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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第十四章 葛ノ葉の奸計
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第五話

 『ギャァァァッッ!』と腹の底から張り上げた絶叫と共に、黒装束の男はその場に倒れて目を押さえ、狂ったように川原の上を転げ回る。

目玉を掻きむしらんばかり、もはや顔中を激しく擦る彼の顔は夕日に照らされ真っ赤に染まり、指の間からは洪水のように涙が溢れ出した。


 突然の事に呆然とその場に立ち尽くす琴音と康二郎の鼻に、川原の冷えた風に乗ってツンとした刺激のある臭いが届く。

その隙に、男が放り出した忍刀を空中で手に取った志狼が、獣の如く吼え暴れる男の脇腹を力一杯蹴り上げた。


 「特別調合の唐辛子だ、なかなかイケるだろ?」


 右手に忍刀を構えた志狼は、足元で細かい痙攣を繰り返す男から顔を上げ、康二郎と琴音に向かいニヤリと笑う。

二人を取り巻く空気が渦巻き、まるで陽炎の如くに夕焼け空が歪む。

黒装束の向こうから、ギリ……と歯を食い縛る嫌な音が生まれた。


 「こ、の……畜生がッッ! もう合わせ絵なんざ知った事かっ! このままここでぶち殺してやる! 貴様の首は、合わせ絵と一緒に頭領の手土産代だっ!」


 腹の底から轟く康二郎の咆哮は、清廉な空気をビリビリ震わせる。

と、その声を合図としたかのように、志狼の周り……橋脚の影や生い茂る雑草、そして河原にある朽ち果てた作業小屋の陰からと、次々に漆黒の人影が志狼の視界に姿を現した。

まるで地面に伸びた影から抜け出たように静かに、そして気配を殺して現れた五、六人の人影は、康二郎と同じ黒装束に身を包んだ人間達だった。


 「へぇ、こりゃまた随分な数お隠れだったんだな? さすが忍び、全く気が付かなかったぜ」


 まるで相手を挑発するように肩をそびやかして言い捨てた志狼。

そんな彼を目の前に、柳眉を逆立てた琴音は獲物に飛び掛からんとする猫のように歯を剥いて身構えた。 しかし、康二郎は彼女の肩を掴んでその場に引き留める。

彼の黒い手甲をはめた手が腰に下げていた刀を掴んだ瞬間、志狼を取り囲んでいた黒い人影が一斉に彼へ躍りかかった。


 河原の石が派手に飛び散り、夕暮れ迫る河原に幾筋もの黒い線が舞った。

舞い飛ぶ白刃は打ち寄せる白波の如く志狼に襲い掛かり、白刃がガツガツかち合うたびに眩いばかりの火花が散る。

右手一本で忍刀を操り康二郎以下六人を一人で相手にする志狼は瞬きをする暇すらない。

ヒュンヒュンと空気を裂く音を立て、鼻ギリギリを真一文字に裂く一撃を背中を反らせてかわした志狼のこめかみから、煌めく汗が一筋飛び散る。

そして腹を一突きに、と突き出される太刀を蛙の如く跳ねあがり、そしてお返しにと右手に握った凶器を振るった。


 渾身の一撃が一人の影の首筋を裂き、目の前に鮮血の飛沫が飛ぶ。

『ぐえ』と低い悲鳴を上げて足元に倒れ伏すそれを避け、真正面から襲い掛かる康二郎の腹を一蹴り、飛び掛かる影も次々に打倒した志狼は、そのまま全速力で河原に建つ橋脚の一本へと走る。


