み込んでいく。
窓の外の夕暮れが、まるでモノクロ映画のように色を失っていく。耳元で聞こえていたサイレンも、人々の悲鳴も遠ざかり、ついに——
完全な静寂。
完全な灰色。
——そして、万物が虚無へと帰した。
◇
陸沈はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。見慣れた教室——いや、どこか少し違う。
机の上には教材が積み上がり、黒板にはチョークでデカデカと「登階考まであと30日」と書かれている。窓の外は梅雨の晴れ間の曇り空。吹き込んでくるのは6月の刺すような日差しではなく、少し肌寒い5月の空気だった。
「……あれ?」
陸沈は首を傾げた。なんだかとても奇妙な夢を見ていた気がする。
試験が終わって、発表の日になって、陳虎が——違う、なんだったっけ? 詳しい内容が思い出せない。ただ、胸の奥がずっしりと重かった。理由は分からない。
「おい、陸沈! また居眠りしてんのかよ!」
背後から聞き覚えのある声がした。振り返ると、陳虎がいつものようにだらしなく席に座り、参考書をパラパラと捲りながら欠伸をしていた。制服の襟は相変わらず曲がっている。どこからどう見ても、何も変わらないいつもの陳虎だ。
「……今、何時だ?」
「は? 昼休みに決まってんだろ。『社会倫理』の授業中に寝てたからって、先生に怒られなかったか?」
「『社会倫理』……」
陸沈は手元を見やった。
そこには『社会倫理』の教科書が開かれており、第3章の「公共倫理と個人的責任」という見出しが目に入った。この単元は、確か——まだ習っていないはずじゃなかったか? いや、もう習ったんだっけ? 記憶がどうにも曖昧だった。
「どうしたんだよ、ぼけーっとして。試験が近づいて緊張で眠れねえのか?」
陳虎がからかうような口調で言った。その言葉を聞いた瞬間、陸沈はなぜか奇妙な既視感を覚えた——が、すぐに気のせいだと自分に言い聞かせた。
「いや、なんでもない。ちょっと疲れてるだけだ」
「疲れてる場合かよ! あと30日しかないんだぞ! 死ぬ気でやらなきゃやべえって!」
陳虎はそう言いながら、自分の参考書を「バン!」と景気よく机に叩きつけた。相変わらずのノリだ。
口では「死ぬ気で」なんて言っているが、実際には大して勉強していないのも相変わらずだった。まあ、それでもいい。彼なりのやり方で、なんだかんだ乗り切るはずだ——きっと。
陸沈はそう思い直し、窓の外に目を向けた。5月の曇り空。試験まではまだ遠い。たっぷり30日もあるのだ。なんとかなるさ。そう考えることにした。
さっき見たあの夢のような光景——発表の日、サイレンの音、陳虎の点数——は、すでに頭の隅へと追いやられていた。ただの悪夢だ。
試験のプレッシャーが見せた、よくある悪夢に過ぎない。
「おい、今日の昼飯なに食う? 食堂の新メニュー、タコス風サンドイッチらしいぞ!」
「……お前、頭の中タコスばっかだな」
「大好きなんだからしょうがねえだろ! 行くぞ!」
陳虎に腕を引っ張られ、陸沈は立ち上がった。
教室の最後列の席では、林小雨が相変わらず静かに本を読んでいる。隣の席では、蘇晴が次の授業の予習をしていた。
その時、紙の端が指に引っかかり、一度に二ページ捲れてしまった。彼女は無言で一ページ押し戻した。
「ハラ」と、紙が翻る小さな音が響く。蘇晴の指が止まった。彼女は微かに眉をひそめ、捲りすぎた一ページを元に戻した。
廊下の向こうから、盛快なくしゃみが響いてくる。
「ハックション!」
教室にいた何人かが吹き出した。
「誰だよ今の!」
「絶対また張磊だろ」
何も変わっていない。すべては変わっていないはずだった。
陸沈は、自分が今まさに「二度目」の人生を歩み始めていることに、まだ何一つ気づいていなかった。
彼はどこにでもいる普通の高校生。どこまでも平穏な、ごく普通の18歳の少年。
彼と陳虎は肩を並べて廊下を歩き、さっきの夢を必死に忘れようとしていた。そしてそれこそが、彼が後に深く悔やむことになる——最初の過ちだった。




