第四話
網膜を染める橙色の夕日が客間一杯に広がる。
まだ灯りをつけるには早い頃合い、茶菓を前に一人座る坊主頭の若い男は、どこか落ち着かない様子で鼠色をした着流しの袖を捲り上げたり、キョロキョロと室内を見回していた。
「お待たせして申し訳ありません」
優しげな声色と共に、男の左側にあった障子がスルスルと開き、若草色の着物を纏った錦屋の女将が姿を現す。
やや小太り、といってもよいだろう彼女が男に向かい深く頭を下げるのを、客間の隣にある小部屋、襖一枚隔てた場所から中の様子を窺っていた朱王と海華がじっと見詰める。
細く細く開けた襖の隙間から注がれる二つの視線。
坊主頭がペコペコと何度も女将に向かい会釈する様を見る二人は互いに固唾を飲み、事の成り行きを見守った。
「いや、岡見さんこちらこそ急な話しで申し訳ございやせん。朱王もね、こんな大店から仕事を受けられるなんて幸せだ、なんて、喜んでおりました」
朱王達からは男の背中と、微笑みながら相槌を打つ女将しか見えない。
しかし、へらへらした男の口調や身振り手振りからして、どうも遊び人を思わせる人物だ。
「こちらこそ、朱王先生のような高名な方にお人形をお作り頂けるなんて光栄です。貴方様は朱王先生の従兄弟、でしたわね?」
「へいへい、左様でございやす。私の母親と朱王の父親が兄妹でございやして。小さい頃は、よくあいつの子守りをさせられました」
「……とんでもないところから親戚が出てきたわね」
「よりにもよって父上様を持ち出すか。無礼な奴だ」
息を吸うように口から出た任せを並べ立てる男の背中を眺めつつ、二人は声量を押さえて囁き合う。
開いた口が塞がらないとは、まさにこの事を言うのだろう。
自身の背後に名前を騙った張本人がいるなど露知らず、男の舌はさらに滑らかに動き出し嘘の花を咲かせていく。
「実は、その朱王なんですがねぇ、最近さっぱり仕事がこない、このままじゃ路頭に迷うって、私のところに泣き付いてきたんです。実の兄弟同然に育った仲だ、ひとつ仕事を探してやろう、ってんで、今朝がたお邪魔致しました。で、今なら五十両掛かる所を二十両に下げて人形を作らせて頂きますので、先に、その……」
「頭金でございますね。こちらに十両、用意させて頂きましたわ」
にこやかな笑顔を絶やさず、女将は側に置いていた紫色の小さな包みの上に軽く片手を置く。
何度も何度も畳に額を擦り付け『ありがとうございます』と猫撫で声を出す男の背中が、差し込む夕日に鮮やかに染まった。
「ありがとうございます。いや、急にこんな大金を用立てて頂いて申し訳ございません。朱王の方には、すぐ仕事に取り掛かるよう伝えますので。はい、近い内に本人が写生も兼ねてご挨拶に伺うかと」
「承知致しました。朱王先生によろしくお伝えくださいませ。あら、すっかりお茶が冷めてしまって。今、入れ換えさせますわ。お金も包み直しますので、もう少しお待ちくださいませ」
何食わぬ顔をして金の入っているであろう包みを手にした女将は、男に一礼し客間を後にする。
廊下に出た彼女を追うように抜き足差し足忍び足、で部屋を出た二人は、客間から遠く離れた母屋の廊下で女将と落ち合った。
「朱王さん、海華ちゃん、あんな感じでよかったのかしら?」
緊張していたのだろうか、ふぅ、と小さく息を吐きながら言った女将に、朱王も海華も揃って深く頭を下げる。
「女将さん、妙な事をお頼みしまして本当に申し訳ありません」
「いいんですよ朱王さん。いつも朱王さんや海華ちゃんにはお世話になっておりますから。でも、途中で笑いそうになってしまいました」
口許に手を当てて、客間での会話を思い出し微笑む女将。
日頃から付き合いのある朱王の事ならある程度知っている彼女だ、あんな頓珍漢な話を目の前でされたのだから、笑いを堪えるのも大変だっただろう。
「朱王さん、これからあの方をどう致しましょう?」
「はい、このまま黙って返すわけにはいきません。女将さん、もしかするとお店にご迷惑をお掛けしてしまうかもしれません」