 「逃げるなっ!」


 闇が支配し始めた河原で乱闘を繰り広げていた志狼らから少し離れた場所で事の顛末を見守っていた琴音が、怒りに頬を紅潮させ、ささくれ立った声で怒鳴る。

そんな彼女へ振り向きざま。志狼は頬についていた返り血を右手の甲で乱暴に拭った。


 「逃げる気なんざ更々ねぇや! そっちが多勢でくるんなら……」


 「―― こっちにだって考えがあるぞ?」


 志狼が背にする橋脚の陰から突如響いたのは、志狼とは全く違う声色。

志狼を追って河原を走る康二郎や黒づくめ達の足が、ピタリと止まる。


 「その声……まさかてめぇ、っ!」


 「そのまさかだ。よくも俺達をたぶらかしてくれたな?」


 「なにが水難の相よ、人の事馬鹿にしちゃってさ!」


 橋脚の向こうから新たに響いた甲高い声、それを聞いた途端、琴音は眉根を寄せて唇を噛む。

漆黒の大木のようなそこから音もなく飛び出したのは、腰に太刀を下げた朱王と右手に朱色の組紐を巻き付けた海華だった。

腰に下がった黒漆塗りの鞘が、夕日を反射し宝石の如き煌めきを放つ。

躊躇することなく、刀の柄を握った朱王はスラリと刀身を引き抜き、切先を康二郎へと向けた。


 「ここで退くか、それとも死ぬか、どっちだ?」


 『お前に選ばせてやる』そう吐き捨てる朱王を前に、志狼は海華と視線を交わらせ互いに小さく頷く。 右手に持った組紐、その先に括られた細い銀の分銅を振り子のようにユラユラ揺らせながら、海華は高鳴る鼓動を宥めるように 大きく息を吐き出した。


 「退くか、死ぬか、だと? 」


 ククッ、と喉の奥で引き攣ったように笑い、 康二郎は持っていた太刀を構え直して朱王らを睨む。


 「そんなもの、答えるまでもないだろう。こっちにしては丁度いい、土産の首が二つ増えた。あとは……合わせ絵の有りかでも吐いてもらおうか?」


 ジリジリ三人との間を詰めてくる黒装束の集団。

康二郎の台詞を聞いた朱王は、無表情のまま束をしっかり両手で握る。

中段の構えをとった刹那、彼の黒髪が朱と橙が入り混じる空へ舞った。

疾風の如く飛び出した長身、康二郎の刀と朱王のそれが激しくぶつかり、鋼同士のかち合う重い音と共に白銀の火花が飛ぶ。

渾身の力を込めて繰り広げられる鍔迫り合い、殺気だった黒装束の男達の持つ刃の切っ先が朱王に向けられようとした時、志狼は力一杯地を蹴り、彼に追従するかのように海華手から紅い蛇が放たれる。


 「手加減するなッッ! 殺せ……三人まとめて喉笛切り裂いてやれッ!」


 朱王との鍔迫り合いを振り払って、康二郎は黒頭巾から覗く目を血走らせ、怒号を放つ。

気合い一発、白刃を振りかざして一人の黒装束が朱王に踊り掛かり、その背後では志狼が短刀を二本振り回しこちらに向かって突っ込んでくる黒影を向かい撃っている最中だ。

志狼の目がその男に向けられた、その一瞬の隙をついて彼の背後へ飛んだ一人の影が、志狼の襟首を思い切り鷲掴み、そのまま後ろへ引き倒す。

不意を突かれた志狼の身体が弓なりに仰け反り、驚きに見開かれた漆黒の瞳が背後にいる男を映し出した。


 表情など分かりはしない、ただ、黒頭巾の間から覗く小さな目が喜びに歪む。

大きく振り翳される鈍色の短刀。

しかしその凶刃は志狼の喉元に突き立てられる事はなかった。

ガツン! と耳元で響いた鈍い音と共に、 襟首を掴んでいた男の身体はまるで木偶人形のように真横へ吹き飛び、その反動で志狼も強か地面に叩きつけられる。

痛みに顔を歪ませながらも瞬時に立ち上がった志狼の目の前で、深紅の蛇が宙をのたうった。


 地面に倒れ伏し、白目を剥く黒装束のこめかみには猪口を伏せたような形の半円形の窪みが出来ている。

目の前を過ぎた蛇を追って、志狼は己の右側を振り返った。


 「すまねぇ、助かった!」


 そう声を掛けた相手は、夕焼け空を背にニコリと微笑む。

しなやかな指先で先端に煌めく分銅を括った深紅の組紐を操る海華は、組紐を手にその場を駆け出す。

彼女が向かう先、そこには朱王に群がる康二郎や二、三人の黒装束の姿があった。

嵐の如く康二郎から繰り出される凶刃の舞、その太刀筋を正確に見抜き踊るような身のこなしで一撃一撃を避ける朱王は、勿論反撃する事も忘れてはいない。

漆黒の鞘から抜かれた白銀の刃は数多の剣花を散らしながらも、一人、また一人と黒装束らを袈裟懸けに切り捨て、そして腕を、首を刎ね飛ばしていく。


 辺りに飛び散る血飛沫は流れゆく川を薄紅に染め、胸が悪くなるほどの生臭さをまき散らし河原の石をどす黒く染める。

最後に独り残った黒装束の足に海華が放った紅の蛇が絡み付き、その身体を河原に引き倒す。

その上に馬乗りになった志狼が漆黒の布で覆われた首元を一刀両断、頭が落ちるほどの深さで切り裂いたと同時、朱王が右斜め袈裟懸けに振り下ろした太刀が康二郎の胸板を掠め、冷えた空気にパッと微かな血霧が舞った。


