第三話
取り合えず桐野に相談してくる、そう言って番屋を出ていく都筑と高橋の背かを見送った後、朱王らも早々に帰路につく。
後は桐野の判断に掛かってくる、事故で処理されるか、はたまた事件として再度捜査が成されるか……。
今後どちらに転ぶか、朱王達にはわからなかった。
偽朱王の一件もある、そちらの方も気になるが、いかんせん朱王は仕事に追われる身であり、志狼と海華も以前のように思い立ったがまま、調査が出来るほど暇ではないのだ。
後は桐野らに任せる、三人でそう、確認し合ってから数日後、ちょうど海華が朱王の所へ食事の支度をしに訪れていた時だった。
『こんにちはぁ』と、どこか気怠げで嗄れた声と共に戸口が開かれ、一人の年増女がヒョイと顔を覗かせる。
「あら、お石さん。こんにちは」
芋を煮た後の鍋を片付けていた海華が軽く背中を反らせて会釈する。
いつもの場所、作業机の前に座り絵筆を握っていた朱王も、顔だけを戸口へ向けて軽く頭を下げた。
「こんにちは海華ちゃん、朱王さんも忙しいところゴメンねぇ。ちょいと朱王さんに聞きたい事があるんだけどさ」
上がり框に腰を下ろし、口許をポリポリ掻きながら、家主の女房、お石は朱王へチラと視線を投げる。
彼女の隣に膝をついた海華は、その物言いたげな視線に気付き、無意識に小さく首を傾げた。
「私に聞きたい事? 何でしょうか?」
赤い顔料の入った小皿に絵筆を置いて身体ごと彼女へ向いた朱王。
そんな彼にお石は微かに眉を潜めて捻るようにしていた上半身を少しばかり前へと傾けた。
「朱王さん、あんた弟子ってとった事あったかい?」
「弟子? いいえ、一度も。弟子をとるなんて、私にはまだ……」
「そうかい? でもねぇ、あんたの弟子だって男がいたんだよ」
『おかしいねぇ』そう呟き右頬に手のひらを当てる。
彼女の台詞に一番驚いたのは、隣にいた海華だった。
「兄様の、弟子!? お石さん、それってどういう事なの!?」
「どういう事って、そう言ってる人が街にいたのさ。さっき、用事足しに出掛けた時にね、近江屋さんで奉公してる知り合いの娘に会ってね、その娘が、今、お店に朱王先生のお弟子さんが来てるって言うんだよ。何でも、そこの奥さんの人形を安く作ってくれる、って朱王さんが言ってるって。
あたしゃ何だかおかしいな、と思ってねぇ、こうして聞きに来たって訳さ」
身振り手振りを交えて話すお石を前に、朱王と海華の顔色がみるみるうちに変わっていく。
『やっぱり違ったんだね』そう納得するようにお石が言ったと同時、二人はその場から跳ねるように勢いよく立ち上がった。
「お石さんッ! その、俺の弟子とか言う奴の風体は!?」
「風体? さぁねぇ、あたしも直に見た訳じゃないし……」
「じゃぁ、それっていつくらいの話なの!?」
「さっきさ、本当についさっきだよ。もしかしたら、まだその人、店にいるかもしれない……」
「兄様ッ! あたし行ってくる!」
お石が思わず仰け反るほどの勢いで土間に飛び降りた海華は、そのまま下駄を突っ掛け表へ飛び出していく。
全ては一瞬の出来事、お石も朱王も彼女を止める事など出来ない。
「海華ちゃん!? ちょっと、朱王さん……」
「すまないお石さん、話はまた改めて! おい! 海華待てッ!」
絵筆も人形もそのままに、転がるように部屋を飛び出す朱王の背中を、お石はキョトンとした表情で見送る。
朱王が表へ駆け出したとき、海華は既に長屋門を潜り抜けていた。
もはや、呼べど叫べど彼女には聞こえないだろう、そう思った朱王は脱兎の如く近江屋へと駆ける。
道を行くぼて振りや、買い物帰りだろう女らが、髪をたなびかせて疾走する朱王に驚きと不審が混ざりあった眼差しみを向けていく。
しかし、今の朱王にそんなものを気にしている余裕はない。
息を切らせて走りに走り、足を縺れさせながら、やっとの思いで辿り着いた近江屋は、女物の簪や櫛、その他、小間物を扱う問屋だ。
大店、とは言い難い店構えだが、この辺りではそこそこ繁盛している近江屋、その店の周辺にグルリと巡らされた板塀の上では、茶色の錦を纏った小雀が賑やかにお喋りを交わしている最中だ。
道の真ん中で前屈みとなり、必死で息を整える朱王の視界に海華の姿は見えない。
