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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第十五章 神無月奇譚
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第四話

 「―― お若い奥様ですねぇ」


 突然志狼の隣から聞こえた野太い声に驚き、思わず海華は手にしていた懐紙入れを取り落す。

初めて聞いた男の声は、どこか地の底から響くような暗く低い物だった。


 「こんな可愛い奥様をもらえるなんて、旦那が羨ましいやね」


 框に座り込んだまま、じっと足元を見詰めて話す男を、どこか不気味そうな面持ちを作り横目で見遣る海華、しかし志狼は彼に似合わぬにこやかな笑みで彼の方を振り向く。


 「そうか? まぁ、確かに俺にゃ勿体無いくれぇの女房だな」


 「嫌だわ、止めてちょうだいよ恥ずかしい。それに、あたし言う程若くもないのよ」


 微かに頬を赤らめ、改めて懐紙入れを手に取り元あった場所に置き直す海華に、少しばかり顔を上げた男は舐めるような視線を向けた。


 「そうですかい? あっしにゃそうは見えねぇですがね? ところで旦那、お子さんはいらっしゃるんですかい?」


 「いいや、それだけはまだなんだ。そろそろとは思ってんだが、こればっかりは思った通りにいかねぇもんだ」


 ペラペラと饒舌に話す志狼を軽く睨みつつ、海華は早くこの小間物屋を帰してしまおうと、適当に手にした小さな紅を志狼に差し出した。


 「志狼さん、これがいいわ」


 「そうかい、じゃぁ、これくんな」


 「へい、ありがとうごぜぇやす」


 志狼は懐から財布を取り出し、男に紅の代金を払う。

男はそそくさと金を懐へ仕舞い込みながら、またしても上目遣いに海華を見る。

その粘つくような、嫌な熱を含んだ視線に肌を舐められて、海華は紅の容器を袂に放り込み志狼の背後へ隠れるように場所を移し座った。


 框に並べた品物を木箱にしまった男は、それを背中に背負うと二人に向かい手拭いを被った頭を軽く下げる。


 「どうもありがとうごぜぇやした、どうぞまた御贔屓に……」


 「おぅ、いい品が入ったら、また来てくれ。せっかくだ、あんたの名前を教えてくんねぇか?」


 框に腰を下ろした志狼は、笑みを浮かべたままで軽く目を細める。

男は軽く身を屈めたまま、『へぇ』と小さく返事をした。


 「へぇ、あっしの名前は繫造と申します」


 『しげぞう』男の口から出た名前を耳にした途端、志狼の後ろに身を隠していた海華の両目が張り裂けんばかりに見開かれ、自然と軽く腰が浮く。


 「し、げ……」


 「そうか、繫造さんてぇのか。わかった、なら、またよろしく頼むぜ」


 仰天した海華の声を遮るようにそう早口で口にした志狼、彼にもう一度軽く会釈した男、繫造は、木箱を背中に背負い、ちょこちょこと小刻みな歩きで表へと出て行く。

彼の姿が完全に見えなくなったのを勝手口から顔を覗かせて確認した志狼、戻ってきた彼を出迎えたのは、軽く眉を顰めてこちらを見遣る海華だった。


 「ちょっと志狼さん、今の、どういう事なの? あたしの事利用したわね?」


 「利用なんて人聞きの悪ぃ事言うなよ。ちょっと協力してもらっただけだ」


 見るからに不機嫌そうな彼女を宥めるように苦笑いして框に上がった志狼は、海華の肩を軽く叩いて自室に向かうよう促す。

フン、と小さく鼻を鳴らして彼の後につき離れへと向かう海華、部屋に付いた彼女を座らせると、志狼はまるで内緒話をするかのように顔を近寄せてきた。


 「なぁ、今の男、どう思う?」


 「どう思うも何も……どうしてあんな気持ちの悪い人、中に入れたのか、って思ったわよ。あたしを見てたあの目……今思い出しても鳥肌が立つわ」


 眉間に深い皺を寄せ、自信を抱き締めた海華が小さく身震いする。


 「そうか、実はあいつ、最近この辺りをうろついていた男なんだ。見ての通りの小間物屋なんだが、前はお仙さんの店の周辺で商売をしていたらしい。子供らに紙風船やら千代紙やらを配ってな、よく懐かれていたと聞いたんだ」