 首を斬られた黒装束が最期の最期に放った断末魔の絶叫と、押し殺した康二郎の呻きが重なり川音に掻き消される。

胸を押さえて背後に飛んだ康二郎は、よろめきながらも太刀を構え、じりじりと後ずさる。

肩を使って大きく息を吐く彼の胸は斜めに避け、その傷口から滴る深紅の雫は足元の石に沢山の楕円模様を描いていく。

河原に点々と転がる黒い骸、それを一瞥した朱王は太刀を一度大きく振るって血を払い、鋭い目付きで康二郎を睨み付けた。


 「もう諦めろ。お前達……命を粗末にするな」


 厳しい表情とは裏腹、ひどく静かな声色で朱王が言う。

ふらつく康二郎の元へ駆け寄ってきた琴音は、 怒りに染まった眼差しを朱王へ投げ、前屈みで荒い息を吐く康二郎は一度その身を大きく震わせた。


 「だま、れ、っ! このまま、おめおめと逃げ帰れるか……このまま退くなどできるかぁぁぁッッ!」


 その場にいる者の鼓膜を突き破らんばかりの絶叫を放ち、康二郎は顔を覆っていた黒頭巾をかなぐり捨てる。

そんな彼の右手の手甲の中から鶉の卵ほどの大きさがある黒い球が二つ転がり出たかと思うと、彼はそれを頭巾と共に渾身の力を込めて朱王の足元へと投げ付けたのだ。


 「アッ……! 危ねぇッッ!」


 その球を目にした途端、志狼は大きく目を見開き朱王へ飛び掛かると、先ほど自身がされたように彼の衿首を鷲掴み己の方へと引き倒す。

全ては一瞬の出来事だった。

ゆっくり背後へ倒れる朱王の足元に落ちた球は、石の一つにぶち当たった瞬間目も眩むような白い閃光を放つ。

三人の網膜に焼付く眩い光、次の瞬間、ドーンッ!と辺りを揺るがす爆発音と共に周囲は真っ白な煙に包まれ、海華は全身を襲う衝撃にその場から弾き飛ばされる。

ごつごつとした石に身体を打ち付け、痛みに歯を食い縛る彼女は一体何が起きたのかすらもわからない。 全身を包むのは生臭い血潮と苦い火薬の臭いだけ。

慌てて身を起こした彼女の視界は濛々と立ち込める白煙に閉ざされ、朱王も志狼の姿も全く見えなかった。


 「にぃ、様……っ!? 志狼さんっ!! ど こに行ったの!?」


 組紐を手に巻き付けたまま、海華は必至の形相で二人がいたであろう場所へ足元をよたつかせながら必死に走る。

彼女の頭の中には、既に康二郎の事もお琴の事もきれいに抜け落ちていた。

チリチリと目にしみる白煙、目尻に涙を浮かべて噎せ込みながら手探りで二人を探す彼女の視界に、重なり合う二つの人影が飛び込んでくる。

声にならない悲鳴を上げ、その影へと駆け寄った海華の前で、人影は緩慢な動きで蠢いた。


 「志狼さんッ! しっかりして……ねぇ、兄様もっ!」


 朱王の上に覆い被さった志狼の身体を抱き起こし、必死に揺さぶれば、彼は顔をしかめながらこめかみ辺りに手を当てる。


 「ねぇ、しっかりして……大丈夫?」


 「あぁ、……平気だ。それより朱王さんは?」


 「大丈夫、だ……」


 立ち込める煙と自信を襲った衝撃に軽く頭を振って身を起こした朱王は、すぐに落ちていた太刀を手に取り周囲を見渡す。

未だ曇ったままの視界、康二郎と琴音の二人はどこへ行ったのか、再び不意をついての襲撃を恐れて身構えつつ辺りを見渡した三人。

次第に白煙が消え、ぼんやりと煙る風景の中にあるのは、骸と化し河原に転がる黒装束達だけ、橋脚の向こうを見渡しても二人の姿はどこにもない。


