⑧
翌日。悟史はいつも通りの時間に教室に入ると、自分の席の隣に人が集まっているのが目に入った。
右隣の信介の席ではなく、左隣の鈴木君の席だ。
「きゃあかわいい!」
「毛がふわふわして気持ちいい~!」
とクラスの女子が黄色い声をあげる。
悟史の知る限り、鈴木君は女の子からちやほやされるタイプではないし、かわいくもないし、毛もふわふわしていない。
むしろ若ハゲの素質を充分にもった逸材である。
一体鈴木君の身に何が起こったのかと多少嫉妬心を持ちつつ席に着いた。
すると輪の中から、二つの小さな影が飛び上がり、悟史の机の上に降りた。
悟史の目の前に現れたのは豆柴とチワワの二匹の子犬だった。
くぅんと甘える声をあげ悟史を見上げる二匹の子犬に戸惑いつつ、悟史はなんらかの事情を知っていそうな信介の方を見る。
「その二匹を生徒として学校に通わせるのが条件でな。なかなか苦労したぞ」
「条件ってなんだよ! この状況を説明できるのなら俺にもわかるように教えてくれ」
「今にわかる。ほら、もうすぐ繭美ちゃんがくるはずだ」
ガラガラと教室のドアを引く音が聞こえると、今日も今日とて愛らしい繭美ちゃんが笑顔で入ってきた。
繭美ちゃんの姿を確認すると、クラスメイト全員が雑談をやめ、席に着いた。
「えぇ皆しゃん……おはようごじゃいます。今日は突然でしゅが良いニューしゅと悪いニューしゅがありましゅ」
「良いニュースと、悪いニュース?」
相変わらずサ行がうまく発音できない繭美ちゃんではあるが、今では脳が勝手にサ行に変換してくれるので全く問題は無い。
「まじゅ悪いニュースでしゅが、昨日ぢゅけでしゅじゅ木君がこの学園をしゃりました……」
ふと繭美ちゃんの表情が陰った。
その瞬間クラス中から「泣かないで繭美ちゃん」やら「頑張れ繭美ちゃん」と激励の声が教室を飛び交った。
繭美ちゃんが泣き出すと泣き止むまで時間がかかるのは、一年八組では周知の事実だった。
「……うん、頑張る。ありがとう皆」
くふん、と咳払いをすると繭美ちゃんは机に手を置いて語りだした。
「しぇんしぇいは何度もしゅじゅ木に退学をしないようにしぇっ得したのですが、どうにもしゅじゅ木君の気持ちは変わらないようで……本人の意思をしょん重し、退学届を受理しました」
昨日まで隣の席にいた悟史であったが、鈴木君がそこまで思い詰められていたとは気が付かなかった。
正直な所を言えば右隣と後ろの席のキャラが強すぎて、関心を持っていなかったのが事実なのだが。
「しょれで、しゃい後にしゅじゅ木君から伝言を頼まれましたので、それだけ伝えておきますね」
繭美ちゃんは出席簿にはさんである一枚の紙を広げて首をかしげながら読んだ。
「え~と……一年八組の諸君。訳あって自分はこの北カントー学園をしゃりますが、ここでの学園しぇい活を長く続けたいのならこの言葉を胸にきじゃんで欲しい。『変態鬼畜メガネに気をつけろ』。具体的には言えないが、しょこはしゃっしてくれ」
以上でしゅ、と繭美ちゃんが言葉をしめると、無意識に悟史の首が右に曲がった。
信介と視線がぶつかる。
「……まぁ悟史ぐらいは鈴木の気持ちを察してやれ。痛いほどよく分かるだろうからな」
いつものように信介はメガネに触れると、含み笑いでその視線に応えた。
この男を敵に回してはいけない。
悟史はそう再認識した。
「しょれで次はよいニューしゅの方を発表しましゅね」
繭美ちゃんは両手を軽く叩き合わせて、先ほどまでの沈んだ空気を振り払うかのように明るい声を出した。
「しゅじゅ木君の代わりってわけではないんでしゅけど、一つしぇきが空いたということもあり、本日からこのクラしゅに新しい仲間がやって来ましゅ。では鴨志田しゃん入って来て下しゃい」
鴨志田という聞きなれたフレーズに悟史の身体が無意識に反応した。
ぞわわと背筋に寒気が伝わり、全身の肌が泡立ち始めた。
まさか……いや、そんなはずは無い。
だがこの件に関して信介が関わっているのなら可能性はあるかもしれない。
嫌な想像が悟史の脳内を駆け巡る。
そんな悟史の感情など知る由も無い繭美ちゃんは、ドアに向かって「鴨志田しゃんどーじょ」と手招きをした。
ガタガタと音を立てドアが激しく揺れた。
ドアに付いているスモークガラス越しに人のシルエットがうっすら浮かんだ。
悟史はその背格好に見覚えがあった。
鈴木君の突然の退学。
二匹の子犬。
信介の思惑。
そして見覚えのあるシルエット。
――全ての点と点がつながった。
「あの……鴨志田しゃん? 早くドアを開けて中に」
違うんです繭美ちゃん。
そこにいる鴨志田という転入生が、俺の知る鴨志田であるならば、ドアは開けられないんです。
だから奴は必ずドアを――まずいっ!
悟史は席を立ち、教壇に向かって走り出した。
それとほぼ同時に激しく揺れ動いていたドアが大きな音を立てて前方に撥ね飛んだ。
その先には繭美ちゃんがいる。
突然ドアが自分に向かって飛んでくるという想定外の状況に対応できず、ただ立ち尽くしていた。
このまま走っていては間に合わないと判断した悟史は、勢いを殺さずにフローリングを蹴りあげ、教壇に向かって飛び掛った。
その判断は功を奏し、ギリギリのところで繭美ちゃんと飛んでくるドアの間に身体を滑り込ませ、悟史は歯を繭美ちゃんに覆いかぶさるように飛んでくるドアに立ちはだかった。
――ドン! 激しい衝撃と痛みが悟史を襲う。
それでも悟史は両手を黒板と教壇で支え、繭美ちゃんに衝撃を与えない様に踏みとどまった。
一瞬の静寂が教室を包む。
「怪我は、ありませんか?」
繭美ちゃんは何が起こったのか分からず、目を見開いたまま黙って頷いた。
「それは、何よりです」
悟史は背中に覆いかぶさるドアを壁に掛けて入り口の方を見る。
視線の先には一人の女性徒がぼんやりと立っていた。
その女性徒は茶色と黒が斑になったショートヘアーに、犬の耳がついたカチューシャをつけていた。
若干目が切れ長であるものの顔全体のバランスはよく美しい顔立ちをしており、見る者の心を惹き付ける。
だが悟史がその外見に惑わされることは無い。
幼い頃からこの娘には辛酸を舐めさせられ続けてきたからだ。
「いきなりドアを吹っ飛ばす奴があるかよ」
「だってドアノブがないからぞよ」
憮然としたまま彼女は答えた。
久しぶりに聞いたよく通る声を耳にした時、悟史は大きく溜め息をついた。
この訳の分からない理屈のせいで、自宅のドアというドアを開き戸に改築したのだ。
「この世にはドアを横に引いて中に入る引き戸ってものがあるんだぞ……スー」
スーと呼ばれた彼女は目を丸くして大きく頷いた。
「……そら初めて聞いたぞよ」
何度も説明したことをすっかり忘れている彼女の名は鴨志田スー。
悟史が人生で初めて出会った珍獣だった。