どこだ、どこに行った、と視線をあちこちへ飛ばし彼女の姿を探す彼の耳に、突如 『あんたが偽者でしょう!?』と鼓膜をつんざく女の甲高い叫びが飛び込んできた。
白昼の表通りに響き渡る尋常ではない金切り声、それは間違いなく海華のものだ。
慌てて身を起こし、辺りを見渡した朱王は、近江屋の裏口付近、ちょうど店の木塀と隣家の木塀の間辺りに続々と人が集まっているのが見える。
騒々しい人垣に吸い込まれるように走り出した朱王は、老若男女を掻き分けて塀と塀の間の小道へ躍り出る。
人一人がやっと通れるほどの細い裏道、ほの暗く狭い世界で、二人の人影が揉み合っているのが見えた。
「待ちなさいよ! あんたが朱王の弟子って名乗った人ね!?」
「な、んの事でぇっ! 俺は知らねぇ、大体あんたは何なんだッ!」
ひょろりとした長身の男、その袖口を鷲掴み力一杯引っ張る海華は、腹の底から大声を張り上げて男を怒鳴り付ける。
「誤魔化さないでよ、ここの女将さんにちゃんと聞いたんだから! あんた、朱王が安く人形作ってくれるから、って言ったんだって!? しかもお金まで貰って! そんなはずないわ、朱王は……兄様は弟子なんてとってないんだからッ!」
絶叫にも似た海華の叫びが裏道全体に響き渡る。
その瞬間だった。
サッと顔色を変えた男は、海華に掴まれていた側の手を思い切り強く振り払い、反対側の手に持っていた小さな風呂敷包みで強かに彼女の胸を打ち据えた。
ガン!と鈍い音が聞こえたと同時に、海華の身体が後方へ傾く。
悲鳴も上げられないまま、彼女はその場へ尻餅をつくように倒れ込んだ。
「海華!? 」
目の前で土埃にまみれる妹と、その場から脱兎の如く逃げて行く顔もよくわからぬ男。
胸を押さえて踞る彼女を抱き起こし、顔を覗き込む。
すると海華は微かに唸りながら胸を擦り、目尻に涙を浮かべながら朱王を上目使いに見た。
「お前、大丈夫か!?」
「う、ん……大丈夫。あぁ、逃げられちゃった」
「バカ、そんな事気にするな。立てるか?」
男が 逃げていった方向を悔しそうに見遣る彼女を抱えてその場に立たせた朱王は、背中から感じる数多の視線とさざ波のようなざわめきから海華を遮るように彼女の後ろに立ち、男が逃げていった方向を、次第に細くなっていく道の向こうを見詰める。
「あら? あれ、なにかしら?」
殴られた胸を軽く叩き何度か噎せ込んだ海華は、ふと道の端に視線を向ける。
そこには、先程己の胸を強かに打った小さな風呂敷包みが転がったいた。
どうやら、あの男が落としていったのだろう。
小走りに風呂敷包みへと駆け寄り、片手で拾い上げる海華を軽く押しやり、二人で小道を抜けて人の目を避けるように隣家の塀陰へ再び身を隠す。
固く縛られた結び目をなんとかほどき、手早く包みを開けて中身を確かめた瞬間、朱王はハッと息を飲み、海華は驚愕の表情を浮かべて口を半開きにさせた。
『海華がぶたれた』そう聞いた途端、志狼は庭を掃いていた箒を投げ捨てて海華へと駆け寄り、頭の天辺から爪先まで入念に点検する。
見えるところには、どこにも怪我がないようだ、それがわかると、彼はほんの少し安心したように小さく溜め息をついた。
「志狼さん、大丈夫よ。胸の辺りがちょっと痛いだけで、後はどこもなんともないわ」
「そうか? それならいいが……あまり無茶な事すんなよ、寿命が縮んだぜ」
塀の影で風呂敷の中身を確かめた二人は、その足で八丁堀にある桐野邸へと向かった。
そこには留守を預かる志狼がいたのだ。
「俺がついていながら、すまなかった志狼さん」
「いや、朱王さんが悪ぃんじゃねぇよ。それより、その風呂敷の中身ってぇのは何なんだ?」
朱王の持つ風呂敷包みに目をやりながら、志狼は小首を傾げる。
すると朱王は風呂敷を持ったまま、ここから縁側へと向かった。
「アレを見たら、きっと志狼さんも驚くと思うわよ」
そんな意味深な台詞と共に志狼の手を引いて縁側へと向かう海華。
彼女にされるがまま縁側へまで来た志狼は、広げられた風呂敷の上に置かれた『ある物』を目にするなり、アッ!と小さな叫びを上げた。
「こりゃぁ……海華の人形じゃねぇか!」
目を白黒させながら目の前にある人形を手に取った志狼は、それを前後左右に向きを変え、隅々まで確かめ始める。
