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夜明けのレシピ  作者: 一ノ瀬 葵衣
第一部 夜明け前の食堂

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第一部 夜明け前の食堂

目次


前編前書き


第一部 夜明け前の食堂



第一章 一番出汁の温麺


第二章 生姜香る、特製卵粥


第三章 冬の納豆汁


第四章 大和の茶粥


第五章 昭和のオムレツ




第二部 朝星食堂に集う人々



第六章 ツナときゅうりの冷や汁


第七章 夏野菜のココット卵


第八章 かぼちゃとシナモンのスープ


第九章 大根と柚子の風呂吹き


第十章 南部鉄器の熱々ハムエッグ


幕間 朝星食堂に差す影


第三部 夜明けの誓い


第十一章 朝獲れエビのアジア風オムレツ


第十二章 七草薬膳粥



 第一章 一番出汁の温麺


 藤代湊は、朝が嫌いだった。

 正確に言えば、朝そのものが嫌いなのではない。

 朝の匂いが、怖かった。

 味噌汁の匂い。

 炊きたての米の湯気。

 焼けた魚の脂の香り。誰かが一日を始めるために台所へ立つ、その当たり前の気配。

 それらが鼻先をかすめるたび、湊の胸の奥では、古い記憶が鈍く音を立てた。

 母が倒れた朝。

 台所には、火にかけっぱなしだった味噌汁の鍋があった。

 沸きすぎて濁った汁。

 煮詰まり、底のほうで焦げつきかけた出汁の匂い。

 味噌と昆布と鰹節のはずなのに、それはもう食べものの匂いではなくなっていた。

 不安と後悔と、どうしようもない予感が混ざった匂いだった。

 それ以来、湊にとって朝食の香りは、安心ではなく恐怖の入口になった。

 病院の夜勤明け、職員食堂から味噌汁の香りが漂ってくるだけで、喉が細くなる。

 胃がきゅっと縮む。

 何か食べなければ倒れるとわかっているのに、箸を持つ手が止まる。

 看護師になれば、少しは強くなれると思っていた。

 命の現場に立てば、自分の過去など小さなものになると思っていた。

 けれど現実は違った。

 夜勤の終わり、湊はいつも自分の弱さを抱えたまま、病院を出る。

 その朝もそうだった。

 総合病院の自動扉が背後で閉まると、海沿いの空気が頬に触れた。

 冬の終わりの潮風は、まだ冷たかった。

 白衣の上に羽織った薄いコートでは、身体の芯まで染み込んだ疲れを防ぎきれない。

 足が重い。

 ナースシューズから履き替えた靴の中で、爪先が冷えている。肩には通勤鞄が食い込み、髪を結んだゴムの下で頭皮がじんじんした。

 夜勤は、静かに始まって、荒れた海のように終わった。

 急変した患者。

 鳴り続けるナースコール。

 点滴の確認。

 記録。申し送り。先輩看護師の沙耶からの短い叱責。

「藤代さん、確認は一回じゃなくて二回。迷ったら声に出して」

 わかっている。

 わかっているのに、手が追いつかなかった。

 命を預かる仕事に、言い訳は許されない。

 湊は病院前の横断歩道を渡り、坂道へ向かった。

 坂の下には、まだ眠った商店街が広がっている。

 シャッターの閉まった八百屋、古い豆腐屋、雨戸を下ろした金物屋。

 昭和の匂いを残す建物たちは、薄暗い街灯の下で静かに息を潜めていた。

 その先には漁港がある。

 遠くで、漁船のエンジン音が低く鳴っていた。

 町の中で一番早く朝を迎える場所だけが、少しずつ動き出している。

 湊は坂を上った。

 古い石畳の名残がある、ひび割れたアスファルトの道。

 両脇には、オレンジ色に光るレトロな街灯が等間隔に並んでいる。

 海から吹き上げる風が、コートの裾を揺らした。

 まだ空は藍色だった。

 夜と朝の境界線が、どこにもない時間。

 湊はその曖昧さが苦手だった。

 終わったはずの夜が終わらず、始まるはずの朝が始まらない。自分だけが、どちらにも行けない場所に立たされているような気がする。

 ふと、足が止まった。

 香りがした。

 鰹節。

 昆布。

 けれど、湊の知っている朝の匂いとは違った。

 濃くない。

 重くない。

 鼻の奥にまとわりつかない。

 海風に混じって、ほんの一筋だけ届く、澄んだ香りだった。

 まるで、暗い水の底から銀色の糸を引き上げたような。

 湊は顔を上げた。

 坂の途中に、古い木造の一軒家があった。

 看板に、小さな灯りがともっている。

 朝星食堂。

 その名前を、湊は知っていた。

 病院の休憩室で、誰かが話していたのを聞いたことがある。