 海華と同じく眉間に皺を寄せ、そう口にした志狼は、顎の先を指で擦りながらその場でドカリと胡

坐をかいた。


 「その話し、どこで聞いたの?」


 袂に入れていた紅を取り出し畳に置きながら海華が小首を傾げる。


 「昨日な、お仙さんの所に行った時、旦那が部屋で千代紙で折った人形やら毬やらを並べて泣いてたんだ。おはなが小間物屋からもらって作ったもんだ、ってぇ言ってな。そん時はそこまで気にもしなかったんだが……」


 そこまで一気に言い切って、志狼は呼吸を整えるように息を吸う。

彼の話しに引き込まれていた海華は、身を乗り出し固唾を飲んだ。


 「店から帰る途中で、よく寄る茶屋の孫が、店にあったのと同じ柄の千代紙で折った風車を持ってたんだ。何の気なしに誰からもらったのか、って聞いたら『しげぞうおじちゃんに貰った』とさ。お前が見付けた手拭いにも『しげぞう』って書いてあっただろう?」


 「あぁ、だからね。あたしもさっき聞いてビックリしちゃったわ」


 今度は海華が真ん丸に目を見開き胸の前に手を当てる。

だろう? と小さく言った志狼はぐっと身体を前に屈めて眉根を寄せた。


 「まぁ、しげぞうなんて名前はどこにでもあるがな、なんだか気になるじゃねぇか。んで、その小間物屋を見つけ出して今日ここに呼んだんだ」


 「そうか、小間物屋だったら若い女の人にも簡単に近付けるし、子供だって手懐けられるわよね。たとえ表で声を掛けても怪しまれないじゃないの」


 ぽん、と一つ手を打って海華が言う。

しかし、すぐに彼女の顔に疑問の色が浮かんだ。


 「でもね、どうしてあの人が女子供誘拐しなきゃならないのかしらね? どこかに売り飛ばしてるようにはみえないけど……」


 「わからねぇぜ、どこかに閉じ込めて玩具にしてるかもしんねぇじゃねぇか。あのナリを見たろ?とても女房がいるようには見えねぇや」


 ボリボリ頭を掻きながら言った志狼に、思わず海華は苦笑いだ。

しかし、事は笑っていられない。

彼の言葉が真実であるとしたら、おはなは今、地獄にも等しい状況に置かれているのだろう。

 「とにかく早くおはなちゃんを助け出さないと……。志狼さん、あの人の事旦那様には?」


 「勿論、今夜伝えるつもりだ。俺も少し、あいつの周りを探ってみようと思う。海華、お前は危ねぇからあいつに近付くんじゃねぇぞ」


 そう一言言った志狼は、海華が畳に置いた紅を取ると己の懐に突っ込んだ。


 「あら、それどうするの?」


 「こんな安物付けんじゃねぇや。紅ならもっと良質いいやつ、いくらでも買ってやらぁ」


 どこか恥ずかしそうに視線を逸らせた彼は、一言残してそそくさとその場から去って行く。

一瞬ポカンと口を半開きにした海華、しかし次の瞬間には、両手で口元を覆い目尻を緩めて小刻みに肩を震わせた。










 さて、その日の晩に志狼から小間物屋 繫造の事を聞いた桐野は、早速都築と高橋に彼の尾行を命じた。


 二人の調べによれば、彼は三十路を過ぎた独り者で、以前共に暮らしていた両親は数年前に相次いで他界し、今は儀太郎長屋という中西長屋と似たり寄ったりのボロ長屋で独り住まいをしているらしい。


 志狼の予想通り女房どころか女の影は全くなく、日々の仕事が終われば真っ直ぐ長屋に帰るか、たまに一杯飲み屋の暖簾を潜っては安物の酒をチビチビ舐めるだけが楽しみのような、どこか寂しい生活を送っていた。