これから起こる事を予想してだろう、朱王は申し訳なさそうに顔をしかめて再び頭を垂れる。
しかし、女将は緩やかに首を横に振り、『お気になさらずに』と言ってくれた。
さぁ、ここから朱王と海華の反撃が始まるのだ。
客間と廊下を隔てる障子の向こうから、パタパタと軽めの足音が聞こえる。
易々と十両もの大金をせしめることが出来た、その安堵感と達成感に盛大にニヤつき、膝までを崩して座布団の上に座っていた男は、その足音を耳にした途端慌てて正座しなおし、姿勢を整えた。
夕日に染まる障子に映る人影は、先程の女将のものではない。
一見すれば子供かと思われる小柄な人影。
『失礼致します』とよく通る声色が室内に響き、木々の擦れる乾いた音と共に障子が開かれていく。
「お茶をお持ちしました」
そう言いながら姿を現したのは、茜色の着物におかっぱ頭の女。
『どうもすいやせん』と一言、軽く会釈をした男は、顔を上げた瞬間、ポカンと口を大きく開けた。
「やっぱり、あんただったのね」
男とほぼ同時に身を起こした女、海華は、怒りを込めた眼差しで男を睨み付け、手元にあった湯飲みを乗せた盆を乱暴に横へと押しやる。
「お前ぇ……あの時の、っ!」
「そうよ! 近江屋さんの裏で会った者よ! あの時は、よくもやってくれたわね、この偽者っ!」
腹の底から大声を張り上げてその場に仁王立ちとなった海華。
沈み掛けた夕日が彼女の影を化物のように大きく男の上に落とし込む。
「なっ、なっ、なんだ手前ぇはっ!? 一体誰でぇっ!?」
狼狽えつつも彼女を大声で怒鳴り付けその場から腰を浮かした男の背後で、ガラリと襖が跳ね開けられる。
弾かれる勢いで後ろを振り返った男の正面には
柳眉をつり上げる朱王の姿があった。
「あっ……あ、んた……」
「あんた? 従兄弟に向かって『あんた』はないだろう? 」
「あら兄様違うわよ。従兄弟じゃなくて、兄様の弟子よ。そうでしょう?『偽朱王』さん?」
ニヤ、と唇をつり上げ暗い笑みを造る海華と静かな怒りを漲らせる朱王を交互に見る男の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。
ジリジリとこちらに迫ってくる朱王に圧倒され、男は一、二歩後退り乾いた唇を戦慄かせる、次の瞬間だった。
電光石火の如き速さで伸びた朱王の右手が、岩をも砕かん力で男の胸ぐらを和紙掴む。
「俺の名前を使って金を騙し取っていたのはお前だなッッ! しかも……あんな屑人形を残しやがってッ!」
端整な顔が怒りに歪む。
こめかみに青筋を浮かべて怒号を張り上げる朱王の、あまりの剣幕に恐れ戦いたのだろう、男は引き攣った悲鳴を迸らせ滅茶苦茶に目足を振り乱し、朱王の手を跳ね飛ばす。
その反動で後ろに仰け反った男は、畳を思い切り踏み締め体勢を整えると、海華目掛けて飛び掛かる。
全ては一瞬の出来事だった。
「来るなっ! 寄るなっ! これ以上来たら……この女の首へし折るぞッ!」
海華を羽交い締めにし、唾を飛ばして怒鳴る男の腕は彼女首にグルリと廻される。
首元を絞められる苦しさと痛みに顔を歪めた海華を前に、朱王はグッと息を詰めた。
怒りの中にも焦りの色を含ませた彼に、男は汗にまみれた顔を醜い笑みの形に変えた。
「そのまま動くんじゃねェぞっ! 畜生……! まさかこんなところで……」
薄闇が迫る中、男の呟きがポツリとこぼれる。
息苦しさに大きく息をつきながら、海華は男の腕に掴み掛かり上目使いで彼を睨んだ。
「よくも兄様の名前を騙ったわね! お茶屋のお爺さんも、あんたが殺したんでしょ!?」
「あぁそうだ! あの糞爺、街で俺の事を見付けて追っ掛けてきやがった……金を返せってあんまりうるせぇから、黙らせてやったのよッ!」
茹で蛸よろしく頭の天辺まで赤く染め、両目を血走らせながら叫ぶ男の口角には溜まった唾が泡となってこびりつく。
「この人でなしッ! あんたなんか……」
「やかましいッ! 黙らねぇとぶち殺すぞッッ!」
半狂乱となった男は無意識のうちに海華の首に廻る腕に力を入れる。
