第1話:俺の嫁になれ!
俺はこの女に殺され、回帰した。
今が、二度目の人生に与えられた唯一の機会だ。
(今なら殺せる)
脳裏をよぎる、真紅の瞳。
胸を貫く黒い剣。
炎に沈む王都。
レオンは幹の影で短剣を握り直した。
ここは『水の杜』。
神が最後に息をついたと伝わる聖域だ。
白銀の木々の間にひとりの少女が立っていた。
レオンは息を殺し、大樹の陰から少女を見つめた。
艶やかな黒髪。
腰に提げた細身の剣。
未来で世界を焼き尽くす怪物には、とても見えない。
その時。
霧の向こうで空気が揺れる。
黒い法衣の男たちが三人、少女を取り囲んだ。
「いたぞ。記憶が混濁しているな」
「エルブルースの御名において、『器』を確保しろ」
男たちが跳んだ。
ハルニアは右へ半歩。
それだけで先頭の男の突きは空を切り地面へ転がった。
残る二人が襲う。
少女は沈み、流れ、受け流す。
まるで水が殺意を飲み込むように。
白銀の幹に男たちが叩きつけられ、崩れ落ちた。
三人、沈黙。
剣は、まだ鞘の中だ。
だがハルニアの瞳には勝利の高揚も恐怖もない。
ただ、途方に暮れたような色があるだけだ。
レオンは幹の影で息を吐いた。
その胸元では小さな猫が丸まって震えている。
「プル」
レオンは声を出さず、口だけ動かした。
「出てくるなよ」
覚醒前なのに、この強さ。
胸を貫かれた感触が、悪寒となって背筋を駆け上がる。
肺が冷たい。心臓が、痛い。
──違う。怯えているんじゃない。
殺さなければ、世界が滅ぶ。
三秒。
レオンは目を閉じ、内側を凪にした。
感情を底に沈めていく。
前世の痛みも、死の記憶も、全部。
いくぞ。
地を蹴った。
霧を割って死角へ踏み込み、短剣を振るう。
(左から。喉を狙う)
ハルニアの体が、反射的に動いた。
見ていなかったはずなのに。
半歩退き、刃が喉元を掠める。
白銀の幹の樹皮を削り、静寂の中に乾いた音が響く。
(……届かねぇ!?)
狙いがわずかに低かった。
今の体では、相手の身長を読み切れていない。
ハルニアが三歩退いて間合いを取り、こちらを見た。
「子ども……?」
二撃目。
レオンはすでに踏み込んでいた。
魔力を帯びた動きは人間の限界を超えている。
ハルニアの目がわずかに細くなる。
(速い! さっきの男たちとは次元が違う)
ハルニアはレオンの勢いを柳のように横へ逸らした。
流れに乗せたまま、手首に指を添える。
関節の逆方向へ、鋭い圧。
カラン。
短剣があっけなく手から離れた。
(くそっ――)
武器を失った瞬間、レオンは重心を落として体当たりへ切り替えた。
迷いがない。
武器を失っても、目的を捨てない。
ハルニアの額に、汗が一粒、流れる。
少年の勢いの中へ入った。
体を回転させ、少年の重心が一点に集まる瞬間に――。
投げた。
次の瞬間、レオンの体が弧を描いて宙を舞う。
音もなく地面へ叩きつけられる。
湿った土と泥が飛び散る。
すぐに立ち上がろうとするレオン。
その肩が、みしり、と軋む。
ハルニアが肩に足先を乗せ、静かに体重をかけていた。
「動かないほうがいいですよ」
レオンの動きが止まった。
目が合った。
(違う……)
レオンの知る「災厄」の赤い目は、感情が抜け落ちた虚無だった。
だが、目の前の少女は違う。
紫の瞳。
冷静さの奥に、戸惑いが揺れている。
(人間だ)
当たり前だ。
覚醒前なのだから。
――それがどうした。
まだ詰んだわけじゃない。
しかし。
(こんな顔をしていたのか……)
レオンは知らなかった。
回帰前に見たのは、すべてを焼き尽くした黒竜姫だけだ。
だが今、押さえつけられている肩から伝わってくるのは、かすかな震え。
……殺気が消えた?
少女もまた、少年の目から敵意が薄れるのを感じ取っていた。
「わたしを、殺そうとしましたね」
ハルニアの声が低く響く。
「なぜですか」
レオンは答える代わりに、自分の右手を見た。
震えている。
戦場でも、血で滑る地面でも、この手は一度として震えたことがなかった。
(なんだ、これは。恐怖か?)
レオンは深く息を吐き出す。
考えろ。状況を整理しろ。
奇襲は失敗した。
短剣もない。
では、どうする。
無意識に喉元を二度叩く。
(……手元で、飼い慣らす)
考えたら、可笑しくなった。
世界を滅ぼす災厄を、独り占めしようというのか。
「ふ、はっ、あはは……っ!」
沈黙を破り、レオンは地面に倒れたまま笑い出した。
「降参だ。逃げないから、足をどけろよ」
ハルニアはしばらくその顔を見てから、ゆっくりと足先を退けた。
(頭の打ちどころでも悪かったか?)
怪訝そうに眉根を寄せ、レオンを見下ろす。
突然の哄笑に、正気を疑う色を隠しもしない。
レオンは身を起こし、軽く肩を回した。
泥も乱れた髪もそのままに、ただ座る。
ハルニアは少し距離を取り、倒れた法衣の男たちへ視線を向けた。
「私は誰の道具にもなるつもりはありません」
ハルニアの口調に怒気がはらむ。
腕は微かに震えているのに、視線は逸らさない。
災厄の器と呼ばれ、追われ、襲われた直後だというのに。
「道具にはならない、か」
レオンは呟いた。
(なるほどな)
怯えていないんじゃない。
怯えながら立っている。
「悪くない」
レオンは喉の奥で笑った。
(さて、どう飼い慣らし——いや)
これは、飼い慣らすような相手じゃない。
誰にも話せない孤独を抱えているのは自分だけだと思っていた。
なぜ笑っているのか、自分でも分からなかった。
ハルニアの目には、正気を疑う姿にしか見えない。
(介抱が必要か。哀れな……)
するとレオンは勢いよく立ち上がった。
泥だらけの顔に、社交用の爛漫の笑顔を浮かべる。
張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。
胸を張り、ハルニアの目の前に人差し指を突きつけた。
「お前さ、すっげー強いじゃん。気に入ったぜ」
一呼吸。
「だからさ、俺の嫁になれ! 結婚しよう!」
沈黙が水の杜を凍りつかせる。
「…………は?」
ハルニアの口から、地を這うような冷ややかな声が漏れ出た。
美しい顔が、絵に描いたように引きつっていく。
胸元の小さな猫、プルだけが必死で首を横に振っていた。
(第1話・完 ―― 第2話へつづく!)