 背丈もない、蛙腹を揺らして道を歩く彼はお世辞にも女に人気が出るような男ではない。

扱う品も安かろう悪かろうといった物ばかりだが、それなり客はついているようだ。


 決して二枚でもない彼だが、贔屓客の元を周るたびに、その家の女将やら娘やらが笑顔で出迎えている。

最初はそれが不思議だった都築と高橋だが、二日三日と彼を尾行するうちにその理由が何とはなしにわかってきた。


 彼は口下手で無愛想だが、気前はいいのだ。

まけてと言われれば嫌な顔をせず値引き、志として安い簪や櫛などを置いていく。

そして、小さな子供たちには千代紙や竹蜻蛉、独楽こまなどをあげ、たまには共に遊んでやったりもする。


 無精髭が生えたむさ苦しい中年男だが、子供好きなのかはたまた子供に好かれるのか……。

どちらかはわからぬが、二人の目にはとても女子供を誘拐するような男には見えなかったし、何より彼が巷を騒がせている『逢魔ヶ刻の人攫い』とは到底思えない。


 これは桐野の、いや、志狼の見立て違いなのではないか。

二人の心にはそんな思いが去来していた。


繫造の尾行を開始してから五日目、ここまで彼に怪しい動きはない。

何もかわらないまま過ぎて行く時間、それに二人の気持ちの糸が緩んでしまったのだろう。

昼も過ぎ、とある一軒の商家に入って行った繫造、近くの木塀の蔭に隠れて大きな屋敷の中に消えて行く彼の姿をじっと見ていた二人。

きっと少し経てば出てくるだろう、そうタカを括った彼らの間に緊張した様子はない。

都築なぞは明後日の方向を向いて大欠伸を放つ始末だ。


 黒羽織を纏う身体を木塀の隅に寄せ、やれあの酒場の娘は別嬪だの、最近女房が口喧しくて困るだの、他愛無い会話を交わしているうち、どのくらいの時が過ぎただろう。

時折繫造が入って行った商家の入り口に視線を遣っていた高橋が、『やけに遅いな』と一言こぼす。


 「おい、奴はまだ出てきておらぬよな?」


 「なにを馬鹿な事を。高橋、お主と俺でずっと見張っていたではないか。繫造どころか猫の子一匹出てきてはおらぬわ」


 またもや大欠伸を放つ都築の台詞を聞いた高橋の顔から、スッと血の気が引いていく。

都築を残し弾かれるようにその場から駆け出した高橋は、脱兎の如く商家へと駆け込んだ。

一体どうしたのだ、そう思いながら小首を捻っていた都築の視界に次の瞬間飛び込んできたのは、顔から脂汗を滴らせ転がるように道へと飛び出してきた高橋の姿だった。


 「おい、高橋!どうしたのだ!?」


 「やっ……やられた!!逃げられた、っ!!」


 口から泡を吹く勢いで都築の元に駆けてきた高橋は、今しがた出てきた商家の入り口を勢いよく指差す。

そう、あの建物の中に繫造の姿はどこにもなかったのだ。


 「奴め、帰る時は裏口を使わせてくれるよう頼んだらしい、俺達に気付いていたのだ!!」


 『逃げられた!』そう甲高く怒鳴り地団太を踏まんばかりに悔しがる高橋を見て、都築の四角に近い顔から一筋の汗が滴り落ちた。



 繫造に逃げられた都築と高橋が真っ青な顔をして奉行所へと駆け込んでいた頃、中西長屋の近くにある長屋では、『仕立物うけたまわります』と書かれた看板の下がった一室から出てくる朱王と海華の姿があった。


