9.1ポイントでーす
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あれから二日。
未だに姚子はあの夜のショックを引き摺っている。
表向きは吹っ切れたと言って普通の日常生活を送っているかのように見えるが、
一人になるとどうしても思い出してしまうようで、以前と変わらず毎日のように
部屋に顔を出してはゴロゴロしている侠兎の存在を、そういう意味ではありがた
く思っている。
喪失感、虚脱感、失望感、悲愴感、孤独感・・・・、色々考え落ち込んで心が折
れそうになるのを、なんやかんやで紛らせてくれる。
姚子がその件で初めてお礼を言ったのは、翌々日だった。
翌日は母親以外とは誰とも会わず、部屋に一人で籠もりっきりだったので、侠兎
は締め出されて入れなかった。
侠兎も無理強いはすまいと思い、その日は控えた。
入室が許されたのがその翌日で、前述のような理由から、一人きりではいたくな
いと思ったのがその理由だった。
言葉は要らないから、誰かに側にいて欲しい。
その存在とぬくもりを感じる事で、弱気になる自分の感情と精神を安定させたい
と願った。
そのくらい、精神的に不安定になっていた。
部屋に入った侠兎は、従来と全く変わることのない横柄かつ無作法な態度のまま
だった。
姚子の顔に笑顔はなく、明らかに物憂げではあったものの、その姿を見た事で受
けたものもあったようだ。
「いや〜やっぱりエアコンはいいなぁ、ここは天国だ。
昨日入れてもらえなかったから俺は地獄を見る寸前だったぞ、ウェコムンドに
いるのかと思ったわ。
これでやっとゆっくり寝られる」
「・・・大袈裟だよ。
エアコンならリビングにだってあるし」
「一階はナエちゃんのテリトリーだからな、どうしても遠慮する」
「ここは私のテリトリーだ」
「つまり俺のテリトリーだ」
「侠兎、一昨日はありがとうね」
「ん?」
「私の事、助けてくれたんだよね」
「当たりみゃあだ、俺の大事なペット1号を好き勝手にされてたまるか。
おみゃあは俺の支配下にあるんだからな」
「もっと、あんたの事信用すればよかったのかな」
「まぁ、瞳術とはそんなもんだ、操り人形だからな。
そこは気にするな、誰もおみゃあを責めはしにゃあ。
だが、簡単に俺以外の男に体を許すのは問題だ、そんな尻軽に躾けた覚えは
にゃあぞ。
だからペット1号には再教育が必要だ」
「やめてよ、今は冗談に聞こえない」
「なら今日は許してやろう、明日からまたガンガン教育してやる。
今日はこちょこちょの刑だけに留めておくか」
「しなくていいって」
瞳術の罠に落ちた後、侠兎が姚子の貞操を守る為に必死で奔走し尽力してくれた
というのは、昨晩訪れた松子がドアの外からそっと教えてくれた。
自分の意思に因らず処女を亡失させられるという最大の恥辱を味わわずに済んだ
のは、外ならぬ侠兎のおかげなのだ。
その辺に関する記憶がほとんどない姚子は、その事実を知り、侠兎に対する評価
を相当に上方修正した。
動機面ではかなり不純な思惑が見受けられようが、その一点のみにおいては感謝
しない訳がない。
その後暫くは、静かな時間が続いた。
侠兎がベッドを占領して眠り始めてしまったせいだ。
毎度の光景。
この、いつもの光景こそが安心感を生む。
いつの間に、侠兎がこうして部屋にいる事を、さも当然の事として受け入れるよ
うになってしまっているのだろう。
仕方なく許可しただけで、別に望んだ訳でもないのに、そこにいるのが当たり前
と思っている自分がいる。
全く言う事を聞かず、いつもいつも迷惑ばかりで辟易していたはずなのに、なぜ
か憎めない。
そう思った時、自分の中で、知らず知らずのうちにある種の情が湧いてきている
のだと初めて気付いた。
それは、存外に気分の悪いものではない。
ベッドを追われた姚子は、勉強机の椅子に座ってパソコンで通販サイトを覗く。
取り立てて欲しい物もないし、何も買うつもりもないが、この時ばかりはストレ
スから解放される。
はたと何かを感じ、液晶画面から目を上げた時だった。
窓の外を、何かが上から下へ通ったような気がした直後、ドタンと音がして屋根
の上に何かが落ちた。
重いような軽いような、でも屋根を突き破ったりはしていないので、そんなに重
量物ではないと思われる。
立ち上がって外の様子を窺うと、そこには突っ伏している一人の人影が。
あれは確か、最高級ブランド羽衣を纏った女仙・・・、水仙。
一度だけ会った、というか見た事がある。
以前、天界にいた頃の侠兎に妻を寝取られ、その遺恨を晴らす為に女の姿に変え
られ地上に堕とされた侠兎を探していた神仙の手引きをした水仙の女の子だ。
(なんだっけ、名前・・・)
水仙は、真夏の太陽に照らされて熱したガルバリウム鋼板の上で焼かれて慌てて
飛び上がると、目の前の窓から覗く姚子を見つけて悲鳴を上げた。
「あぢーあぢー、助げてぇ〜」
「何だ?、鳥か?」
物音で目覚めた侠兎が顔を上げて問う。
それと相前後して、姚子が開けた窓からバタバタと慌ただしく転げ落ちてきた水
仙と鉢合わせになった。
「あれ?、おみゃあはあん時のアプサラス」
「ゲッ、皎侠兎!