ミシ、と骨が軋む鈍い音が彼女の耳に届き、詰まり掛ける息を補うように口をパクつかせる海華は、男の腕にキツく爪を立てた。
「海華! 止めろ! 海華を離せ……!」
「うるせぇうるせぇっ! 手前ぇはさっさと、ここから出ろぃ! 言う通りにしねぇと……」
「言う通りにしねぇとどうするってんだ、この馬鹿野郎が!」
朱王と海華、そして男以外の声、雷鳴の如き男の怒鳴り声が客間に響き渡り、廊下に面した障子戸が左右に弾き飛ばされる。
鉄砲玉よろしく飛び込んできた一つの黒い影は、驚愕に目を見開く男の顔面、ほぼ真ん中に激烈な拳の一撃をくらわせた。
メキィッ! と生木が潰れるような音を立てて男の顔面に拳がめり込む。
大きめだった鼻は見事に潰れ、夥しい鼻血を噴き出しながら男は悲鳴も上げぬまま後ろへと仰け反る。
彼の腕に巻き込まれたまま、その反動で後ろに飛ばされそうになる海華を、瞬時に駆け寄った朱王が間一髪、その腕に抱き止めた。
「おい海華! 海華、大丈夫か!?」
背中を丸めてゲホゲホ咳き込む海華の顔を覗き込み、薄い背中を何度も擦る朱王に、海華は目尻に涙を浮かべ、うっすらと赤い痕が残る首に手をやりながら小さく頷いた。
「大丈夫……。兄様ありがと。あ……志狼、さんっ!」
朱王の胸の中でハッと目を見開いた海華は、己の隣で男の腹に強烈な蹴りを食らわせる志狼へと振り返る。
鼻や口から鮮血を流し、白目を剥いたまま畳へ大の字に転がった男は、志狼の爪先が脇腹にめり込む度に小刻みな痙攣を起こす。
「手前ぇ、よくも海華にッ! 」
「志狼さん……! 志狼さんもう止めて!」
一見して気絶しているとわかる男を罵倒し続ける志狼を慌てて止める二人。
その背後では、錦屋の主や女将、そして番頭や使用人達が騒ぎを聞き付けぞくぞくと集まり始めている。
「志狼さんッ! 志狼さんってば、止めてよ! 」
「それ以上やれば死ぬぞ!」
朱王に後ろから腕を押さえ付けられるよう止められて、興奮に目をギラつかせながらも、志狼はやっと男を踏み付けていた足を止めた。
ん
「このクソ野郎が……! おい海華、怪我はないか?」
荒い息を何とか整え、海華の肩に手を掛けて顔を覗き込んでくる志狼に、海華はやっと微笑み軽く頷いた。
「あたしは平気よ。助けてくれて、ありがとう」
「止めろよ礼なんて。遅くなって悪かったな。都筑様達が、もう少しでこられる筈だ」
そう言いながら、志狼は男の鼻面をへし折った右手を二、三度振って見せた。
『本当にご迷惑をお掛けしました』そう錦屋の主や女将に何度も頭を下げ、朱王達は店を後にする。
志狼が部屋に飛び込み男を殴り飛ばした、それから間もないうちに忠五郎や留吉を引き連れた都筑、高橋が錦屋へと駆け付け、客間でノビている坊主頭を無理矢理起こし、番屋へと引き立てて行った。
「やっと終わったな」
濃紺の闇が支配する道を錦屋から借りた提灯で照す志狼がポツンと呟く。
西の空に傾きかけていたギラつく夕陽は水平線の彼方に姿を消し、静かな夜が世界を包み込む。
三人以外人気のない寂しい夜道に、更に重苦しい空気が立ち込めた。
「無事に解決したのはいいけれど、なんだかスッキリしないわね」
「人が一人死んでるんだ。スッキリなんてするものか」
どこか元気のない海華の台詞に、朱王が吐き捨てるように答える。
元々、朱王も勝手に名前を使われた被害者、多大な迷惑を被ったうえに、こんな心苦しい思いまで味合わなければならないなど、本当に災難としか言い様がない。
「騙し取られたお金って、どうなるのかしら?」
「返っちゃこねぇだろうなぁ。きっと、もう使い果たしてるんじゃねぇか?」
「そう、ね……。あたし達や兄様に非はないけど、なんだか気の毒」
「後は、あの男の問題だ。ま、責任がしっかりとれような奴とは思わんがな」
不機嫌を 露に海華の前を行く朱王は、ふとその場に足を止めてチラと小さく彼女へと振り返る。
「……お前に怪我が無かったのが、不幸中の幸いだな」
厳しい顔付きながらも、その口から出た優しさを含む言葉に、海華はニコリと笑って無言のまま頷く。