 ここはいつも朱王が人形の衣装を仕立ててもらう馴染みの店だ。

今日も彼は今頼まれている人形の着物類を頼むために反物を持参し彼女の元を訪れていた。


 この日は丁度、夕飯の支度をしに海華が長屋を訪れており、買い物をしようと朱王にくっ付いてきたのだ。


 「今回も早めに仕上げて貰えそうね」


 「あぁ、助かったよ。お駒さんにはいつも世話になるな。さてと、それじゃあ次はお前の用事足しに行くか」


 「うん、お味噌があと少しだから、まずはそれを買って、それから佃煮を……あら?」


 指を折りつつ買う物の確認をしていた海華が、道の向こうに視線を投げたままピタリと足を止める。


 「どうした?」


 「うん、あの人……」


 そう呟きつつ道行く人の向こうに見える一人の男を指差した彼女の眉毛が軽く顰められる。

西の空にジリジリ沈みゆく夕日、時刻は逢魔ヶ刻と呼ばれる頃、埃の舞う地面に長く黒い影法師を引き連れて家路を急ぐ人々……。

その中で海華の視線を釘付けにした小太りの男は、背中に大きな木の箱を背負い軽く左右に身体を振りつつ歩いて行く。


 「どうした海華、知り合いか?」


 急に動かなくなってしまった海華の顔を覗き込み朱王は不思議そうな面持ちで問う。

無言のまま頷いた彼女は、顔だけを朱王へと向けた。


 「志狼さんが怪しいって言ってた人なの。小間物屋で、名前も『繫造』って言うのよ」


 「なに、繫造? お前、そりゃあの手拭いの……」


 「そう、そうよ。おかしいわ、都築様と高橋様が尾行つけてる筈なのに」


 朱王にしか聞こえない小声で呟いた海華派、小さな影となって行く繫造の周囲をグルリと見渡すが、そこには都築達の姿もないどころか同心らしき身形の男の姿も見えない。

建物に隠れているかと思いきや、その気配すらないのだ。


 「誰もいない……。おかしいわ、ねぇ兄様!」


 「静かにしろ、わかった。あいつが何物なんだかわからんが、とにかく後を追うぞ」


 そうきっぱり言い切って、朱王は小走りに影を追い掛けて行く。

待って、そう小さく叫んだ海華も慌てて彼を追い掛けた。


 行く人、くる人の間をすり抜け繫造の後を追う二人。

彼は迷うことなく大通りを右へ左へと進み、とある一軒の茶屋の前で足を止める。

すると、まるで彼の到着を待っていたかのように茶屋の裏口から小さな影が転がり出てきたのだ。


 夕焼けに染まる橙色の世界の中に躍り出てきたのは、一人の小さな少女だった。

ふくよかな顔に満面の笑みを浮かべて繫造に抱き付く少女……きっとおはな位の年齢だろう、彼女の小さな頭を軽く撫でた繫造は、きょろきょろと辺りを見廻すと少女の手を軽く握り、当たり前のようにその場を去って行く。