 夜勤明けの人が行く店。

 朝になる前にしか開かない店。店主が客の顔を見て料理を決める、少し変わった食堂。

 怪しい、とその時は思った。

 けれど今、湊の足はその店の前で止まっていた。

 空腹ではない。

 むしろ胃は固く閉じている。

 それでも、あの香りをもう少し近くで嗅いでみたいと思った。

 扉の前に立つ。

 木製の扉には、使い込まれた真鍮の取っ手がついていた。

 窓ガラス越しに、柔らかな灯りが漏れている。

 中には人影がひとつ。

 カウンターの向こうで、誰かが鍋の前に立っている。

 湊は迷った。

 知らない店に入るには、少し勇気がいる。

 疲れ切った朝には、なおさら。

 けれど、背中を押したのは、もう一度ふわりと届いた出汁の香りだった。

 湊は扉を開けた。

 カラン。

 古いドアベルが、小さく鳴った。


「いらっしゃい」


 カウンターの向こうから、男の声がした。

 三十代半ばくらいだろうか。黒い髪は少し癖があり、白い調理衣ではなく、濃紺のシャツに灰色のエプロンをしている。

 目元は穏やかだが、客の様子を見逃さない静けさがあった。

 彼が、佐伯凪だった。


「お好きな席へどうぞ」


 店内は狭かった。

 L字型のカウンターが七席。

 奥に横長の窓があり、坂の下の町と海を見渡せるようになっている。

 窓の外はまだ暗いが、水平線のあたりだけが、ほんの少し白み始めていた。

 石油ストーブの上で、やかんが小さく鳴っている。

 木の床。

 古い柱。

 磨かれたカウンター。

 派手な装飾はないのに、不思議と冷たさがない。

 湊は窓に近い席に座った。

 鞄を膝に乗せたまま、手をぎゅっと握る。

 凪は水を置いた。


「夜勤明けですか」


 湊は驚いて顔を上げた。


「……わかりますか」

「病院の方は、この時間にその坂を上って来られることが多いので」


 凪はそう言って、無理に会話を続けようとはしなかった。

 それがありがたかった。


「何か、食べられそうですか」


 湊は返事に詰まった。

 食べなければいけない。

 けれど、食べるのが怖い。

 朝食の匂いが怖い。

 それを初対面の店主に言えるはずもなく、湊は曖昧に笑った。


「軽いものなら……たぶん」


 凪は頷いた。


「では、温かい麺を少し」


 そう言うと、凪は鍋の前に戻った。

 湊はカウンター越しに、その手元を見た。

 鍋の中には、水と昆布が入っていた。

 凪は火を強くしすぎない。

 鍋の底から小さな泡が立ち始めると、視線を外さずに待つ。

 沸騰する前、湯の表面がかすかに揺れた瞬間、彼は昆布を引き上げた。

 次に、鰹節を入れる。

 薄く削られた鰹節が湯の中で踊り、ふわりと香りが立った。

 湊の指先が、膝の上で強張る。

 けれど、胸が苦しくならなかった。

 凪は火を止めた。

 鰹節が沈むのを待つ間、店内に静けさが戻る。

 その静けさの中で、香りだけがゆっくり広がった。

 煮詰まっていない。

 焦げていない。

 濁っていない。

 湊は無意識に、息を吸っていた。

 凪はさらしを敷いたざるで出汁を濾した。

 黄金色の液体が、透明な線を描いて鍋に落ちる。


「出汁は、煮詰めすぎると苦くなります」


 凪が静かに言った。

 湊は何も返せなかった。


「素材が一番いい香りを出す瞬間は、長くありません。欲張って火にかけ続けると、良いところまで濁ってしまう」


 凪は茹でたそうめんを器に入れ、透明な出汁を注いだ。

 湯気が立つ。

 そこに叩いた梅肉を少し、とろろ昆布をひとつまみ。


「過去も、似ているのかもしれません」


 湊の心臓が、小さく跳ねた。


「苦いところばかり煮詰めると、全部が飲み込めなくなる。だから、一番良いところだけ掬えばいい」


 器が、湊の前に置かれた。


「一番出汁の温麺です」


 湊は箸を取った。

 手が少し震えている。

 出汁の表面に、細いそうめんが白く泳いでいた。

 梅肉の赤が、小さな灯りのように見える。

 とろろ昆布は湯気の中でほろほろとほどけ、潮の香りに似たやさしい匂いを立てていた。

 湊は、ひと口すすった。

 熱い。

 けれど痛くない。

 舌に触れた出汁は、薄いのに深かった。昆布の丸み、鰹の香り、梅の酸味。どれも主張しすぎず、喉を通る頃には、身体の奥に静かに沈んでいく。

 湊は二口目を食べた。

 三口目も。

 気づいた時、肩から少し力が抜けていた。


「……朝の匂いが、怖かったんです」


 言うつもりはなかった。