 まるで今の爆発に巻き込まれたかのように二人は姿を掻き消してしまったのだ。


 「……逃げたのかしら?」


 右手に巻いていた組紐、そこから垂れる分銅を弄びつつ海華は小首を傾げて志狼を見る。

しかし彼は小さく首を横に振って朱王と共にもう一度周囲に目を走らせた。

あれだけの殺気を放っていた男が、あれだけ執拗に自分達を襲った男が、こうあっさりと諦める筈がない。 尻尾を巻いて逃げ出す筈がない。


 互いに背中を合わせるように立ち、ゆっくり視線を河原に向ける二人。

朱王の目は、自然と河原に転がる黒装束の数を数え始めた。

橋脚の端に一人、そして大人が一抱えもある岩の傍らに一人、朽ちかけた作業小屋の前に一人……。

心の中で数を数える朱王は、突如体の動きをピタリと止めた。


 「―― おい、志狼……!」


 「なんだ? 朱王さ……どうしたっ!?」


 急に緊迫感を増す朱王の声に、志狼は弾かれたように彼へと振り返る。

『死骸が一つ多い!』と、掠れ声で朱王が叫んだと、ほぼ同時だった。


 肩越しに聞こえる、ビュッ!と風を切り裂く鋭い音、次に響いたドン!と肉を打つ鈍い衝撃音と共に、志狼に背中を向けて立っている海華の身体が斜めに傾ぐ。

操り手を失った人形のように志狼へと倒れ込む海華の身体。

驚きの表情のまま、大きく大きく見開かれた瞳が小さく揺れる。

弓なりに反る背中、ほとんど無意識のまま彼女を抱き留めようと腕を伸ばした志狼の目に映ったのは、彼女の胸に一本突き刺さった、鈍い輝きを放つ苦無くないだった。


 「え、っ……?」


 腕の中に倒れ込んでくる細い身体を呆けたような顔で受け止めた志狼。

沈み行く夕陽を受けて煌めく鉄製苦無の向こうで、地面に付していた骸と、朽ちた小屋に足を半分突っ込み息絶えていた筈の黒装束がバネ仕掛けの如くに跳ね上がる。


 「貴様も仲良くくたばれッッ! 」


 一瞬凍り付いた空気を打ち壊した男の怒号……いや、明らかな歓喜を多分に含んだ絶叫を迸らせて、骸に化けていた康二郎は己が右腕を胸の辺りで思い切り真横へ振る。

ギュン! と空気が唸りを上げて捩れ、それを突き抜けて光る何かが真っ直ぐに、海華を必死で揺さぶる志狼へ向かって飛んでいく。

宙を飛ぶ凶器が志狼の首を貫こうとした刹那、

彼の前に躍り出た朱王の太刀が、目も眩まんばかりの火花と鼓膜が破れるけたたましい金属音を響かせ、それを打ち返した。


 きつく握った柄から伝わる骨を揺さぶる衝撃に朱王の顔が歪む。

くるくると宙を舞い、彼の目の前に落下したのは海華に刺さっているのと同じ苦無だ。

川原に広がる石の間に突き刺さるそれを目にした途端、朱王の目の前が赤く染まる。


 「くっ……そっ! 貴様……よくも……よくもぉぉぉッ!」


  胸を焼く激しい怒り。

身を震わすそれに突き動かされるかのように、そして怒髪天をつく勢いで彼は腹の底から絶叫を張り上げ太刀を振り翳して康二郎へ向かい突進していく。

柳眉を逆立て、夜叉羅刹の如きすさまじい形相で自分掛けて突っ込んでくる朱王に、康二郎は一瞬たじろぐ。

しかしすぐに両手に苦無を二本ずつ握り締め、腕を交差させるように前方へ力一杯振る。


 銀色の帯が四本黒い手甲をはめた手から放たれ、冷えた空気を切り裂く鋭い音を放って交差し朱王へ襲い掛かる。

そのうち一本は彼の着流しの肩を掠め、そしてもう一本は太腿の辺りを裂いて鮮血の玉が飛び散る。

