僕が君と出逢うまで
天に輝く星を反射する湖の上に、何も遮るものがない小島があった。そこに全てを終わらせた僕たちは、地を踏みしめるようにゆっくりと降り立つ。
東からは黎明の光が、水平線に輝いているのが目に入る。それはまるで、新たな時代の幕開けを告げているようだった。
――これは、僕が地球を殺すまでの話だ。
空いたお腹を誤魔化そうと、蔵の中で横になり目を瞑る。水筒は持ち込ませてもらったから、高い湿度で中が保たれている蔵の中でも、経験上は喉の渇きもなんとかなると思う。
空腹さえ乗り切れば、明日の朝にはちゃんと出してもらえる。そして夜が明けたら、シャワーを浴びせて貰えて朝御飯も食べさせてもらえるだろう。
今日は夕御飯を器に盛るときに、うっかりと手を滑らせて祖父の分のおかずを床へひっくり返したのが理由だった。潔癖症である祖父は、楽しみにしていたものを奪われたばかりに、いつものように僕を家の離れにある蔵の中へと放り込んだのだ。
きっと僕の取り分として一応は準備されていた分のおかずが、祖父の胃の中に入るに違いない。いつものことだから、気にはならないけれど。
僕はこの家に置かせてもらっている身だ。寺の住職と拝み屋をしていた父さんと離婚した母さんが、僕を母さんの実家に一時的に預けたのだ。もっとも、その母さんは年単位で僕と顔を合わせてないけれど。
祖父母は拝み屋なんて気味が悪いと、父さんのことを嫌ってた。そしてそんな父さんと、祖父母の反対を強行して結婚した母さんのことも嫌っていた。そして2人分の嫌っている人間の血が流れている僕のことは、更に嫌っていた。けれど嫌っているのに養ってくれていることには、感謝するしかない。たとえそれが、このような厳しい態度に現れていたとしてもだ。雨風をしのげる場所で寝かせてもらえるだけでも、僕には十分だ。
「暇だなあ……」
ぼやきと腹の虫が鳴く音が、虚空の中へと消えていく。
前に興味本位で蔵の中にあるものへ触ったところ、たまたま祖母に見つかり「反省していない」と看做されて叱られたことがある。なので下手にそれらを弄ることもできず、時間を潰すには、横になって寝るしか僕には許されていなかった。
「……何?」
そんな時だった。僕以外の人間がいないはずの蔵の中で、僕に向けられた何かの視線を感じたのは。
何かを感じた方向に目をやる。そこには、鹿に似た形をした龍のような顔の動物の木彫り像が、広葉樹を切り出した木材でできた棚の上で剥き出しに置かれていた。木彫り像の顔に嵌め込まれた、黄色い硝子の瞳と視線が重なる。
それはこのような状況にある僕を慈しむかのように、温かい表情をしているように見えた。
――ちゃんと元に戻せば、いいよね。
その時、ふと魔が差した。この像をもっと近くで見たい。そう僕は思った。
目を瞑り気を張り巡らせて、祖父母の気配がしないかを感じ取ろうとする。いつの間にか降りだしていたのか、ザアザアと雨が降る音がしていた。この天気ならば、蔵の近くにはいないだろう。洗濯物は夕御飯の準備をする前にすべて取り込んだから、外に出てくる理由もないはずだ。
蔵に放置されていた踏み台を使って棚上の置物へと近づき、手に取ってそれを詳しく観てみる。それは胴のところに鱗がびっしりと彫られ、馬のような足を持っていた。
姿から僕はこれのモチーフを理解した。父さんから聞かされていたとがある、麒麟と呼ばれる伝説上の生き物だ。平和な時代にに現れるという、縁起の良い生き物だったと記憶している。
木彫り像自体も見事だった。箱に入れられてなく、剥き出しにされていたのが不思議なくらいのもの。まるで実際に生きている麒麟の時を止めたような精巧さだと、素人ながら強く感じた。
そしてその瞳は、時が止まっていても意識を持ち続けている。そのように、僕は感じ取ったのだった。
麒麟の瞳に吸い込まれるように置物とジッと向き合って、どれほどの時間が経っただろうか。気が付くと外で降る雨は勢いを増したような音を立てており、強い閃光は蔵の中に差し込んだ。そして数瞬遅れて、ゴロゴロゴロと鋭い雷の音も耳に入ってきた。
「今日はよく降るな」
そろそろ棚の上に戻さないと。特に雷を避ける設備のない蔵の様子を、祖父母が見に来るかもしれない。そう思って、麒麟の像を棚の上に戻そうと手を伸ばしたときだった。
ガタガタガタガタ。棚が前後に揺れ、蔵の中全体が大きく音を立てる。――地震だ!