「やっぱり間違いねぇ。海華が嫁にきた時に持ってきた人形だ」
「そうよ。盗まれて古物屋に叩き売られてた、あの人形よ。まさかこんな風に見付かるだなんて……」
鮮やかな藤色の着物と豪奢な簪、鼈甲の櫛を身に付けた、可憐と言う言葉がピッタリの娘人形は海華が嫁ぐ際、朱王が持たせた物だ。
とある事件で盗まれ、古物屋に二両の安値で叩き売られてしまった人形を、海華と志狼は今まであちこちの店を廻って探していた。
しかし結局見付からず、朱王は仕事が一段落したら新しい物を作ってやる、と海華に約束したばかりだったのだ。
「あんなに一生懸命探して見付からなかったのに……」
「きっと、さっきの男が買ったんだろう。それか、誰かから譲られたかだな。あいつ、これを『自分の作品だ』とかなんとか言って見せたそうだ」
「前に騙した連中にも同じ事ぬかしたんだろうぜ」
手にしていた人形を海華に渡し、軽く眉をひそめた志狼。
そんな彼の横で、海華は人形の頬を着物の袖で軽く拭い微かに唇を綻ばせる。
「でも、この子が返ってきて良かったわ」
大切な可愛いあの子はどこに行ってしまったのだろうか、ずっとずっと気になっていた大切な人形。
行方知れずだった我が子とようやく再開できたような喜びに浸る海華は己が胸にギュッと人形を抱き締める。
痛い思いをしても、あの男を問い詰めて良かった。
そんな思いに海華が浸っていた時だった。
やおら玄関付近が騒がしくなり、三人がいる中庭に駆け込んできたのは都筑と高橋の二人である。
「おぉ、やはりここにいたか!」
真っ赤に上気した四角い顔を緩ませる都筑が、朱王らの姿を見るなり上擦った叫びを上げる。
その後ろでは、楓の気に上半身を凭れかけさせる高橋が、身体全体を使って大きな息をついていた。
「高橋様、大丈夫ですか? 今、お水を……」
「いや……いや、平気だ海華殿。水より、水より先に話さねばならぬ事が……」
息も絶え絶えと言った様子で汗を滴らせる高橋が、よろめきながらこちらへと歩いてくる。
この二人がここまで急いで話さねばならぬ事とは一体何だろうか?
不思議に思いながらも朱王と志狼は二人を縁側に座らせる。
「いや、驚かせてすまぬ。実は先日、川で溺れ死んだ爺さんの事なのだ。あれから再度、骸を調べようと思って爺さんの家に行った。そこで、骸の首筋を調べたら……」
「ほんのわずかではあったが、首の左右に引っ掻き傷があった。こう……首を後ろから掴み上げたような……」
都筑の台詞を遮るよう、早口に喋りだした高橋が、言葉通りに都筑の首を絞めるように後ろから鷲掴む。
両側の筋に爪が食い込む痛みに顔をしかめた都筑は、邪険に高橋の手を払い除け、はぁっ! と盛大に息を吐き出した。
「ご検死の時には気が付かなかったが、あの形は確かに人の爪の痕だ。慌てて桐野様にご連絡し、改めて医者を呼んで骸を診させた。そうしたら、口の中から木綿の糸が出てきた。歯茎も擦れて血が滲んでいた箇所もあった」
「歯茎が?」
片方の眉をピクリと動かし朱王が首を傾げる。
その横に立っていた志狼は、何かを気付いたように一度瞬きをした。
「―― きっと騒がれねぇように口ン中に手拭いでも突っ込まれたんだろう。で、首根っこ掴まれて川の中へ……」
「それじゃ、やっぱり殺されてたの? 誰がそんな酷い事を……」
右手を口に当てて呟く海華に、羽織の袖を捲り上げた高橋が汗のにじんだ顔を向ける。
「それなのだ海華殿。俺と都筑は……いや、桐野様も爺さんを抱えて運んでいた坊主が下手人だと思っている。酒を飲ませて泥酔させて、抗えなくなったところを溺死させたのだ、と」
「いや、お前達の話を聞いていなければ、人殺しをのさばらせる大失態を犯すところだった。感謝するぞ。これから本格的な捜査だ。桐野様もお忙しくなるだろう」
顎の先から滴る汗を拭い取り、都筑がそう口にする。
先刻、近江屋に現れた男の事を話さなければ。
そう思い立ち、唇を開いた海華の手を、志狼と彼女の間に立っていた朱王が一瞬のうちに握り締めた。
掴まれた手から雷に似た痺れが全身を駆ける。
開きかけた口は一瞬で閉じられ、背中に棒を一本突き立てられたが如くその場に硬直した海華、そんな彼女の様子に気が付くことなく、都筑と高橋は『まずは報告までだ』と一言残し足早にこの場を去っていった。