道の端に生えた木の陰に身を隠し、その一部始終を目撃していた二人は、その大胆な行動に思わず顔を見合わせた。


 決して無理矢理連れ去っているわけではない、むしろ少女が喜んで彼について行っているのだ。

ニコニコ顔で何やら繫造に喋りかける少女と、それを時折頷き薄い笑みを湛えて聞いている繫造は、傍から見るとま親子そのものだ。


 一体彼らはどこへ向かうのだろう、互いに同じ疑問を胸に抱いているが、二人はずっと無言のままに尾行を続ける。

やがて繫造と少女は、大通りを過ぎて脇道へと向かう。

その先に続くのは、おはなが姿を消した川沿いの道だった。


 夕暮れ迫る見意を行く中年男と少女の二人連れ。

彼らの傍を通り過ぎる人々は誰も彼らを不審に思う事無く通り過ぎて行く。

そんな二人の背中を凝視しながら後を追う朱王と海華、彼らの前で繫造は突然足を止めて道の端に寄ると、手を引いていた少女に屈み込みその耳元で何やら唇を動かす。


 勿論朱王達には彼が何を話しているかなど全く聞こえない。

と、少女は繫造の方を見上げてにっこり微笑み、彼の手を引っ張ってどこかに向かおうとする。

彼女は可愛らしい顔ににこやかな微笑みを湛えたまま繫造の手を引いて、道の端にある雑木林へと歩いて行った。


 「ちょ……あの子どこに行くの!?」


 「わからん、もう少し近付いてみよう」


 少女の行動に狼狽える海華の背中を軽く押して、朱王は先を促す。

その間に、二人の姿はあっという間に雑木林の中へと消えてしまった。

 「兄様、ねぇ、行っちゃったわよ」


 「そんなもの見ればわかる! お前は少しせっかちなんだ。少し静かにしてろ」


 顔を顰めた朱王に頭を小突かれ不服そうにしかめっ面っを作る海華は、彼に言われた通りに口を噤み二人が消えた雑木林の方向を睨む。

やがて、木々の微かなざわめきが彼女の耳に届き、薄暗い木陰からノソリと小太りの男が藪を掻い潜り姿を現した。


 何事も無かったかのように薄汚れた着物の裾を払い道を歩き出す繫造を見て、朱王の眉が軽く顰められた。

彼の横にも、後ろにも先程いた少女の姿はないのだ。


 「―― さっきの子供、どこに言った?」


 「わからない……藪の中に置いてきたの? そんなまさか!」


 そう一言叫んでその場を飛び出そうとする海華を慌ててその場に押し留め、改めてその場を去りゆくぞげ増の後ろ姿を眺めた朱王はその姿にある不自然さを感じた。


 背中に背負っている木箱、小間物屋である繫造が品物を淹れて背負っている木箱が、腰の辺りまで下がっているのだ。


 先程まで、立確かに箱の底は腰の上部辺りに留まっていたはずである。

しかも、箱は先程まで彼の歩みに合わせて上下左右に揺れていたのだが、今は一切揺れる事もない。


 「海華……子供はあの中だ」


 一度唾を飲み込みそう呟いた朱王の台詞に、海華は思わず大きく目を剥く。


 「箱の中って……そんな、あんな狭い中に大人しく入ってる訳ないじゃない、それとも、まさか……」

 

 まさか『抵抗できない状態に』されてしまったのだろうか。

背中に冷たい物が流れるのを感じた朱王は、やおら隣にいる海華の肩を強く掴む。

突然の事に、海華は驚きの表情を浮かべて弾かれるように彼の方を振り向いた。


 「海華、俺はこのままあいつの後を追う。お前はどうする?このまま奉行所に走るか?」


 朱王の問い掛けに、海華は即座に首を横に振った。


 「ううん、あたしもこのままついて行くわ。あいつがどこに行くのか見届けて、旦那様にご報告する」


 一刻も早く箱の中にいる筈の少女を助け出さなければならない。

そして、どこかに拉致されたおはなを今日こそは絶対に助け出すのだ。


 そう固く決意して、海華は朱王と共に再び繫造の尾行を開始する。

あっちらおっちらと重そうな木箱を背負い脇目も振らず道を行く繫造は、川辺の道を真っ直ぐに抜け次第に人家の疎らな町外れへ向かう。


 そこは明らかに彼の住む長屋とは別方向だ。

 夕暮れはやがて紫色の闇を纏う時間帯へと移り変わる。

烏の泣き声を遠くに聞きながら、繫造は脇道から更に細い道を抜け、ほぼ野原と言っていいような場所に足を踏み入れた繫造は、とある二股に分かれた道の手前で足を止め、茶屋で見せたように周囲を見回す。

背の高い雑草の陰にほぼ蹲るように身を隠した二人、息を殺して夕闇と草陰に紛れる二人に気付かず、再び繫造は野原の奥へ進んでいく。


 野畑の向こうは小さな林、そしてそこを抜けると小高い丘に辿り着く。

こんな辺鄙な場所があったなど全く知らなかった二人はピタリとその身をくっつけながら恐る恐る足を踏み出す始末。

碌に光源もないこの場所では足を縺れさせ転んでしまう危険もある。

そんな場所を提灯も持たず、迷わず進めるのだからきっと繫造には通り慣れた道なのだろう。


 こんな所に何があるのか、そんな疑問を胸に抱く海華、その答えは割合早く解決されることになる。

闇に目を凝らす彼女の前に、かつては百姓の住まいだったと思われるボロボロに朽ち果てた茅葺小屋と、野良仕事の道具でも入れていたのだろう半分潰れた掘っ建て小屋が黒い影となって立ちはだかった。

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