 けれど、言葉は勝手にこぼれていた。

 凪は黙って聞いていた。


「母が倒れた朝、台所の味噌汁が煮詰まっていて。その匂いが、ずっと忘れられなくて」


 湊は箸を握り直す。


「朝になると、あの匂いが戻ってくる気がして。食べなきゃいけないのに、食べられなくて」


 凪は、湊を慰めるような言葉をすぐには言わなかった。

 ただ、カウンターの向こうで、湯飲みに温かい茶を注いだ。


「忘れなくていいと思います」


 湊は顔を上げた。


「忘れようとすると、記憶は余計に煮詰まります」


 凪は湯飲みを置く。


「でも、別の香りを足すことはできます。今日みたいに、透明な香りを」


 湊の視界が、少し滲んだ。

 泣くほどのことではない。

 ただ、温麺が温かかった。

 出汁が澄んでいた。

 朝の匂いが、怖くなかった。

 それだけのことが、湊にはひどく大きかった。

 窓の外で、空が変わり始めていた。

 藍色の端に、淡い紫が滲む。

 海と空の境目が、少しずつ輪郭を取り戻していく。

 坂の下の商店街の屋根が、薄明かりの中に浮かび上がる。

 湊は器を両手で包んだ。


「おいしいです」


 声は小さかった。

 けれど凪は、確かに頷いた。


「よかった」


 その言葉に、湊はなぜか胸が詰まった。

 病院では、よかった、という言葉を簡単には使えない。

 命の現場では、いつも何かが足りない。もっと早く気づけたのではないか。

 もっと上手く動けたのではないか。

 もっと強くなければいけないのではないか。

 けれどこの店では、一杯食べられただけで、よかったと言ってもらえる。

 生きて朝を迎えただけで、よかったのだと思える。

 湊は温麺を最後まで食べた。

 器の底に残った出汁を、ゆっくり飲む。

 煮詰まった記憶の奥に、別の朝が重なっていく。

 透明な出汁。

 梅の赤。

 とろろ昆布の潮の香り。

 湯気の向こうに見える、凪の静かな横顔。

 店を出る頃には、町は朝の光に包まれ始めていた。

 カラン、とドアベルが鳴る。

 坂道に出ると、海からの風はまだ冷たかった。

 けれど、来る時ほど身体を刺さない。道端の小さな草花が、朝露をまとって光っている。

 湊は坂の上を見た。

 自分のアパートは、まだ少し先にある。

 いつもなら、その距離が途方もなく遠く感じる。

 けれど今日は、歩けそうだった。

 湊は一度振り返った。

 朝星食堂の看板に、まだ灯りがともっている。

 夜明け前の誰かを待つ、小さな星のように。

 湊は大きく息を吸った。

 鰹と昆布の香りは、もうしなかった。

 かわりに、胸の奥に、温かいものが残っていた。

 朝はまだ、怖い。

 けれど、全部が怖いわけではない。

 そう思えたことが、湊にとって最初の一歩だった。

 その日から、夜勤明けの坂道には、湊のための灯りがひとつ増えた。

 朝星食堂。

 夜の終わりにだけ開く、小さな食堂。

 止まっていた時計が、ほんの少しだけ動き出す場所だった。



前編あとがき

前書き

夜明け前の町には、どこにも行けない人のための時間がある。

まだ朝とは呼べず、夜とも言いきれない、濃い藍色の隙間。

眠ることに失敗した人、働き続けて夜を越えてしまった人、帰る場所があるのに、そこへ向かう足がどうしても重い人。

そういう人たちは、夜明け前の坂道で、ふいに立ち止まることがある。

海から吹き上げる潮風が、頬を冷やす。遠くで漁船の低い汽笛が鳴る。

空にはまだ星が残っていて、町の輪郭は眠ったままだ。

その坂道の途中に、小さな食堂がある。

朝星食堂。

深夜二時から、早朝八時まで。

誰かが一日を終える時間に、誰かの一日を始めるための店。

店の扉を開けると、古びたドアベルが、カラン、と鳴る。

カウンターの向こうでは、店主の佐伯凪が鍋の前に立っている。派手な挨拶はしない。

大きく笑うこともない。

ただ、客の顔色を一度見て、それから静かに火加減を変える。

凪は、料理を薬だとは言わない。

それでも彼の料理は、冷えた体を温め、乱れた呼吸を整え、ほどけなくなった記憶の結び目を、少しだけ緩める。

過去を煮詰めるのではなく、一番良いところだけを掬い取る。

それが、朝星食堂の味だった。

この物語は、朝が怖かった新米看護師と、料理に傷ついた店主と、亡き祖母の味を探す少年と、まだ自分の人生を諦めきれない人々の記録である。

そして、ひと椀の朝食が、人をもう一度組み立て直していく物語である。

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