しかし彼の足は止まらなかった。

『死ねっ!』そう喉の奥から悲鳴に似た叫びを上げてもう一度、骸の傍らに落ちていた太刀を握った康二郎が朱王を迎え撃つ。

ぶつかる二つの肉体と二本の刃。

ガン! ドン! と激しい打ち合いを繰り広げる二人の姿は、もはや常人の目には追い付かないだろう。


 真横に振られた刃をすんでところで交わした朱王は、流れる黒髪を振り乱し高く掲げた太刀を一刀のもとに振り下ろす。

康二郎の右肩辺りが縦一線に切り裂かれ、彼は埃に汚れた顔を苦痛に歪ませる。

その隙をついて、朱王は刀を瞬時に握り直し康二郎の腹を田楽よろしく深々と一刺し突き刺した。


 ブツ、と鈍い音、肉の抵抗で重く変わる凶刃。

鍔の部分まで深く深く刺し貫抜かれた康二郎の背中には、粘つく血潮に塗れた一本の刃がそそり立つ。

朱王の肩辺りに顔を置く形となった康二郎、その顔は自身に何が起こっているのかわからない、といった様子で大きく目を見開き、半開きの唇が小さく戦慄く。


 朱王の手が、その大柄な身体を突き飛ばすように刃を抜いたと同時、康二郎は『ぐぇ』と一度低く呻いたまま、石の転がる河原に仰向けに煽れ込んだ。


 ドシン……と足元から感じる地響き。

口から血を吐き、両目を見開いたまま動かなくなった彼を全身で息をし冷たい眼差しで見下ろす朱王。

そんな彼を、そして動かなくなった康二郎を驚愕の眼差しで凝視する一人の女、琴音は一歩、二歩とその場を後ずさり、やがて踵を返すと脱兎の如くその場から逃走する。


 しかし、彼女の逃走を朱王が許す筈はなく、彼は足元に転がっていた赤ん坊の頭ほどある石を掴み取り、逃げて行く琴音目掛けて力一杯投げ付ける。

真っ直ぐに、唯真っ直ぐに河原を飛ぶ石は、琴音の後頭部、ちょうど首と頭の境目辺りを直撃する。

ガツン! と些か鈍い音と同時に、琴音は顔面から河原に倒れた。


 彼女が動かないのを確認した朱王は、血に濡れた抜き身を握ったまま素早く背後を振り返る。

沈みゆく太陽が彼の影を長く長く河原に刻み付け、彼の影の先には、動かない海華を胸に抱き、その場にへたり込む志狼の姿があった。


 「海華……おい、海華……嘘だろ? おい、おいッ!」


 薄い瞼を閉じたままぐったりとその身を投げ出す海華。

彼女の胸には、まだ苦無が突き刺さったままだ。

張り裂けんばかりに目を見開き、必死に彼女の名前を呼んで激しく身体を揺さぶる志狼の声は、更に悲痛さを増していく。


 「起きろッ! 海華……目ぇ開けろっ! 海華! 嫌だ……おい! 起きろ ――ッッ!」


 うぉ――ッッ! と獣の如き咆哮を張り上げる志狼の瞳から、パラパラと涙の粒がこぼれ落ちる。

そんな彼を前に、血がにじむほど唇を噛み締めた朱王は抜き身を握ったまま大股に二人へと歩み寄る。

そして、血の気の失せた顔で横たわる海華の胸に刺さった苦無を左手で握り締め、渾身の力でその胸から引き抜いた。


 ガクン、と身体が仰け反り、薄い胸から苦無が抜き去られる。

縦に裂けた着物の胸元、一筋の血も流れないその傷痕に志狼の涙が滴り黒いシミを作り出していく。

紅蓮の夕陽は空の彼方に沈み、三人を薄い闇が包む。

グッタリと四肢を投げ出す海華を渾身の力で抱き竦めて何度も彼女の名前を呼ぶ志狼の慟哭はますます激しいものに変わり、二人の傍らに膝をついてしゃがみ込む朱王の肩も小刻みに震え始めた。