「ちょっと兄様、どうして止めるのよ? あの人の事ちゃんと話さなきゃ……」
握られていた手を軽く擦りつつ、不満を顔一杯に表す海華に視線を向けつつ、朱王は胸の前で腕を組む。
「そう焦るな。お前、さっき高橋様がなんと仰ったか覚えているか? 死んだ爺さんと一緒にいた男は坊主頭だったんだ。さっき近江屋にいた男は、確か髷があったように見えたぞ」
彼の台詞に、海華は一瞬動きを止め、あの時の場面を思い出すかのように宙へ視線をさ迷わせる。
「……そう言われてみれば、そうね。髷を結ってたわ。なら、下手人はあの男じゃないって事なの?」
「いや、坊主頭に鬘でもかぶってたのかもしれないぜ。それか……二人か、それ以上で連んでるか、だな」
ドカリと縁側に座らせた腰を下ろして言った志狼に、海華は無言のままで頷く。
どちらにしても、近江屋にいた男は無関係でないだろう。
「ねぇ、兄様の偽者、またどこかに出るんじゃない?」
「せしめた金が無くなれば、また同じ事をやるだろうな。さっさと見付け出さねぇと、朱王さんの名前はあっという間に地に堕ちるぜ」
「冗談を言うな。そうなる前に捕まえて都筑様達に引き渡してやる。お前達、少しだけ協力してくれないか?」
真剣な眼差しで二人を交互に見遣る朱王。
『任せてよ』そう言いつつトンと胸を叩いた海華と、朱王の顔を見上げて一度頷いた志狼。
そんな二人と額を付き合わせ、朱王は早速、偽者を捕らえるための作戦会議へと移る。
彼の話が全て終わった、それと同時に三人はそれぞれに屋敷を後にし、江戸市中へと散っていった。
さて、都筑らが桐野邸を訪れてから三日余りが過ぎた。
近江屋で遭遇した朱王の弟子、と名乗る男は、あの日前金を受け取ってから二度と店に現れる事はなかった。
そしてそれ以来、朱王の弟子だと名乗る男がいた、という話しも耳に入ることはない。
海華に問い詰められたのを機に騙りを止めたのか、はたまた江戸から逃げ出したのだろうか……?
溜まった仕事を片付けながらも、どこか落ち着かない日々を送っていた朱王。
そんな彼の元に朗報、と言うべきだろうか、それとも嫌な知らせと言うべきだろうか、どちらともつかぬ一報が舞い込んだのは、どんよりと分厚い雲が天空を覆う、花曇りの昼過ぎだった。
「兄様! 兄様、やっと出てきたわ!」
裏返った甲高い声で叫びながら、海華が部屋へ転がり込んでくる。
履いていた下駄を土間に脱ぎ散らかす様を見て、朱王は盛大に顔を顰めた。
「なんだお前、大声出してみっともない。下駄くらい揃えて……」
「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないわよ! やっと出てきたのよ、兄様の偽者が!」
バタバタと四つん這いで朱王の元へ近寄る海華の頬は、桜色に染まっている。
興奮にキラキラ瞳を輝かせる彼女の口から飛び出た台詞に、思わず朱王は手にしていた彫刻刀を取り落とした。
「本当か!? どこに、どこにいた?」
「それがね、呆れちゃうわよ。錦屋さんに来たんですって。今朝の話よ。今度は『朱王の従兄弟』って名乗ったらしいわよ」
軽く息を切らせて言った海華を前に、朱王は呆れを通り越して思わず苦笑いだ。
「従兄弟、か……。よくもまぁ、そんな出鱈目を次々と」
「本当よね。で、対応したのが女将さんだったものだから、嘘だってすぐわかるわよ。すぐ店の子に頼んで、あたし達の所に来たってわけ」
『いろんな所に声掛けておいて良かったわね』
そうポツリとこぼして、その場に正座をする海華。
彼らは数日前、それぞれ自分達が知っている限りの人や店に『朱王の偽者』について話し回っていたのだ。
もしも朱王の弟子や親類を名乗る者がいたら、すぐに教えて欲しい。
その時は追い返さないで上手く話を進めて欲しい、と。
「女将さんね、人形はお願いするし前金も今日中に払う、だから夕方もう一度来て欲しい、って言ってくれたみたいなの。この事は、志狼さんが旦那様や都筑様達に報せに行ってる。だから、兄様も錦屋さんに一緒に来て」
『勿論だ』そう口にするなり朱王はその場から勢いよく立ち上がる。
この日の夕方、錦屋の裏口から密かに母屋に忍び込む朱王と海華の姿があった。




