神世編 第1節『一念通天』
「私も覚悟を決めました。
お話しましょう――なぜ貴方なのかを」
女神の声は凛と響いた。
感情の起伏はほとんどない。
まるで合成音声のように均一で、冷たい。
「なぜ貴方なのか……それは、とても単純なことなのです」
紅茶を口に運ぶ仕草さえ、無駄がなく美しい。
「単純なことって?」
波琉はつばを飲み込む。
張り詰めた空気が、針の一刺しで破裂しそうだ。
「はい、単純なことです。
貴方は偶然、運が悪く、神世に接続してしまったのです」
その瞬間、伯爵の眉がわずかに動いた。
ただそれだけ。
だが、その“微細な反応”が逆に不気味だった。
「ぐ……偶然?!」
「はい。私が貴方を確認したのは、この数カ月の間です。
その証拠は、貴方の前に現れたでしょう?」
「ちょっと待ってくれ、なんのことだ?」
狼狽する波琉。
思い当たる節が“ないわけではない”。
(まさか……そうなのか?)
「何が証拠かとは明言しません。
ですが、“そう”ですよとだけ伝えておきます」
女神はそこで話を切るように目を閉じた。
「そして貴方の能力……いえ、権能と言っても差し支えないでしょう。
それは、そこの狂人が言ったように――世界を見つめる権能です」
背景に徹していた伯爵が、ほんのわずかに背を丸める。
口の中で、くつくつと笑ったような気配だけが漂う。
音はない。
ただ、空気がわずかに揺れた。
女神も波琉も、その気配を“視界から外す”。
あえて無視するように、問答を続ける。
「世界を……見つめる?」
「はい。世界は伯爵が言うように非常に曖昧なのです。
観測者がどう見るかで、世界は姿を変えます。
昨日の正解が今日の不正解。
そんなことは、世界相手ではままあることなのです」
波琉は息を吸い、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺が観察したこと、俺が観測したこと、俺が確認したことに……
世界が応える、ってことか」
その瞬間――
女神と伯爵の二人が、同時に息を呑んだ。
「その理解で概ねあっています。しかし――」
女神の言葉を、伯爵が静かに継いだ。
「しかし……その結論に至るとは思わなかったよ。
Monsieur波琉、キミは本当に……面白い」
声は穏やかで、優しい。
だが、その奥に潜む愉悦は隠しきれていない。
「それについては同意です。罵倒されるとまで思っていましたから」
女神がふっと微笑む。
初めて見せた感情の片鱗は、息を呑むほど美しかった。
「いや、女神サンが本当のこと言ってないな、とか。
伯爵さんが俺を玩具みたいに扱ってるな、とか……
言いたいことは山ほどあるけどさ」
波琉は深く息を吐いた。
「でも、それは全部どうでもいいんだよ」
女神のまぶたがわずかに揺れる。
「誰かを心配させないために付く嘘は、気にしないことにしてる。
事情があるんだろうしね。
それより――」
波琉は女神をまっすぐ見た。
「その“ケンノウ”ってやつで、俺は健司を救えるのか?
そっちの方がよっぽど重大で、大切だよ」
女神の眼が大きく開かれ、
伯爵は堪えきれず、喉の奥で笑いを漏らした。
「……ふ、は……はは……!
見事だ。
その魂の色、その輝き、その魄の崇高さ……
どれもが実に、見事だよ」
伯爵の声は熱ではなく、静かな狂気に満ちていた。
「伯爵さん、俺はアンタが恐ろしいし、不気味だとも思ってる。
だけど……力を貸してくれてありがとう。
ここに連れてきてくれて、ありがとう」
波琉は真顔で告げた。
伯爵は、笑みを深める。
愉悦が、静かに滲む。
「女神サン、頼む。
力を貸してくれ。
俺に……健司を、友達を救わせてくれ」
深々と頭を下げる。
(あぁ――この魂の色だ。この輝きだ。
剣客も、探偵も、勇者も……
皆が持っていた、この輝き。
だから私は――)
女神の眼に、ほんの一瞬だけ涙が滲んだように見えた。
しかし次の瞬間には、いつもの無表情に戻り告げる。
「観測者・波琉。
貴方が見ようとしている世界は、残酷で、凄惨で、救えないかもしれない。
それでも――」
「かまわない。やってくれ」
女神の言葉に被せるように、波琉は言い切った。
「俺が世界を観測する」
*****
波琉を異能世界線へ送り出したあと、
女神と紳士は静かに席へ戻り、紅茶を口にした。
「しかし……随分と入れ込みましたね」
女神は呆れたような視線を紳士へ向ける。
伯爵は肩をすくめ、穏やかに笑った。
「はっはっは……
まぁ、キミに対して悪かったと思う気持ちも、
“あるにはある”のだろうね」
葉巻に火をつけ、紫煙をくゆらせる。
その仕草は優雅で、どこか芝居がかったものだが、
声は静かで落ち着いている。
「“あの件”は伯爵の領域ではないでしょう」
女神の言葉は淡々としている。
「いやいや。
私は彼を管理者に推薦したという“大罪”があるのだよ」
伯爵は軽く首を振り、
しかし大仰な動きは控えめに、手を広げた。
「彼は、あの件――
神世に“死にかけの生者”を迎え入れた以外は、
非常に優秀な管理者でした。
……彼のその後はご存知で?」
「いいや。過分にして存じないね」
女神は紅茶を飲み、ふぅと一息つく。
「彼は――
奈落の監獄を脱獄したそうです」
伯爵は紅茶を吹き出しそうになり、
しかし寸前で堪えた。
「……それはまた、随分と剛毅だね。彼も」
「えぇ。剛毅と言うか……なんと言えば良いのか……」
二人は、波琉が立ち去った空間を静かに見つめる。
「彼に――」
「――希望あらんことを」
伯爵の声は、
いつになく静かで、優しかった。