 目の前に広がる光景がいまだに信じられない、受け入れる事などできない。

だって、彼女は今しがたまで生きていたのだ。

朱王の手のひらが、海華の頬をそっと包み込む。

温かい、まだほんのりと温かい。

それなのに……。


 「みは、な……」


 名前を読んでも彼女は目を開かない。

それ以前に、朱王の呼び掛けは志狼の嗚咽に簡単に掻き消されてしまう。

海華が死んだなんて認めない、涙なんか出てこない。

ただただ何度も彼女の名前を呼び、頬を擦り、投げ出された手を握る。

肩の傷口から腕を伝って流れる鮮血が、彼女の手のひらを紅く汚した。


 「海華ぁ……海華……頼む、頼むから、起きてくれ、なぁ、なぁ、ッ!」


 身も世もなく泣きじゃくり、海華の身を掻き抱いて川原に伏す志狼。

悲痛にまみれた泣き声は川面を渡る風に乗り、流れる水に混ざって下流へと消えていく。

薄い唇を血が滲むほどに強く噛み締めた朱王が、きつくきつく両目を閉じる。


 フッ、と朱王の手から柔らかな温もりが消えた。


 驚いて弾かれるように瞼を開いた朱王。

彼の目の前には涙に咽ぶ志狼の背中がある。

そして、さっきまで自分の手中にあった海華の手が、彼の前でゆるゆると持ち上がり、小刻みに震える志狼の背中を掠るように撫でたのだ。


 「いた……い……」


 ひどく掠れた弱々しい声が志狼の嗚咽に混ざり朱王の耳に届く。

まさか、そう思いつつ彼の背中で動く白い手を見た朱王は、もう一度よく海華の顔を見ようと志狼の肩に手を掛け彼を退かそうとする。

しかし志狼は朱王の手を身体を揺すって乱暴に払い除けた。


 「志狼……志狼! 退け、そこを退け!」


 「うるせぇ、ッ! うるせぇぇ ……ぇッ!」


 「いいから早くそこを退けっ!」


 固く海華を抱き締め嫌々と首を振る志狼から半ば無理矢理海華を奪い取って、朱王は彼女の顔を覗き込む。

薄闇の中でよくよく目を凝らすと、先程まで眠っているように無表情だった彼女の顔が苦しげに歪み、朱王の目の前で眉間に僅かだが皺が寄るのが見える。

『生きてる……』と、無意識に朱王の唇が動いた。


 「生きてるぞっ! 生きてる……! 海華ッッ! おい、おい海華っ!」


 胸に抱いた彼女の身体を激しく揺さぶり、何度も彼女の名前を叫ぶ朱王を、涙で顔を汚した志狼は唖然とした様子で見詰めていた。

しかし、朱王に抱かれた海華の閉じた瞼がヒクヒクと蠢いたのを目の当たりにした刹那、彼は飛び付くように彼女を覗き込む。


 『助かってくれ』そう祈るような気持ちの二人の前で、海華は静かに、そして緩慢にその瞼を開いたのだ。


 「海華……! おい、わかるか!? わかるのかっ!?」


 「し、ろ……さん? にぃ、さ……ま」


 光を失った弱々しい眼差しが二人へ向けられる。

無意識にだろう、起き上がろうとして地面に手を着く彼女を河原に座らせるように抱き起した朱王と、彼女の頬に手を当て自分の方を向かせる志狼。

泣きに泣いて兔の目の如く充血した目で見詰められ、海華は僅かに顔を顰めた。


 「志狼、さん……。大丈夫? 怪我は……」


 「大丈夫だ、大丈夫……よかった、よかっ、た……」


 悲しみの涙ではない、歓喜の涙を溢れさせ、もう一度彼女を右腕一本で強く抱き締めた志狼は、彼女の肩口に顔を乗せ、まるで涙を拭うように顔を擦り付ける。

息が詰まるほど抱き締められた海華は、両腕で軽く彼の身体を押して一度身を離し、朱王へと顔を向けた。


 「兄様、血が……」


 朱王の裂けた肩口を見て、海華が呟く。

この時、彼は初めて自分が怪我をした事に気付いたのだ。


 「あぁ、平気だこのくらい。それよりもお前、どこも怪我はないのか?」


 一見したところ目立った怪我はない。

彼女自身も戸惑いがちに自分の胸元をまさぐった。

そして大きく裂けた胸の間を肌蹴るように左右に開くと、そこから何かを引っ張り出す。


 「コレが、助けてくれたのね……」


 手のひらに乗せたモノを見て、彼女はポツリと呟く。

彼女の視線の先にあるモノを朱王と志狼はほぼ同時に覗き込み、そしてほぼ同時に驚きの表情を浮かべてハッと息を飲む。

彼女の手のひらにあったのは、いつも志狼が身に着けていたあの御守袋、もとよりボロボロだったそれには、苦無が突き刺さったためだろう、強烈な力で乱暴に引き裂いたように大きな縦長の穴が開いていた。

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