た、助けてぇー犯されるぅー」
「犯さんわアホ、女の体だぞ」
「あ、そうでした」
愛らしくテヘペロする水仙の少女は、鮮やかな若苗色の衣装に身を包み、肩から
シースルーの羽衣を纏っていた。
長時間熱帯のような外気に曝されていたので、顔を赤くして息を荒らげ、額から
大量の汗をかき上気している。
「で、なにしに来た。
手土産くらいは持参したんだろうな」
「ダ、ダメですぅ〜・・・、頭がクラクラしますぅ〜」 ぼて・・
「あ、倒れやがった。
世話の焼けるガキだ。
姚子、なんか冷たい飲み物でも持ってきてやれ」
「私のいない間にその子に変な事しないでしょうね」
「アホ、危機なのは俺の方だって。
こいつは俺なんか一瞬で息の根を止めるくらいの力があるんだぞ」
「う、うそ・・・」
「マジだ、とてもそうは見えんだろうがな」
部屋に戻った姚子がペットボトルのスポーツドリンクを手渡すと、水仙は形振り
構わず一気に飲み干した。
「はぁ〜、生き返ったぁ〜。
この度は誠にありがとうございますぅ。
申し遅れました、私はマリーシャ、サーラ様のお使いで参りましたぁー」
この、黒髪ツインテールも愛らしいマリーシャという名の水仙の女の子、外見は
本当に中学生くらいにしか見えない少女なのに、天界での地位は松子を上回ると
いうから驚きだ。
アヒル座りのまま深々と頭を下げて礼を言う姿からは、とてもではないが信じら
れない。
侠兎は、そんなマリーシャを訝しむように睨んだ。
「ベン子の使いが何用だ」
「ベン子ではありませんサーラ様ですサーラ様、さ・あ・ら・さ・ま、はい復唱」
「うっせんだよおみゃあ」
「ならメモしなさい、メモメモですぅ」
「さっさと用件を言え!」
「では、コホン。
皎侠兎、あなたにはサーラ様より1ポイントが授けられましたぁー、キャード
ンドンドンパフパフパフゥ」
「1ポイント?、なんだそりゃ。
いちごプリントのパンツなら姚子が持ってるぞ」
(人のプライバシーを明かすな!)
「そちらの女の子の純潔を守らんと奮闘した事を高く評価されたのですぅ」
「おみゃあ、なんで知ってる」
「なんでって、見てましたから」
「なに!、またおみゃあの仕業か!」
「おおっとそれは誤解ですぅ。
あんな狐がいたなんて私だって知りませんでしたよぉ、そんなに情報通ではな
いのですぅ。
それに、私は時々見に来てるって言ったじゃないですかぁ」
「あん時もいたって言うのか」
「はい、見てましたぁ。
だから、すぐにサーラ様に報告に戻ったんですぅ。
サーラ様はあなたの行いに大変感激され、で、その功績によりポイントが与え
られたのですぅー。
しっかり私のスコアブックに記録されましたよぉ」
「ストーカーのくせにチクリ魔か。
なんだスコアブックって」
「あなたのポイント通帳です、私が管理するんですよぉ。
いい事したらプラス、ダメダメならマイナスのポイントが加算されまーす」
「それがどうした」
「ポイントが貯まったらご褒美があるかもですよぉ、全部私のおかげですよぉー」
「恩着せがましいなてめぇ。
じゃあご褒美ってなんだよ」
「う〜ん・・・、キャッシュバックとか?」
「知らんのかい」
「きびだんごあげまぁす」
「要らんわ。
そんなまどろっこしい事せんでも、俺の封印さえ解けばすぐにでも100万
ポイントにしてやらぁ。
帰ってベン子野郎にそう伝えろ」
「それは無理ですぅー」
「なんでだよ」
「1回1ポイントだからですぅ。
一度に大量ゲットなんておいしい話はありませーん。
何事も積み重ねが大事なのですよ、千里の道も電車でゴーですぅ」
(電車に乗ったら意味がない)
「違うぞバカ、千里の道も一方通行だ。
行ったら帰って来られにゃあ、つまり死出の旅路だ覚悟しろって意味だ」
「そうでしたっけ?」
「これだからガキはダメなんだ、ちゃんとメモしとけ」
「はい、メモメモ・・」
(もしかして、この二人って似た者同士?)