乗っていた台から足を踏み外し、僕の体は背中から強く打ち付けられる。掌で叩かれたときの痛みが背中全体に広がったようで、耐えられるけれどシンプルに痛い。
そしてその上から、棚が正面から倒れてくる。ずしりと下半身を圧したそれで、身体が悲鳴を上げる。このまま棚の下から離れなければ、祖父母に「何故蔵のものに触れたのだ」ときっと怒られるに決まっていると心も悲鳴を上げた。
力を振り絞って、僕を圧し潰そうとする重い棚の下から這い出ようとしたときだ。
「……?」
持ち上げようとした棚が、とても軽い。僕を自重でペチャンコにしてもおかしくなかったはずのそれの重さが、僕の手が振れている辺りから徐々に軽くなっているような気がする。同時に、濃い茶色をしていた棚の木材が、薄くなっているようにもみえた。
何が起きているのか、さっぱり分からない。ただ、これが抜け出すチャンスなのだということは分かった。
地面が揺れている中、僕は無我夢中で棚を体の上からどけて這いずり出る。そして棚から距離を取ろうと、力の入らない腰を引き摺って急いで蔵の入口まで転がり進んだ。
入口に力なくもたれかかると、遠くからこちらに近づくコツコツコツとした靴の音が蔵の外から耳に入る。人がこちらへ近づいている気配が蔵の外からした。
ヒールの高い靴を祖母は持っていなかった。そもそも地面が揺れているのにも関わらず、真っ直ぐにこちらへ向かってこられることは冷静に考えるとおかしいことだ。
しかし僕は、蔵の外に出たいということばかり考えていた。
「ここにいます! 出してください!!」
外に届くようにと出来る限り大きく声を張りあげる。ここにいるとアピールするためにドンドンドンと無我夢中で扉を叩くと、その数倍の音が扉の向こうから聞こえてきた。
その直後だ。まさに僕の体の隣から、針のような鋭い氷が蔵の扉を貫いたのは。それは、厚いはずの木材の断面を透かしていた。
僕はそれに死の恐怖を感じて、腰を抜かし呆気にとられる。
その間に巨大な氷は成長するように太さを持ち、扉をバキバキと粉砕していく。最終的に蔵の入口を塞いでいた木でできた扉は、大きな氷に置き換わってしまっていた。
そしてその刹那。透き通っていた巨大な氷が、雪の塊のように真っ白になる。氷が粉のように砕けたのだ。真っ白に変化したそれは、その場にサラサラと拡がり崩れ落ちた。
頭の中を真っ白ににしながらその様子を見ていると、誰かが砕氷の山を掻き分けて蔵の中へと入ってきた。
祖父母ではない。直感した僕は正気に返り、誰かに話しかける。
「だ、誰ですか?!」
すると誰かは、僕のほうに振り返る。黄金色に光る目が印象的な、整った顔立ちをした、ボブヘアーの女の子だった。中から出てきたその子の髪は、月明り照らされて濡羽色に煌めいていた。
「あなたを助けにきた、天城眞央」
これが彼女との――グローリア・サザナミとの出逢いだった。