柔らかな、しかし少しの肌寒さを感じさせる夜風に吹かれ、三人はそれぞれの家路へと帰っていった。
「朱王さんの偽物、全部吐いたみたいだぜ」
戸口を開けるなり、開口一番志狼はそう言った。
春霞の立つ気だるい朝、シトシト降る雨の音を聞きながら仕事に打ち込んでいた朱王は、そんな彼の台詞に大きな反応も示さず、ただ『そうか』と一言返しただけだ。
「志狼さんは、あの時いなかったから知らないだろうが、あいつ……いや、真五郎は『爺さんを殺した』と大声で喚いていたんだ」
「なんでぇ、もうあいつの名前を知っていたのか? 瓦版でも見たのかよ」
錦屋での大騒動から、まだまだ三日ほどしか過ぎていない。
傘の水滴を表で切り、上がり框に腰を下ろした志狼は驚いた面持ちで朱王を見る。
すると作業机に向かっていた朱王は、やっと身体ごと彼の方に向き直り軽く頷いた。
「昨日、うちにあいつの師匠だったお方が……長介さんと言うんだ。俺もよく知っている方なんだが……こっちが恐縮するくらい頭を下げてくれたよ。本当に、恩を仇で返す、ってのはこの事なんだな」
作業机に肘をつき、溜め息混じりに呟き昨日の出来事を話始める。
朱王の世話をしに来ていた海華が帰ってすぐ、ちょうど昼を過ぎた辺りに、その男はやって来た。
以前より朱王と顔見知りであり、同じ人形師を生業とする五十を過ぎた男は、部屋へ入るなり日に焼けた畳に額を擦り付け、朱王の名を騙った男は、ふたつき前まで自分の弟子であった真五郎だと告げたのだ。
元々、大工の使いっ走りのような仕事をしていた真五郎は、とある人形屋で見た朱王の人形に興味を持ち、人形師となるにはどうしたらよいのか、と長介の元に相談に来たという。
元より世話好きな長介は、自分も人形師だが朱王の人形が気に入ったのならば彼に弟子入りするのが一番早い、それならばしばらくうちで経験を積み、ある程度の技量を付けてから弟子入りした方が朱王としても良いだろう、と提案したのだ。
「なんだ、随分と親切な人じゃねぇか。普通そこまで言ってはくれねぇぜ」
「そうだろう? 小遣い程度だが給金も出すとまで言ったようだ。で、真五郎はすぐに長介さんに弟子入りしたんだが……」
「根っからの遊び人が、職人の世界に馴染めるわけがねぇ、って事だろ? だいたいわかるぜ」
へっ、とせせら笑った志狼は、濡れた足を拭いた手拭いを土間にある小桶に放り込み、室内へと上がる。
勝手知ったるなんとやら、茶の支度を始める彼を横目に、朱王は長い髪を掻き上げて『そうだ』と低めの声で答えた。
「新入りの弟子なんて、最初やらされるのは雑用も雑用、道具なんか触らせてなんかもらえない。それも修行のうちなんだが、それを奴は俺は小間使いでいるんじゃない、だの早く人形を作らせろだの、手一杯文句を並べ立てて、そのうち店にも顔を見せなくなったらしい」
「それで破門……と言うより叩き出されたのか。だからあの塵屑みてぇな人形を作れたんだな」
湯飲みを二つ用意し、湯気の立つ茶を注いでいく志狼は、部屋の片隅に放られている風呂敷包みにチラリと視線を投げる。
それには、真五郎が見様見真似で作ったのだろう、人形の残骸が包まれているのだ。
「あぁ。あんな物、作ったうちには入らないがな。で、フラリと入った古物屋で、たまたま俺の人形が売られているのを見付けた、これ幸いとばかりに買い求めて、俺の名前を名乗ったんだ」
桐野邸から持ち去られた海華の人形、それを目星を付けた家の人間に見せ『自分の作品だ』と嘘をついた。
これと同じ、いや、これ以上質の高い人形を作ってやると持ちかけ金を騙し取っていたのだ。
茶を満たした湯飲みを志狼から受け取り、少し煤って唇を湿らせた朱王は、それを机に置いて胡座をかいていた足をモゾモゾと組み直す。
「髪を剃ったり髢を被ったりと見た目を変えて騙りを繰り返していたんだな。俺から『朱王の偽者が人形を売り込みに出歩いている』と聞いて、長介さんは真っ先にあの男の事が頭に浮かんだと。だが、今どこにいるかもわからないし、証拠もないのに疑うわけにはいかないと黙っていたんだ」