「でも驚きましたぁビックリですぅ。
あの変態悪魔が女の子を救うなんて、天変地異の前触れですかぁ?
ハルマゲドンですか?、アポカリプスですか?、ラグナロクですかぁ?」
「いちいち苛つくな、その語尾なんとかせい」
「ニャーとか付けますかニャ?」
「おちょくっとんのかおみゃー」
(やっばり同レベルだ)
二人の漫才は別として、横でマリーシャの話を聞いていた姚子は、方向性がこれ
までと少し変わってきた事を感じた。
弁才天の姿勢に、軟化の兆しが見えてきたと解釈する事が出来そうに思われるの
だ。
「ねぇ侠兎、それって弁天様があんたを前向きに評価したって事でしょ。
だったら、ポイントを貯めていけばいつか許してもらえるって事なんじゃない
の?」
「なに!、そうなのか?」
(気付いてなかったのか)
「だから、どんどん人の役に立つ事をしていけばいいんだよ」
「どんな事だよ」
「色々あるでしょ、困ってる人を助けるとか」
「俺は、赤の他人を助けようなどと思った事は一度もにゃあぞ。
そんなくだらん事の為に時間を使えるか、それこそ時間の無駄ってもんだ。
余計な事に時間使って大江戸捜査網を見逃したら、そっちの方がよっぽど後悔
する」
「だからダメなんだって。
そこを変えろって言ってんの」
「知るか、困ったんなら自分の拳で解決しろ」
「そうやってすぐ争い事にするのが問題なんだって。
もうちょっと違う考え方とか出来ないかな」
「ふん、そもそも人の役に立ちたいとか思うような奴が人と争うか?
本気でそう思ってんなら争う前に自ら身を引く。
自分が身を引く事で相手の役に立ってる事になるからな、そうだろ。
でもそんなのなんにも面白くにゃあ。
俺の生き方とは違う」
「屁理屈だなぁ。
せっかく弁天様がチャンスをくれたのに、それじゃなんにもならないでしょ。
男に戻りたいんじゃなかったの?」
「それはそうだが、奴の手玉に取られてるみたいなのが気に食わん」
「しょうがないなぁ・・。
私も手伝ってあげるから、なんとかやってみようよ」
「乳揉ませるか?」
「そんな話じゃない」
せっかく弁天様が侠兎を男に戻す具体的な条件らしきものを提示したというのに、
肝心の本人がやる気にならないと話は前に進まない。
姚子は、率直な感想をこぼすマリーシャに尋ねた。
「やっぱり皎侠兎は悪魔なんですねぇ、本当に改善する気なんかあるんでしょう
かぁ」
「あの、マリーシャちゃん、一つ質問していいかな」
「なんですか?」
「この前みんなで海に行った時、侠兎が小さい女の子を妖怪から助けたのはポイ
ント付かないのかな」
「海?、妖怪ですかぁ?
それは私は知りませんですぅ。
私がこの目で認知していないものは、残念ながらポイント対象にはなりませー
ん」
「なるほど、そういう事か。
マリーシャちゃんの立ち会いが必要なんだね」
「正解でーす。
ただし、私は神出鬼没ですよぉ。
他のお仕事だってあるんですから、そうそう悪魔の戯ればかりにつき合ってる
ほど暇ではないのですぅ」
「じゃあイベントでアルバイトした事は?」
「あれは、ちゃんと契約が成立した労働ですし、対価をいただいたのですから殊
勝とまでは言えませーん。
約束を最後まで果たしたという意味では評価されますが、たった一回だけでは
信用するに値しないのですぅ。
魔が差しただけかも知れませんからねぇ」
(意外と厳しいな)
マリーシャの原則論に、侠兎が反抗心を燃やす。
「だったらてめぇがまず1ポイント付けろ」
「なんでですか?」
「今さっき助けてやっただろ、ポカエリアス飲ませてやって」
「それはこちらの姚子ちゃんのおかげなのですぅ」
「指示したのは俺だ、俺の手柄だろ」
「どこの家でもお客様をおもてなしするのは当然なのですぅ。
それに私はアプサラスですよ、悪魔如きの助けなど必要ありませんの事よぉー
だ」
「ヘロヘロで死にそうだったのはどこのどいつだ!