破門しているとはいえ、元は自分の弟子だった男だ。
朱王さんにこんな迷惑を掛けて申し訳無い、自分が真五郎を追い出さなければ、こんな事にならなかった。
そう涙声で言いながら何度も頭を下げる長介に、朱王は気の毒な、それ以上にいたたまれない気持ちに襲われる。
「弟子ってもんは人助けでとるもんじゃない。大体、長介さんには何の非もないだろう?」
「当たり前じゃねぇか、俺からしてみりゃ親切すぎるくれぇだぜ。それで責められちゃあんまりだ」
『元はと言えば、あの馬鹿野郎が悪ぃんだ』そう忌々しげに吐き捨てて茶を啜る志狼。
室内には、板屋根に当たる雨の音と二人が茶を啜る音だけが静かに満ちる。
すると、戸口の向こうからパシャパシャと水溜まりを飛び越える軽やかな音色が聞こえ、微かに戸が軋む響きと共に、蛇の目を差した海華が姿を現した。
「こんにちは~! 雨、なかなか止まないわね」
片手に蛇の目、片手に小さな紙包みを持った海華がひょこりと顔を出す。
この日、彼女は買い物があるから、と志狼とは別行動を取り、後程、朱王の部屋で落ち合う事となっていたのだ。
「お疲れさん、早く入って足拭けよ」
湯飲みをその場に置き、傍にあった手拭いを軽く丸めて上がり框へと放る志狼。
水気を切った蛇の目を土間に置いて、その手拭いを取った海華は、泥と水で汚れた足を拭いつつ『明日も降るのかしら?』と小さく一人ごちた。
「この程度の降りなら、明日の朝には止むんじゃないか? それより海華、昨日頼んだものは……」
「ちゃんと貰ってきましたよ。はい、これ研ぎに出してた彫刻刀ね。それと……木村屋さんから言伝てを預かってきたの」
足を拭いて部屋へと上がった海華は、持参した包みを朱王に渡し彼の前にちょこんと正座をする。
「さっきね、木村屋さんの前を通ったら旦那さんが飛び出してきて……。あのね、こないだの男にお金騙し取られた人達がいるじゃない? その人達に格安で人形を造ってお詫びしたい、っていう人がいるんだって」
「なに、格安で人形を? もしかして、その人と言うのは……」
「長介さんよ。本当、あの人も人が良いっていうか……」
苦笑いを浮かべて口許に手を当てる海華、朱王と志狼もお互い顔を見合わせて目を瞬かせる。
「絵に描いたような『いい人』だな。とうの昔に破門した弟子のやった事だ、知らぬ存ぜぬで通せる筈だぜ?」
「それができないお人なんだよ。で、その事について、俺に何か?」
微かに小首を傾げて尋ねる朱王に、海華は唇を笑みの形に変えた。
「それでね、とても長介さんだけじゃ手に負えないから兄様にも手伝って貰いたいんですって。どうする?」
「どうする、って、そりゃお前……受けるに決まっているじゃないか」
ゆったりと腕を組んだ朱王は、ひび割れた壁に凭れ掛かりながらニヤリと笑う。
他にも仕事は入っているのだが、この頼みを断っては男が廃るだろう。
「さすが兄様。きっとそう言うと思ったわ。じゃぁ、これから木村屋さんのところに行ってくるわね。志狼さん、ここの掃除、お願いできるかしら?」
「任せとけ。雨、強くならないうちに早く帰ってこいよ」
そう言ってほぼ同時に立ち上がった二人、志狼は棚の近くに下げていた紺色の前掛けを手に取り、海華は濡れて濃茶に変色した下駄を突っ掛ける。
『いってきます!』そう一言告げ、蛇の目を差して戸口の向こうへ彼女が消えたと同時、朱王は湯飲みに残っていた茶をグッと飲み干し、立ち上がる。
「さて、俺も支度に掛かるか。志狼さん、これから忙しくなると思うが、よろしく頼んだぞ」
「わかってらぁ。朱王さんがきちんと飯食えてるか、毎日覗きにくるからな」
紺の前掛けを片手で器用に締めて、志狼が笑う。
これから先、朱王は寝食削って働く日々が続くだろう。
希代の天才、そんな誉れの高い朱王の偽者は消えた。
志狼や海華の助けを借り、朱王が無事に全ての仕事をやり終えたのは、それからひと月ほど後の事になったのだ。
終