鶴だって助けりゃ恩返し、地蔵だって傘被せりゃ食い物てんこ盛り、亀だって
キャバクラへご招待だ。
人間界じゃガキでも知ってる因果律だ、おみゃあもそれに倣え」
「人間界じゃ桃はピーチって言うんですよぉー」
「人の話を聞け!」
どんなに侠兎が人に役立つ手助けをしても、それをマリーシャが確認しないとポ
イントにはならない。
彼女がいつ、こちらの動向を視察しに来るかなんて知る術がないのだから、これ
は思った以上にハードルが高い。
なんとか彼女のスケジュールを事前に把握する方法はないものか。
恐らく、聞いても教えてはもらえないだろうし、それを詳らかにする事を弁才天
は許可しないだろう。
姚子は、松子に相談してみようかと考えた。
が、その名前を先に口にしたのは侠兎の方だった。
「おみゃあ、もしかして松子の野郎と連絡取り合ったりしてにゃあだろうな」
「ん?、ん?」
「どいつもこいつも胡散臭いからな、何企んでんだか分かったもんじゃにゃあ」
「あ、あー思い出しましたぁ、あの地仙君ですか。
関係ないですよ、全然。
あちらは炎帝様の関係者で私はサーラ様直属ですよ、命令系統が別個ですから
情報交換なんて有り得ませーん。
正直、私もちょっと邪魔だなぁと思ってるくらいなんですぅ」
「そうなんか?」
「そうですよ、最初の予定では悪魔はとうに自滅してるはずだったのに、未だに
生き長らえてるのはあの方が色々と手助けするからなんですよねぇ。
あんまり度が過ぎると私もサーラ様に報告しなきゃならなくなるんですけど、
上手に手抜きをしてくれるものですから、中々そこまで行かないんですよぉ」
「邪魔ならやっつければいい」
「排除するのは簡単ですけど、でもそれでサーラ様と炎帝様が仲違いしてしまう
のはよくないですぅ。
ずっと仲良くしてらっしゃるのですから、なので彼には関わらないようにして
まーす」
松子は、自分をただの監視役だと言っている。
確かに、侠兎の行動を制限している訳でもないし、言葉では諭すが従わなくても
ペナルティーを課す事もしない。
そのくせ、侠兎が危険に直面する時は必ず助け船を出す。
侠兎は裏で何か企んでいるに違いないと疑っているが、少なくとも悪意は持って
いないと思われる。
松子がもう少し天界と密に連携してくれれば、事態は良い方向へ動き出すかも知
れない。
(やっぱり相談してみよう)
侠兎とても、男に戻れる好機を逸するのは惜しいと考えているのは間違いない。
しかし、弁才天主導の施策にはどうしても積極的に踏み出せない。
「めんどくせぇな・・・。
やいマリーシャ、俺は何ポイント貯めたら元に戻れるんだよ」
「分かりません。
100ポイントかも知れませんし、1億ポイントかも知れませーん。
サーラ様の心一つですからぁ」
「くそ、結局ベン子の掌かよ」
「間違っても5ポイントとか10ポイントって事は有り得ませんよぉ。
これまで散々な目に遭ってきた女仙の皆さんの被害者感情もありますからねぇ。
それにぃ、確実に男に戻れる保証もありませーん。
サーラ様はそんな事一言も仰っていませんでしたからねぇー」
「なんだとぉ!
それじゃやっても意味にゃあだろ!、なんなんだそれ」
弁才天の意図が読めない侠兎は、呆れるのを通り越してとうとう怒り出す。
どうやら、マリーシャ自身も女神の本意がどこにあるのか正確に理解出来ていな
いようだ。
姚子は、依然として消極的な侠兎を宥めて、奮起を促し発破をかけた。
「まあまあ怒んないで、意味ない事もないと思うよ。
絶対に悪い方には行かないはずだから、やってみる価値はあるよ。
ここで一日中ゴロゴロしてるよりは何倍も充実するし、何をしたらいいかも分
かってくると思うけどな」
「やりたくもにゃあものをやる事ほどつまらん事はにゃあぞ。
それのどこに価値かある」
「やれるのにやらないのは怠け者だよ」
「なんだおみゃあ、そんなに俺に男に戻って欲しいのか。
男の俺に抱かれたいってか、そうならそうはっきり言えよ。
クックック、可愛い奴め」
(激しく誤解されてる!)
<続>